アイルトン・セナはなぜ死んだのか

1994年5月1日、F1のスーパースターだったアイルトン・セナが死亡しました。私はこのニュースを広島のホテルで知り、しばらく茫然とした記憶があります。死亡の原因については諸説ありますが、当時は操縦ミスやマシントラブルだけでなく、自殺というのもまことしやかにささやかれていました。今回はF1史上に残る重大な事故の1つ、アイルトン・セナの死を書いてみます。そしてその死の原因を探っていきたいと思います。



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アイルトン・セナの略歴

セナは1960年、ブラジルのサンパウロに生まれます。幼い頃からカートレースを始め、17歳の時には南アメリカ・カート選手権で優勝しています。その後、イギリスに渡るとジュニア・フォーミュラに参戦して、21歳でチャンピオンになりました。23歳の時にはF3にステップアップし、20戦中12勝の最多記録でチャンピオンになります。ブラジルでの生活を希望する妻と離婚しての参戦でした。

※84年トールマンに乗るセナ

84年にトールマンからF1に参戦すると、名門のロータスに移籍し次々に表彰台に上るようになります。しかし予選で圧倒的な速さを見せつつも経験の少なさからレースでは波が大きく、優勝は少ない状態が続きました。しかし87年にはロータスがホンダのエンジンを獲得したことで、総合3位に入る健闘を見せました。さらに88年からはマクラーレンに移籍すると、チームメイトのアラン・プロストとレースを席巻します。マクラーレン・ホンダは16戦中15勝の圧倒的強さを見せ、セナは初のF1ワールドチャンピオンを獲得しました。特に総合優勝を決めた鈴鹿サーキットでのレースは、ポールポジションを獲得しながらスタートに失敗して13位からのスタートになってしまう波乱含みでした。しかし驚異的な速さを見せ、逆転優勝する様子は日本でも放送され大きな反響を呼びました。



プロストとの確執が表面化した89年はプロストとの接触で総合2位に、90年は再びプロストと接触事故を起こしてワールドチャンピオンを獲得しました。さらに91年もワールドチャンピオンを獲得して、黄金時代を築きます。しかし92年はウィリアムズ・ルノーが圧倒的な強さを誇るようになり、総合4位に終わりました。93年はホンダが撤退し、マクラーレンは苦戦を強いられることになります。セナ自身も勝率のワースト記録となってしまい、94年にはマクラーレンを離れてウィリアムズへの移籍を決めました。



94年の最初の2戦はリタイアとなり、第3戦のサンマリノGPは、ここからが自分の開幕戦だと意気込んでいました。予選1位を獲得しましたが、7週目にタンブレロ・コーナーの壁に激突して帰らぬ人になってしまいます。34歳、天才レーサーの早すぎる死でした。

94年のウィリアムズ

92年、93年を圧倒的な強さで勝ち続けたウィリアムズでしたが、あまりの強さにレースは始まる前から結果が見える退屈なものになっていました。ウィリアムズは長年にわたりアクティブサスペンションやトラクションコントロールを研究し、それがようやく花開いて圧倒的な強さを見せるようになったのですが、ウィリアムズが強すぎるためにFISAはこれらのハイテク技術を禁止にしました。

※94年のウィリアムズのマシン(FW16)

膨大な予算と年月をかけて開発し、成功したら禁止される不条理にウィリアムズは猛抗議しますが、FISAの裁定は変わりません。そのためウィリアムズは94年はアクティブサスペンションもトラクションコントロールもなしで戦うことになりました。ハイテクが禁止されたウィリアムズはシャーシに大幅な変更を加える必要が生じたため、新シャーシのFW16は開幕直前にようやく出来上がりました。しかし空力的にシビアで神経質なマシンは、セナもコントロールが難しいと嘆くありさまで、最初の2戦は結果が出ませんでした。ウィリアムズは勝てなくなっていました。そして焦っていました。

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サンマリノGPの展開

サンマリノGP予選1日目に事故が起こります。ジョーダンに乗るルーベンス・バリチェロが突然コントロールを失って縁石でジャンプし、タイヤバリヤを超えてフェンスに激突したのです。マシンは大破し、意識を失ったバリチェロは救急搬送されました。結果的には脳震盪と鼻骨骨折で済みましたが、一時は安否情報が混乱するほどの大事故で、バリチェロと親しかったセナは大きなショックを受けていました。

