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ラウンドガール問題を考える /歴史と意義と今後

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 2022年7月13日、大田区総合体育館で行われたWBO世界スーパーフライ級タイトルマッチは、チャンピオン 井岡一翔 が同級1位の挑戦者ドニー・ニエテスを終始圧倒して3-0の判定勝利で王座を守りました。この試合ではラウンドガールの過激な衣装が話題になり、物議を醸し出しました。子供も見ているのでテレビでやるべきではないという意見や、興行が盛り上がるなら良いと賛否両論だったのですが、私の個人的な意見としてはセンスがないなぁと思いました。そこで今回は、この件について書いてみたいと思います。 そもそもラウンドガールとは ボクシングなどでラウンド間のインターバルに、次は何ラウンドかを知らせるボードを持ってリングに上がる女性のことをラウンドガールと呼んでいます。彼女たちの仕事は次が何ラウンドかを知らせることなので、なぜ水着などで行うのかという声は以前からありました。それには歴史を紐解く必要があります。ラウンドガールは英語ではring girl(リングガール)と書くのですが、これがラウンドガールの本質を示しているのです。 ※リングマガジン ラウンドガールが誕生したのは1965年のアメリカです。現在でも最も権威あるボクシング雑誌 ザ・リングマガジン が、1965年5月号で翌月の対戦カードを特集したのですが、その際に次のラウンドをお知らせする女性の写真を掲載しました。この華やかな女性達の写真は話題を呼び、ザ・リング・マガジンには度々掲載されることになります。 残酷なショーになることもあるボクシング興行において、その残酷さから気を紛らわすには美しい女性が相応しいと感じた興行主は、次々に女性をリングに上げるようになり、その手法は全米に広がっていきます。つまりラウンドガールとはリング誌に掲載された女性達のことで、そのためアメリカではリングガールと呼ばれているのです。1965年当時から、ラウンドガールは水着姿でリングに上がっていますが、当時の最もらしい理由づけに「選手がトランクス一枚でリングにいるのに、なぜリングガールが服を着る必要があるのか?」というのがありました。 このラウンドガールが定着する前は、リングボーイと呼ばれる男性が次のラウンド数を示すボードを持ってリングを回っていました。戦前から戦後にかけて活躍したジョー・ルイスの試合などでは、ジャケットなしのタキシード姿の男性が、ラウンド数

野茂英雄02 /日本球界からの脱出と栄光

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前回は、野茂英雄がパリーグを代表するエースとなりながらも、所属する監督の交代によって近鉄バファローズに不満が溜まっているところまでを書きました。そして野茂はダン野村と組んで、 MLB に移籍するべく動き出します。しかしこれが日本中を巻き込んで、大バッシングを生むことになってしまいます。 前回記事 ・ 野茂英雄01 /堕ちた日本球界のヒーロー ダン野村の策略 野茂が近鉄ではこれ以上プレイできないと感じていること、メジャーリーグに憧れを持っていることから、ダン野村はMLBへの移籍を視野に入れて動き出します。ダン野村はアメリカ人の女性弁護士、ジーン・アフターマンに協力を依頼します。ジーンは「 日米間選手契約に関する協定 (通称、日米協定)」を読んだ後、こう言いました。「これって違法じゃないの?」 ※ジーン・アフターマン 選手の権利を著しく制限する日米協定に対する違和感に加え、それを打破できる可能性がある選手がいると言うダン野村の言葉に、ジーンは協力することにしました。そこでジーンとダン野村は日米協定を細かくチェックし、日本の選手がアメリカのチームに移籍することを禁止しているものの、現役の選手に限られていることに気づきます。つまり野茂がMLBに移籍するには、日本プロ野球を引退する必要があったのです。 また「 日本プロフェッショナル野球協約 」を細かく見直したダン野村は「任意引退」という言葉に目をつけました。自己都合により任意引退をしたプロ野球選手が復帰する場合、元のチームで復帰しなければならなくなっていました。しかしこの条項には日本のプロチームと書かれており、海外の球団は言及されていません。つまり任意引退した選手であれば、MLBに移籍できるのです。 ジーンは 日本プロ野球機構 に、日本プロ野球を引退した選手であればMLBに入団するのは問題ないか?と質問状を送ります。日本プロ野球機構は問題ないと返事を返し、これで言質を取ることができました。次の問題はどうやって野茂を任意引退にするかです。任意引退には選手の希望を球団が受け入れなければ、任意引退選手のリストに名前が乗らないのです。そこでダン野村は作戦を立てました。 作戦Aは契約更改時に6年間で24億円という桁外れの要求をすることです。当時は複数年契約の例はほとんどなく、また金額も大きいことから球団が認めず、他のチームとも契約でき

