追悼コービー・ブライアント /神と呼ばれた男を継ぐ者
日本時間2020年1月27日、プロバスケットボールのスーパースター、コービー・ブライアントの訃報が届きました。1996年から2016年までロサンゼルス・レイカーズでプレイし、神と呼ばれた男が引退したNBAを支えていきました。史上最高のスコアラーの一人で、厳格で強烈なリーバーシップを発揮し、チームを5度の優勝に導きました。コービーの突然の死に、誰もが驚きショックを受けました。
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86年にNBAを引退するとイタリアのプロリーグに移籍し、コービーもイタリアに移り住むことになりました。コービーは父親の背中を見てバスケットを学び、このことが彼の人格に大きな影響を与えました。高校はアメリカの学校に進学し、ペンシルバニア州の最優秀選手に選ばれます。大学からスカウトが大量に来ますが、コービーはプロになることを希望しました。
96年のドラフトで、コービーは全体13位で指名を受けました。1位はアレン・アイバーソンで、この年は豊作の年と呼ばれることになります。そしてコービーはアイバーソンに、気が狂うほどの嫉妬を覚えることになります。
後にコービーは、当時の心境をエッセイに記しています。
高卒のコービーと大学2年を終えてプロ入りしたアイバーソンでは、体のつくりが違います。しかしコービーは狂信的なまでにアイバーソンへの嫉妬に取り憑かれ、全てのマッチアップに命をかけると誓ってハードワークを続けていきました。コービーは急速に力をつけて、2001年には2人の炎が出るような激しいマッチアップが話題になりました。
インサイドで絶大な力を発揮するシャックと、アウトサイドで変幻自在なプレイをし、1on1で圧倒的な強さを発揮するコービーのコンビは、どのチームにとっても驚異でした。しかしチームはプレイオフで敗退し、レイカーズは名将フィル・ジャクソンを招聘しました。ジャクソンはその指導力で、シャックとコービーを共存させました。しかし2人の活躍が目立てば目立つほど、2人の不仲説が噂されるようになります。
99年のシーズンでレイカーズは快進撃を続けてプレイオフファイナルまで進みますが、第2戦で足首を捻挫してしまい、第3戦はベンチで試合を見守るしかできませんでした。コービー不在のチームはシャックが大暴れして快勝すると、第4戦にコービーは強行出場します。延長でファールアウトになってしまったシャックに代わり、足を引きずりながら次々に得点を重ねたコービーは第4戦の勝利の立役者になりました。そのままレイカーズが優勝を決めると、コービーはスーパースターの仲間入りを果たしました。
その後レイカーズは3年続けて優勝し、黄金期を迎えます。コービーはNBAを代表するスーパースターの座に就きますが、もう1人のスーパースターのシャックとの確執は日増しに大きくなっていきました。そして三連覇の偉業はチームに慢心と気の緩みを招き、レイカーズの凋落が始まります。コービーとシャックは必要なこと以外は口をきかなくなり、もはや修復不可能な域に達しました。2004年に、コービーはチームにシャックと自分のどっちを取るかと迫り、シャックは移籍することになりました。
これには2人の生い立ちが影響していました。コービーはプロ選手だった父親の姿を見て育ちました。スター選手ではなかった父は、努力を怠ることはなかったのですが、何度もプロ生活の危機を迎えました。コービーにとってNBAで戦うということは、一切の妥協を捨ててバスケットに打ち込んでも、いつ足元が崩れるかわからない厳しい世界に身を置くということでした。だからコービーは24時間バスケットのことを考え、常に努力を怠りませんでした。仲間もプロの選手であり、誰もがそのように努力することは当然だと思っていました。
一方でシャックは父親の顔を知らず、軍人だった叔父に育てられました。シャックを我が子のように愛した叔父は、常に仲間の大事さを教えていきました。特に小学生ながら2mを越す巨体になると、バスケットでも他のスポーツでも無敵になりますが、叔父は仲間の大事さを強く言うようになります。軍では1人では何もできません。仲間の信頼とバックアップがなければ、戦場では命を落とすのです。仲間を大事にし、自分も大事にされる存在にならなくてはならないと教え続けました。