※バリチェロのクラッシュ

予選2日目には、新興チームのシムテック・フォードを操縦するローランド・ラッツェンバーガーが事故を起こします。ビルヌーブ・コーナーの手前でフロントウイングが脱落し、コントロールを失ったマシンは310km/hでコンクリートウォールに激突して病院に搬送されました。頑丈なカーボンモノコックが引き裂けるほどの大事故で、ラッツェンバーガーの体はマシンから露出し、頸椎が折れ、内臓のあちこちが破裂していてほぼ即死状態でした。

※ラッツェンバーガーのクラッシュ

予選ではセナが1位を獲得し、本戦が始まります。しかしスタート直後にJJレートが乗るベネトンのマシンがエンジンストールし、後方のマシンが追突する大クラッシュが発生しました。大破したマシンの破片やタイヤは安全ネットを超えて観客席に飛び散り、観客の9人が負傷しています。オフィシャルはセーフティカーを導入し、5周に渡って先導してサーキット上の片付けや観客の救護活動が行われました。

※JJレートのクラッシュ

6周目にレースは再開し、7週目のタンブレロ・コーナーでセナのマシンは突如コントロールを失い、コンクリートウォールに激突しました。赤旗が出されてレースは中断し、セナの救助が行われました。医療スタッフがセナをマシンから下ろす様子をヘリから撮影した空撮映像には、マシンの周辺に大量の血痕が映し出されていました。

※セナのクラッシュ

驚くべきことに、こんな事故が起きた後でもレースは再開されました。各レーサーは激しく動揺し、走れる状態ではない者もいました。取り乱したゲルハルト・ベルガーはリタイアし、優勝したミハエル・シューマッハはセナのすぐ後ろを走っていたこともあり、激しい動揺を見せていました。また残り10周の時点で、ピットレーンでミケーレ・アルボレートが操縦するミナルディのタイヤが脱輪するトラブルが発生しました。幸いアルボレートのマシンは無事に停車しますが、外れたタイヤがフェラーリとロータスのピットクルーに接触し、病院で手当てを受けることになります。一歩間違えれば、ピットレーンでの大事故になりかねないアクシデントでした。

※タイヤが外れたアルボレートのマシン

セナの死とサンマリノGPでの相次ぐトラブルは、世界中のメディアに批判されました。FISAは何度もレースを中止するタイミングを逃して商業主義を優先させた結果、2名の死者と観客を含む大勢の負傷者を出したという論調が世界中に広がりました。F1の安全神話は完全に崩壊し、危機管理の欠落が問題視されるようになります。94年のサンマリノGPは「呪われた週末」として、多くの人の記憶に刻まれました。

そしてセナの死には、さまざまな憶測が飛び交いました。神がかったドライビングテクニックを持つセナがミスをしたとは考えられらず、さまざまな説があちこちで唱えられました。すぐ後ろを走っていたシューマッハが、セナのマシンがタンブレロでボトミング(マシンの車高が下がること)していたと語ったこともあり、マシントラブル説を後押ししました。しかし中にはセナが自殺を図り、故意にマシンを壁にぶつけたと考える人も多くいました。セナの死に多くの人が混乱していたのです。

他のドライバーの反応

フランスのテレビ中継で解説席にいた、セナの宿敵のアラン・プロストは、セナのマシンが壁に激突した瞬間に「ノー!」と激しく絶叫しました。アナウンサーにセナは大丈夫だろうかと尋ねられたプロストは、激突の角度が悪すぎると事態の深刻さを訴えています。セナが意識不明で危険な状態にあると発表された直後に、プロストはメディアのインタビューに答えました。



「僕は常に100%の力をレースに注いできた。しかしセナはそれ以上に、120%の力を注ぐレーサーだ。僕にはそんなことできなかった。とにかく彼は速いんだ。信じられないくらいにね。1日も早い回復を祈ってる」

目に涙を浮かべて語るプロストの姿に、多くの人が驚きました。誇り高いプロストは、他のレーサーを褒めることは稀でした。ましてや犬猿の仲となったセナについては、批判以外はほとんど口にしませんでした。プロストがセナを称え、涙している姿は事態の深刻さを示すに十分なインパクトを持っていました。