野茂英雄01 /堕ちた日本球界のヒーロー

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 1995年7月、 野茂英雄 の代理人のダン野村は外務省からかかってきた電話に対応していました。「総理が野茂さんにお祝いを伝えたいと言っています。野茂さんと直接話すことはできますか?」と言う外務省担当者に、ダン野村は気まずそうに答えました。「野茂は話したくないと言っています」外務省担当者は驚きましたが、野茂は日本からのお祝いを素直に受け入れられる心境ではなかったのです。裏切り者と呼ばれ、多くの脅迫電話を受け、友人だと思っていた人達からは縁を切られ、まるで追われるようにアメリカに来てから、まだ半年しか経っていませんでした。一斉に手の平を返した日本に、野茂は疑心暗鬼になっていたのです。 野茂英雄が日本球界から追われ、アメリカMLBで成功するまでを2回に分けて書いていきたいと思います。 野茂英雄の誕生 1968年、野茂英雄は大阪市の下町に生まれました。周囲は工場地帯で、工場の壁にボールを投げて遊んでいたようです。この頃の子供の遊びといえば野球です。野茂は友達と野球をして遊び、どうやったら速いボールを投げられるか考えていました。そして父親とキャッチボールをしている時に、体を大きくねじることで速いボールを投げられることに気がつきます。速球に驚く父親をもっと驚かせたくて、野茂は投げ方を工夫していきました。こうして後のトルネード投法の原型が生まれていきました。 小中学校時代の野茂は、特に注目されることはありませんでした。高校進学は複数の名門校のセレクションを受けますが不合格になり、最終的に大阪府立成城工業高等学校(現在の成城高校)に入学します。そこで徐々に頭角を現すようになり、1985年には完全試合も記録しています。高校3年時にはプロからの誘いもありましたが、最終的に新日鐵に入社しました。この新日鐵時代にフォークボールを習得し、都市対抗野球で活躍した結果、1988年のソウル五輪代表に選出され銀メダル獲得に貢献します。さらにインターコンチネンタルカップの代表にも選ばれ、日本アマチュア野球のNo.1投手として認知されるようになりました。 日本でのトルネード旋風 1989年のプロ野球ドラフト会議では、史上最高の8球団から1位指名を受けます。抽選は近鉄バファローズが引き当て、近鉄への入団が決まりました。この時、野茂は近鉄の監督だった仰木彬に対して、独自の調整方法を認めて欲しいことと投球フ

消えた歌姫 /小比類巻かほるの人気はなぜ急落したのか

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 1985年、TBSで始まったドラマ「ポニーテールはふり向かない」の主題歌が、話題になりました。クレジットには曲のタイトル「Never Say Good-Bye」と歌っているのが 小比類巻かほる と書かれていましたが、当時はその歌手を誰も知りませんでした。それもそのはずで、この曲は小比類巻かほるのデビューシングルで下。その後、彼女は大ブレイクするのですが、90年代に入ると急に姿を見なくなってしまいます。当時人気絶頂だった小比類巻かほるが、なぜ姿を消したのかを考えてみたいと思います。 80年代末のブレイク 紅白出場も果たした87年 デビュー曲の「Never Say Good-Bye」はドラマを見ていた人の間では話題になりましたが、ブレイクするというほどではありませんでした。2ndシングル「両手いっぱいのジョニー」は、OVAアニメ「ガルフォース」の主題歌だったこともあり、一部では話題になったものの世間一般に知られるというほどではありませんでした。しかし87年の4thシングル「Hold On Me」は、沢口靖子主演のドラマ「結婚物語」の主題歌として使われたこともあり、ドラマの視聴率上昇とともに大ヒットとなります。 ※両手いっぱいのジョニー ※Hold On Me ※Hold On Me この曲のヒットにより、TBSの歌番組「ザ・ベストテン」に出演したことで、初めてその歌う姿が披露されました。その姿は髪を短く切ったボーイッシュな雰囲気の美少女で、中低音の伸びやかな声と圧倒的な歌唱力で新しい女性シンガーの到来を感じさせるものでした。当時のヒットチャートを賑わす女性シンガーは中森明菜、松田聖子、小泉今日子、中山美穂などのアイドルが中心でしたが、そこに高い歌唱力を持った本格派のシンガーが登場したのです。前年には渡辺美里が「My Revolution」をヒットさせており、アイドルではない歌姫を求める土壌が生まれつつあった時期でした。 ※渡辺美里のMy Revolution 「Hold On Me」のヒットが続く中、「Hold On Me」を収録したアルバム「I'm Here」を発表します。これは小比類巻かほるにとって3枚目のアルバムで、LPレコード、カセットテープ、CDの3種類でリリースされています。合計のセールスが30万枚を超える、当時としては大ヒットアルバムになります。