人並み外れた巨体のシャックは、初めて会った人から距離を置かれることがありました。だから笑顔を振りまき、ウイットなジョークを学び、皆を楽しませる努力を怠りませんでした。シャックにとってパーティを開いてチームメイトを楽しませることは、練習で汗を流すのと同じくらい大事なことだったのです。
コービーから見ると、シャックはバスケットを大事にしていないように映り、シャックにはコービーが仲間を大事にしていないように映りました。お互いの考えは水と油のように交わらず、理解しあえないままシャックはレイカーズを去りました。
女性はキスと抱擁はOKしたが、コービーは自分の頭を壁に押しつけてレイプしたと主張し、コービーはあくまで合意のもとだったと真っ向から対立します。女性はオーディション番組に出るなど芸能人志向の持ち主で、地元ではちょっとした有名人でもありました。コービーの弁護士は、彼女が自殺を図ったこともあり精神的に不安定であることや、コービーにレイプされたという時期に3日間で3人の女性と関係を持っていたことを暴露して、泥仕合の様相になっていきます。
裁判は約1年に渡りますが、検察が訴えを取り下げて事件は収束しました。原告の女性が、これ以上は続けられないと言い出したための判断ですが、女性側の証言に矛盾点が多く指摘されて不利な状況になってきており、レイプがあったかどうかはうやむやなままになりました。コービーは謝罪を表明し、事件は終焉しました。
チームを率いていく中で、さまざまな経験をしたコービーはシャックと和解しています。彼とロッカールームで長時間の会談を持ち、シャックの偉大さを認めました。元々、互いのバスケット能力は認めていて、チームに対するあり方が合わない2人でしたから、腰を据えて話すと和解も早かったようです。黄金時代を築いた2人は、長年にわたる確執に終止符を打ち、互いの偉大さを認め合う仲になりました。
故障が続き限界を感じたコービーは、2016年に引退を表明しました。神と呼ばれたマイケル・ジョーダンの引退後、NBAバスケット人気を牽引した最大の功労者の1人で、数々の記録を残したコービーは偉大な足跡を残してコートを去りました。
突然のヘリコプター事故による死は大きな衝撃を与え、1月26日の試合ではコービーの背番号24にちなんで、わざと24秒のバイオレーションを犯すチームが多く見られました。シャックを始め、多くの人々が追悼のコメントを出していて、ファンの涙を誘っています。
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事故の概要
現地時間1月26日午前10時頃、ロサンゼルス郊外にヘリが墜落炎上しました。乗客乗員の9名の死亡が確認され、乗客の中には元NBAのスター選手コービー・ブライアントと次女のジアーナちゃん(13歳)も含まれていました。ジアーナちゃんが所属するバスケットボールチームの試合に向かうところだったと報じられています。事故当時は濃い霧が出ており、原因になったのではないかと言われています。国家運輸安全委員会が調査を開始しており、事故の詳細が待たれます。生い立ち
1978年、ジョー・ブライアントの息子としてアメリカで生まれました。ジョーはNBAの選手で、コービーは父親の練習や試合について回ってバスケットボールに興味を持つようになります。ジョーはスター選手ではなかったものの、75年から86年にかけて3つのチームを渡り歩いてキャリアを築きました。※高校時代のコービー |
86年にNBAを引退するとイタリアのプロリーグに移籍し、コービーもイタリアに移り住むことになりました。コービーは父親の背中を見てバスケットを学び、このことが彼の人格に大きな影響を与えました。高校はアメリカの学校に進学し、ペンシルバニア州の最優秀選手に選ばれます。大学からスカウトが大量に来ますが、コービーはプロになることを希望しました。
レイカーズに加入
記者会見を開いてNSA入りを表明したコービーでしたが、高校を卒業したばかりの選手がNBAで活躍すると考えた関係者は皆無でした。ドラフト候補生の中では決して評価は高くありませんでしたが、ドラフト前のワークアウトでロサンゼルス・レイカーズのGMジェリー・ウェストに目をかけられてレイカーズ入りが決まります。※ドラフト時のコービー |
96年のドラフトで、コービーは全体13位で指名を受けました。1位はアレン・アイバーソンで、この年は豊作の年と呼ばれることになります。そしてコービーはアイバーソンに、気が狂うほどの嫉妬を覚えることになります。