セナのチームメイトだった中嶋悟は、レースをテレビで見ていました。フジテレビに出演した中嶋は、とにかく衝突の角度がまずいと語り、一見してただ事ではないと感じたと言っていました。



セナのチームメイトだったゲルハルト・ベルガーは、リタイアした後は錯乱状態でした。ベルガー自身も過去にサンマリノGPでコンクリートウォールに激突し、爆発炎上する大事故に遭っています。そのベルガーの目から見ても、危険なクラッシュだったことが一目瞭然だったようです。

関連記事:「事故にあわないのは運が良かっただけ」中嶋悟の教え

セナのストレス

マクラーレンに乗る92年は、ウィリアムズのナイジェル・マンセルに全く歯が立たず、93年はホンダのエンジンをも失い散々なシーズンを過ごしました。94年は新天地ウィリアムズで、再び優勝が狙えるはずでした。しかしハイテク禁止によってウィリアムズの戦力は大幅にダウンし、シーズンオフのマシンテストから、思わぬ苦戦を強いられました。

最初の2戦ではリタイアが続き、まさかのノーポイントに終わったため、サンマリノには並々ならぬ気迫で臨んだようです。しかし旧知の仲であるバリチェロの事故は、セナに大きなショックを与えています。バリチェロの事故現場に駆け寄り、安否を確認するとすぐにマシンに乗りますが、動揺は隠しきれず周囲はセナを心配していたようです。

翌日、ラッツェンバーガーの事故が起こると、セナはサーキットに飛び出してオフィシャルカーを捕まえて事故現場に向かっています。その後メディカルセンターを訪れ、ラッツェンバーガーが死亡したことを知らされました。激しく動揺するセナに、医者はレースを棄権することを勧めています。チームガレージに戻ってラッツェンバーガーの死を報告すると、モーターホームに戻って泣き崩れていました。セナはショックが大きく、予選後の記者会見を欠席しています。

※ラッツェンバーガー

セナを苛立たせたのは、オフィシャルが記者会見の欠席について問題視しただけでなく、ラッツェンバーガーの事故現場に向かうためにオフィシャルカーを利用したことまで問題視したことです。オフィシャルとの話し合いは怒鳴り合いに変わり、セナは途中で退出しています。ウィリアムズは、セナの心理状態を不安視してミーティングを行なっています。

しかしその後、セナは精力的に動き回り、安全性確保のためにドライバーの組合とも言えるGPDAの再結成のために何人ものドライバーと会っています。またテレビ解説席にプロストを見つけ「君がいなくなって寂しいよ」と、挨拶をしています。思いがけない言葉に、プロストは深く感動したと語っていました。

※セナとアドリアーネ

それ以外にもセナにはストレスがありました。元交際相手のシューシャがサンマリノにいるセナを訪れ、恋人のアドリアーネとの関係を絶って自分とやりなおすことを迫っています。シューシャはセナにカセットテープを手渡しており、そこにはアドリアーネと元交際相手の会話が録音されていました。レース前のセナは心理状態が不安定でした。しかしセナはレースに挑みます。

検察による捜査と裁判

イタリアの検察局は、世論に押される形で事故の捜査を開始しました。検察が問題視したのはステアリングコラムで、セナの希望により角度を変えるために切断して溶接を2箇所行っていました。その溶接に不具合があり、ステアリングコラムがレース中に破損したというのが検察の主張です。これにより検察は、ウィリアムズのテクニカル・ディレクター、パトリック・ヘッドを業務上過失致死で告発しました。

※折れたステアリングコラム

ウィリアムズ側はステアリングコラムの破損は衝突した際の衝撃によるものと主張し、真っ向から対立しますが、最終的にウィリアムズ側に有罪判決が下りました。しかし重要なのは、ブラックボックスが法廷に提出されたことです。これにより事故のさまざまなことがわかりました。

驚異的だったセナの危機回避能力

ウィリアムズが提出したブラックボックスのデータから、パワーステアリングの油圧に急激な負荷が加わり、その後も継続的に圧力が加わったことがわかっています。ハンドルに何かトラブルが起こったか、セナが急にハンドルを切ったのです。その後も続く負荷は、セナがハンドルを切り続けていたことを示しています。

