安価すぎた最高の選手 /時代に翻弄されたスコッティ・ピッペン

2004年に引退したバスケットボール選手のスコッティ・ピッペンは、当時のNBA選手としては最高の部類に入りながら、あまりに安価な選手として有名でした。時代と事情によって安すぎた年俸は、モチベーション低下やトラブルの原因にもなりました。今回はNBAのスタープレイヤーの中では、かなり変わったキャリアのピッペンを振り返りたいと思います。



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ワンマンレスキューと呼ばれた男

90年代のNBAバスケットは、神と呼ばれたマイケル・ジョーダンがスーパースターとして君臨し、所属するシカゴ・ブルズが黄金期を迎えました。そのジョーダンのチームメイトで、ジョーダンの相棒として名高かったのがピッペンでした。ピッペンの能力は「ジョーダンにできて、ピッペンにできないことはないのでは?」「むしろディフェンスだけならジョーダンよりピッペンの方が上」と言われるほどで、ジョーダンと同等かそれ以上と見られていました。

※ジョーダン(左)とピッペン


特にディフェンスではワンマンレスキューと呼ばれ、1人で相手チーム5人を抑え込むと言われたほどでした。そのためピッペン1人がいるだけで、相手の攻撃は困難になりました。ジョーダンを抑えるために、ダブルチームにつくとピッペンがフリーになってしまいました。そこでピッペンにつくと、今度はジョーダンがフリーになってしまいます。常にブルズの対戦相手は、ジョーダンとピッペンのコンビに悩まされていました。ブルズの後期スリーピート(三連覇)は、ピッペンがいなければできなかったとジョーダンは最大限に評価しています。

貧困との戦い

1965年、アーカンソー州の田舎で12人兄弟の末っ子として生まれたピッペンは、兄達に可愛がられて育ったそうです。家は貧しく兄達は少年になると働いて家計を助けていましたが、仕事中に父親が脳出血で倒れて全身が麻痺してしまうと、生活はさらに困難になりました。それでも兄達は、末っ子のピッペンだけは学校を卒業させようと支援し、ピッペンはなんとか高校生活を送れました。



高校に通いながらアルバイトを掛け持ちし、満足な食事も摂らない生活だったため、ガリガリに痩せて背も高くはなかったそうです。高校のバスケットボール部に入ると、あまりの細さにレギュラーになることは出来ず、マネージャーのような仕事をしていましたが、徐々に非凡な才能が開花していきます。高学年になってレギュラーとして試合に出ると、類まれな視野の広さで試合をコントロールしました。

大学からの勧誘がなければ体育の教師として働こうと思っていたピッペンに、どの大学からも勧誘はありませんでした。しかし当時のコーチがピッぺんの才能を惜しんで奔走し、アーカンソー中央大学に欠員が出たことを知るとピッペンを推薦して、奨学金付きで進学することができました。こうして幸運にもピッぺんは大学への進学が決まります。

大学でも地味な選手

奨学金を得たとはいえ、ピッペンの生活は相変わらず厳しいものでした。ベビーシッターや家具の組み立てなどのバイトを掛け持ちし、バスケットボールと勉強をこなす多忙な日々でした。しかしようやく腹一杯ご飯を食べられるようになったため、大学1年で身長が15cm以上、体重は30kgも増え、2m 100kgのバスケット選手らしい体格になりました。するとピッペンの才能が開花していきます。

大学では不動のレギュラーになり、得点を量産するだけでなくアシストも群を抜いていきます。アーカンソー中央大学は、ピッペン抜きでは勝てないほどピッペンの存在感が増しました。しかし強豪校でもなく大学リーグの中ではマイナーなリーグだったため、プロから注目されることはありませんでした。

当時、中堅チームだったシカゴ・ブルズのGMジェリー・クラウスは無名で将来有望な選手を探すべく、全米のマイナーな大会にも顔を出していました。そんな時、アーカンソー中央大学の関係者から、1人だけ特別な選手がいると言われてピッペンの試合を見ました。荒削りですぐにプロのコートは無理ですが、未開の才能を秘めていると感じたクラウスは、ドラフト会議でピッペンを指名することにしました。クラウスにとって、ピッペンはお買い得品に見えたのです。

予想外のドラフト上位指名

ドラフト指名される可能性がある選手が集められたキャンプにピッペンも参加すると、そこで活躍して注目を集めます。サクラメント・キングスもピッペンに注目し、指名の可能性を示唆しました。これにブルズは慌て、5位の指名権を持つスーパーソニックスにピッペンを指名してもらい、トレードする交渉を行います。こうしてピッペンは、ドラフト一巡目5位で指名されました。

多くの関係者は「ピッペンって誰だ?」と驚き、テレビ中継の解説者も初めて聞く名前だと首を傾げました。何より驚いたのはピッペンです。なんとか体育の教師になって家計を助けようと頑張っていたら、プロチームに上位で指名しれたのです。ドラフトはピッペンの人生の転機になりました。そして彼の人生を変えることがシカゴ・ブルズに待っていました。マイケル・ジョーダンとの出会いです。

※神と呼ばれたマイケル・ジョーダン


ピッペンと初めて練習をした時に、ジョーダンは自分と同じ才能を持った選手にようやく出会えたと感じたそうです。だからジョーダンは徹底的にマンツーマンで鍛え上げることにしました。ジョーダンはチームメイトにとんでもなく高い目標を設定させていましたが、ピッペンには特別に高い目標を設定させました。ジョーダンのやり方はやや横暴でしたが、不満はありませんでした。ジョーダンはさらに高い目標を自分に課し、それを達成していたからです。