後にコービーは、当時の心境をエッセイに記しています。
1996年の11月2日、アレン・アイバーソンはマディソンスクエアーガーデンでニックス相手に35得点を記録した。同じ日、俺は5分間のプレー時間で2得点に終わった。
宿泊先のホテルでアイバーソンの35得点を知った時、俺は我を失った。テーブルを吹き飛ばし、イスを投げ飛ばし、テレビを破壊した。そして、”ハードワークを続けよう”と誓った。
高卒のコービーと大学2年を終えてプロ入りしたアイバーソンでは、体のつくりが違います。しかしコービーは狂信的なまでにアイバーソンへの嫉妬に取り憑かれ、全てのマッチアップに命をかけると誓ってハードワークを続けていきました。コービーは急速に力をつけて、2001年には2人の炎が出るような激しいマッチアップが話題になりました。
シャックとの軋轢
レイカーズの大黒柱はシャキール・オニールでした。216cm、150kgのシャックはローポストの支配者であり、圧倒的な破壊力で得点を量産していました。98年ごろからコービーがスタメンとして活躍するようになると、コービーとシャックは名コンビとしてレイカーズの勝利に貢献するようになりました。※コービーとシャック(右) |
インサイドで絶大な力を発揮するシャックと、アウトサイドで変幻自在なプレイをし、1on1で圧倒的な強さを発揮するコービーのコンビは、どのチームにとっても驚異でした。しかしチームはプレイオフで敗退し、レイカーズは名将フィル・ジャクソンを招聘しました。ジャクソンはその指導力で、シャックとコービーを共存させました。しかし2人の活躍が目立てば目立つほど、2人の不仲説が噂されるようになります。
99年のシーズンでレイカーズは快進撃を続けてプレイオフファイナルまで進みますが、第2戦で足首を捻挫してしまい、第3戦はベンチで試合を見守るしかできませんでした。コービー不在のチームはシャックが大暴れして快勝すると、第4戦にコービーは強行出場します。延長でファールアウトになってしまったシャックに代わり、足を引きずりながら次々に得点を重ねたコービーは第4戦の勝利の立役者になりました。そのままレイカーズが優勝を決めると、コービーはスーパースターの仲間入りを果たしました。
※優勝トロフィーとコービー |
その後レイカーズは3年続けて優勝し、黄金期を迎えます。コービーはNBAを代表するスーパースターの座に就きますが、もう1人のスーパースターのシャックとの確執は日増しに大きくなっていきました。そして三連覇の偉業はチームに慢心と気の緩みを招き、レイカーズの凋落が始まります。コービーとシャックは必要なこと以外は口をきかなくなり、もはや修復不可能な域に達しました。2004年に、コービーはチームにシャックと自分のどっちを取るかと迫り、シャックは移籍することになりました。
不仲の背景
コービーはシーズンオフにパーティを繰り返し、体調を整えきれずにシーズンを迎えるシャックはあまりに不真面目だと思っていました。一方でシャックは、仲間と遊ぶこともなく、ただひたすら厳しいノルマを自分と仲間に課して、バスケット以外のことを全て排除しようとするコービーの姿勢に不満を感じていました。これには2人の生い立ちが影響していました。コービーはプロ選手だった父親の姿を見て育ちました。スター選手ではなかった父は、努力を怠ることはなかったのですが、何度もプロ生活の危機を迎えました。コービーにとってNBAで戦うということは、一切の妥協を捨ててバスケットに打ち込んでも、いつ足元が崩れるかわからない厳しい世界に身を置くということでした。だからコービーは24時間バスケットのことを考え、常に努力を怠りませんでした。仲間もプロの選手であり、誰もがそのように努力することは当然だと思っていました。
※コービーと父ジョー・ブライアント |
一方でシャックは父親の顔を知らず、軍人だった叔父に育てられました。シャックを我が子のように愛した叔父は、常に仲間の大事さを教えていきました。特に小学生ながら2mを越す巨体になると、バスケットでも他のスポーツでも無敵になりますが、叔父は仲間の大事さを強く言うようになります。軍では1人では何もできません。仲間の信頼とバックアップがなければ、戦場では命を落とすのです。仲間を大事にし、自分も大事にされる存在にならなくてはならないと教え続けました。
※DJを行うシャック |