さらにセナはその直後に、アクセルを半分だけ戻していました。これはF1ほど強大なパワーを持つマシンで、アクセルを全て戻すと強力なエンジンブレーキがかかるため、コントロール不能になるからです。アクセルを半分戻すと同時に、ブレーキオイルに高い圧力がかかっています。つまりブレーキを踏んでいました。さらにそのコンマ数秒後には、アクセルから足を離してブレーキをフルに踏んでいます。アクセルを半分戻すだけではハンドルが切れない以上、間に合わないと判断したのです。

さらにセナはこれらの動作に合わせて、2回のシフトダウンを行い、エンジンブレーキを効かせています。その結果、タンブレロに312km/hで進入したセナのマシンは、コンクリートウォールにぶつかる際には210km/h程度まで下がっていました。セナは死ぬ直前まで、神がかった運転技術で危機回避を行なっていたのです。これにより自殺説は否定されました。死の直前まで、セナは戦い続けていたことがブラックボックスによって証明されました。

ステアリングコラムは原因ではない

ミハエル・シューマッハの車載カメラに、セナのマシンの挙動は克明に記録されています。タンブレロに入ったセナのマシンは、ステアリングコラムが影響するフロントではなく、リアタイヤがトラクションを失いオーバーステア(ハンドルを切った以上に曲がること)を起こしていました。その後、マシンはなぜか曲がらずに一直線に走ってコンクリートウォールに激突しています。

イタリアの検察は、これをステアリングコラムの故障でハンドルを切れなくなっていたからと解釈しましたが、アメリカのインディ500などを見ている人にはピンとくる事象なのです。時速400km近くでコーナーを走るオーバルコース(楕円形コース)では稀に起こる事故で、リアタイヤがトラクションを失って滑り出し、アンダーステアを起こしたのでドライバーがカウンターを当てると、急激にリアタイヤがグリップを取り戻してコースの外に一直線に向かってしまうのです。

ゴードン・スマイリーのクラッシュ(82年インディ500)


上の映像は82年のインディ500の予選の映像です。ゴードン・スマイリーは急激なオーバーステアに襲われ、反射的にカウンターを当てたところ、マシンはコンクリートウォールに一直線に進んでいきました。凄惨な事故で、スマイリーは帰らぬ人になってしまいました。セナの事故はゴードン・スマイリーの事故に似ていると思った人は多いはずです。

ショーエイが感じた不安

92年から93年にかけて、セナのヘルメットは日本のショーエイが製作していました。この際にショーエイのエンジニアとセナは何度も衝突しかけたそうです。

セナの要求は細部に渡り、ショーエイは何度も作り直してセナの要求を満たしました。しかしセナは良いヘルメットができると、さらなる改造を求めていきます。特に軽量化への要求は際限がなく、常に前回より軽いものを求めていきました。ショーエイは試行錯誤の末に軽量化しますが、ついにはセナの要求は安全基準を下回るレベルに達します。

※ショーエイのヘルメットをかぶるセナ

安全性を損なうことはできないショーエイに対し、セナは安全性より軽量化を求めて対立し、やがてショーエイは秤に細工をして以前より軽くなったように見せかけてセナに渡していました。そうまでしないとセナは納得しなかったのです。93年に契約が切れた際に、ショーエイのエンジニア達は「安全性はいいから、あと1グラム軽くしてくれ」と猛然と迫るセナに、次のメーカーは対応できるのだろうかと不安を感じたそうです。これは次に契約したArai(アライ)が安全基準を無視したと言いたいわけではありませんので、誤解のないようにしてください。

死因は不明なまま

直接の死因は、激突により折れたサスペンションアームがヘルメットを貫通したことでした。セナの手当てにあたった医師は、セナの頭部がノコギリで切られたような酷い状態だったと証言しており、ほとんど即死だったことが窺えます。ではなぜ壁に激突したのかは、正確には分かっていません。

しかしウィリアムズのチーフ・デザイナーのエイドリアン・ニューウェイは、自らが設計したマシンFW16に関して「私がクルマの空力をめちゃくちゃにした」と告白しています。ハイテクが禁止された中で、急遽作られたFW16は未完の部分が多く、ニューウェイは苦しみながらマシンを開発しています。