安い契約金

大学では全米クラスの活躍をしていないピッペンは、極めて安い年俸で契約しました。しかし腹一杯食べて家族に仕送りできるお金を得たピッペンは満足でしたし、そもそも年俸に不満を覚える暇もないほどプロの生活はハードでした。毎日、倒れるまでジョーダンにしごかれ、チームからは喋り方や人との接し方などマナー講習を受けさせられました。当時のピッペンは、労働者階級の荒っぽい粗野な男だったのです。



チームでは全てを犠牲にして、献身的にチームに尽くす姿勢が求められます。それができなければ解雇され、新人に席を譲ることになります。ピッペンはとにかく自分の席を奪われないように必死でした。チームはジョーダンの活躍でプレイオフに進出しますが、ピッペンは悪名高いデトロイト・ピストンズのバッドボーイズらに激しいラフプレイを受けて、ボロボロにされます。しかしこれが彼を鍛えました。一度は激しい偏頭痛に襲われ試合をキャンセルしましたが、タフネスを身につけて帰ってきました。

再契約の選択

ブルズになくてはならない存在になったピッペンは、91年にブルズと再契約します。チームは200万ドル(現在のレートで2億円)の最高額を提示しますが、ピッペンは金額より長期契約を求めました。家族を守りたい想いと、怪我が多発していて長期間働けない不安を感じていたピッペンは、7年間の契約を求めました。ブルズは2年契約を求めますが、最終的に7年間で毎年200万ドルで決まりました。この契約が、後にトラブルの種になります。

※フィル・ジャクソンとピッペン


当時としては200万ドルは最高額でしたが、NBAは世界的人気が高まりつつあり、特にジョーダンがいるブルズは人気チームでした。年俸は高騰し、この後ブルズが3連覇を達成するとチームの契約金は天文学的に跳ね上がりました。90年代半ばには、ピッペンの200万ドルという年俸は控え選手並みになり、90年代後半にはルーキーより安い金額になってしまいます。ピッペンの実力とチームへの貢献度は、年俸1000万ドル(約10億円)の選手より高いものでした。ピッペンは再契約を求めますが、チームはそれを拒否しました。

ピッペンの不満は溜まり、フロントとの確執がニュースになりました。トレードを口にすることもありましたが、ジョーダンに強く反対されます。後にジョーダンは引退を口にした時、引退を撤回する条件にピッペンの契約の見直しを持ち出したこともありますが、ブルズが拒否したので引退を決めました。これでピッペンはブルズを去る決意をします。

トレード

98年にピッペンはヒューストン・ロケッツに移籍します。年俸は1000万ドル(約10億円)でした。もう少し高くても良かったという声もありましたが、ピッペンの年齢を考えると妥当という声もありました。ピッペンは最も高値がつく時期に、安く自分を売ってしまったことになります。そしてロケッツのヘッドコーチは、ピッペンをどのように使って良いかわかりませんでした。最高のメンバーが揃ったと言われたロケッツですが、チーム成績は下降してピッペンはロケッツを離れることにしました。

※ロケッツのピッペン、バークレー、オラジュワン


99年にポートランド・トレイルブレイザーズに移籍したピッペンは、若手の層が厚かったため出場機会が激減しました。しかしピッペンは優勝経験のある大ベテランで、チームのキーマンになっていきます。要所要所で気迫あるプレイを見せてチームを奮い立たせていき、シーズンの流れを把握してチームを引っ張っていきます。トレイルブレイザーズは躍進してカンファレンス・ファイナルでロサンゼルス・レイカーズと激闘を演じました。2003年には古巣のシカゴ・ブルズに復帰し、2004年に引退しています。

目立たない最高の選手

ピッペンのチームメイトや対戦した選手は、口を揃えてピッペンに最大限の評価をします。特にディフェンスについては神がかっていて、ピッペンが一人いるだけで相手チームへのプレッシャーになっていました。またチームメイトの多くは「ピッペンがいれば、俺はもっと上手くやれる」と語っていたそうで、チームメイトを活かすプレイも最高レベルだったようです。ヘッドコーチのフィル・ジャクソンはピッペンのバスケットIQは、天才レベルだったと言います。なぜそれほどの選手が、あまり目立たず地味な存在だったのでしょうか。



一つはチームメイトにマイケル・ジョーダンがいたからです。神と呼ばれたジョーダンのそばにいれば、誰だってかすんでしまいます。それに加えて、オールラウンダーのピッペンの唯一の弱点はシュートでした。特にフリースローやアウトサイドからのシュートが苦手で、ジョーダンよりも常に少しだけ低い成功率でした。しかしアウトサイドでボールを持つことが多く、決定的な場面で決められないことが多かったのです。どんなに不調でも、決定的な場面ではシュートを決めてしまうジョーダンとは対照的です。そのためどうしても地味な印象がついてしまいました。

まとめ

90年代のスコッティ・ピッペンは最高峰の選手の一人で、誰もがうらやむ才能をまぶしいほど輝かせていました。しかしそのすぐ横にマイケル・ジョーダンという神がいたことで、あまり目立たない地味な選手になっていました。しかしジョーダンがいなければ、ピッペンがこれほどの才能を開花させていたかはわかりませんし、ブルズにいたからこそ何度もチャンピオンリングを手にすることができました。

高騰するNBAの年俸の中で、あまりに安い契約金で働いていたのは気の毒ですが、それも自分で選択したことです。90年代のNBAを振り返るとジョーダンが常に中心にいますが、その脇には必ずピッペンの姿があります。そして何よりチームメイトや敵のチームから評価された選手です。それがピッペンにとって最大の勲章だったのではないでしょうか。


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