人並み外れた巨体のシャックは、初めて会った人から距離を置かれることがありました。だから笑顔を振りまき、ウイットなジョークを学び、皆を楽しませる努力を怠りませんでした。シャックにとってパーティを開いてチームメイトを楽しませることは、練習で汗を流すのと同じくらい大事なことだったのです。
コービーから見ると、シャックはバスケットを大事にしていないように映り、シャックにはコービーが仲間を大事にしていないように映りました。お互いの考えは水と油のように交わらず、理解しあえないままシャックはレイカーズを去りました。
女性スキャンダル
NBAのスーパースターとして絶大な人気を得ていたコービーですが、女性スキャンダルにより一気に批判の的になりました。2003年、コロラド・ホテルに勤務する女性がコービーにレイプされたと訴えを起こしたのです。コービーは逮捕され、女性との関係を認めましたが、合意のもとだったと主張しました。保釈されたコービーは裁判のために練習を休み、試合中にはブーイングに悩まされます。しかし恐ろしいまでに集中力を見せたコービーは、最高の出来ではないものの高いアベレージをキープしていきました。※妻のヴァネッサさんと会見を行うコービー |
女性はキスと抱擁はOKしたが、コービーは自分の頭を壁に押しつけてレイプしたと主張し、コービーはあくまで合意のもとだったと真っ向から対立します。女性はオーディション番組に出るなど芸能人志向の持ち主で、地元ではちょっとした有名人でもありました。コービーの弁護士は、彼女が自殺を図ったこともあり精神的に不安定であることや、コービーにレイプされたという時期に3日間で3人の女性と関係を持っていたことを暴露して、泥仕合の様相になっていきます。
裁判は約1年に渡りますが、検察が訴えを取り下げて事件は収束しました。原告の女性が、これ以上は続けられないと言い出したための判断ですが、女性側の証言に矛盾点が多く指摘されて不利な状況になってきており、レイプがあったかどうかはうやむやなままになりました。コービーは謝罪を表明し、事件は終焉しました。
その後のコービー
シャックがいなくなったレイカーズで、強いリーダーシップを発揮したコービーは、怪我を抱えながらも次々に記録を塗り替えていき、NBAファイナルで二連覇を達成して5度の優勝を経験しました。マイケル・ジョーダンの2度の三連覇、6度の優勝に追いつけなかったのが後悔として残るようですが、最多得点記録などいくつもジョーダンの記録を追い抜いていきました。チームを率いていく中で、さまざまな経験をしたコービーはシャックと和解しています。彼とロッカールームで長時間の会談を持ち、シャックの偉大さを認めました。元々、互いのバスケット能力は認めていて、チームに対するあり方が合わない2人でしたから、腰を据えて話すと和解も早かったようです。黄金時代を築いた2人は、長年にわたる確執に終止符を打ち、互いの偉大さを認め合う仲になりました。
※引退式でのコービー |
故障が続き限界を感じたコービーは、2016年に引退を表明しました。神と呼ばれたマイケル・ジョーダンの引退後、NBAバスケット人気を牽引した最大の功労者の1人で、数々の記録を残したコービーは偉大な足跡を残してコートを去りました。
まとめ
コービーはジョーダン引退後の最大のスターの1人でした。引退と同時にネクスト・ジョーダンは誰かという問いが始まりましたが、その答えはコービーだったと多くの人が言っています。困難な場面で見事なシュートを決め、チームに希望を与え続けたコービーは多くの選手の手本になっています。※コービーの家族。右端がジアーナちゃん |
突然のヘリコプター事故による死は大きな衝撃を与え、1月26日の試合ではコービーの背番号24にちなんで、わざと24秒のバイオレーションを犯すチームが多く見られました。シャックを始め、多くの人々が追悼のコメントを出していて、ファンの涙を誘っています。
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マイケル・ジョーダンは何が凄かったのか /映像に残らない部分
デニス・ロッドマン /破滅的なリバウンド王
安価すぎた最高の選手 /時代に翻弄されたスコッティ・ピッペン
6月のNBAドラフトに注目 /八村塁は3人目のNBA日本人プレイヤーになるか?
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