※エイドリアン・ニューウェイ

「私は、アクティブサスペンションからパッシブへの移行に混乱し、空力的に不安定なクルマを設計した。アイルトンはそのクルマではできないことをやろうとしていた」

ニューウェイはセナの死に関して、自責の念を吐露しました。ニューウェイは激突の原因の一つとして、JJレートのマシンが大破した時の破片を拾い、右リアタイヤがパンクしていた可能性も指摘しています(ただしパンクの有無に関係なく、ニューウェイはセナの死に責任があるとも言っています)。空力が不安定なマシンの右リアタイヤがパンクし、さらに不安定になったマシンで、最もバンピーな路面のインサイドにセナがラインをとったためにセナですらコントロールできない状態に陥ったとニューウェイは考えています。

商業主義のツケ

1994年からレギュレーションの変化がいくつもありました。上記のようなハイテク禁止も、その1つです。

・アクティブ・サスペンションの禁止
・トラクション・コントロールの禁止
・アンチロック・ブレーキ・システム(ABS)の禁止
・四輪操舵(4WS)システムの禁止
・プログラミング・シフトダウン・システムの禁止

※ウィリアムズのアクティブ・サスペンション

これらの措置はコーナーリングでのスピードが上がりすぎたため、安全性から速度を抑制するための導入でした。最も先行していたウィリアムズが高い代償を払うことになりましたが、これらは安全面から重要なルール改定でした。しかし同時に94年は、レース中の燃料供給が可能になりました。これはアメリカのインディシリーズの影響を受け、レースにダイナミクスを生みだそうとしたものです。

燃料給油は燃料タンクを小型化させ、マシンの重量を大幅に軽減させました。その結果、コーナリングスピードは大幅に向上することになり、チームによってはバラスト(重り)を入れて調整するようになります。この措置はレースの危険度を増すことになりました。

※①がタンブレロコーナー


またイモラサーキットのタンブレロ・コーナーは、過去にも何度も事故が発生していました。87年のネルソン・ピケ、89年のゲルハルト・ベルガー、91年のミケーレ・アルボレート、92年のリカルド・パトレーゼなどです。高速で進入するコーナーにも関わらず、エスケープゾーンが存在せず、タイヤバリアの設置も難しい場所でした。さらに年々路面が荒れていいき、セナ自身も事故の1ヶ月ほど前にタンブレロコーナーで誰かが死ぬことを予見していました。サーキットの改修には多額の資金が必要で、以前から危険性が指摘されていたにも関わらず、タンブレロの危険は放置されたままになっていました。

加えてセーフティカーの問題があります。イモラで投入されたセーフティカーは、後にスピードが出ないためセーフティカーとしては不適切として変更されました。なぜそのような車が投入されたかというと、新車の宣伝のためだったと言われています。スピードが上がらないセーフティカーに追随したF1マシンは、スピードが遅すぎてタイヤが暖まらないため、車体を大きく左右に振りながら走っています。セナはセーフティカーに近づきスピードを上げるように言っています。タイヤが十分に暖まらず、グリップが不十分なままレースが始まることになってしまいました。

セナはほぼ即死だったにも関わらず重体として緊急搬送され、レースは続行されました。中止にすれば莫大な違約金が必要になるため、セナが死んでいないことにしてレースを続行したと批判が起こりました。莫大なお金が動くF1は、商業主義が安全性を飲み込んでいたと言えるでしょう。

まとめ

危険なサーキットは改修されることがなく、燃料補給が認められたことにより危険なサーキットでコーナリングのスピードが速くなりました。ハイテク禁止はウィリアムズを悩ませ、天才と呼ばれたエイドリアン・ニューウェイをも悩ませ、空力が不安定なマシンで94年シーズンを戦うことになりました。事故が繰り返されてもレースは中断されず、遅いセーフティカーはタイヤを冷やしてグリップを低下させました。

セナはあらゆるリスクをとって勝利を欲する戦士で、危険なまでにギリギリの戦いを続けていました。そんなセナがこれほどの悪条件で勝利を欲すれば、事故が起こらないはずがなかったと思います。この悲劇の後に、モンツァ・サーキットのタンブレロコーナーは改修され、F1はあらゆる安全策がとられました。F1は以前より安全になりましたが、その代償はあまりに大きかったと言えます。


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コメント

  1. セナのヘルメットは94年はAraiではなく、ベル社のM3ヘルメットです。

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