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ワレンチナ・シェフチェンコ /キルギスの女神は絶対王者になるか

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UFC238のメインイベントに登場した ワレンチナ・シェフチェンコ は、威風堂々と入場してきました。初防衛戦にも関わらず、シェフチェンコは王者の風格を漂わせ、その美しい顔立ちの下には並々ならぬ自信を秘めているように見えました。挑戦者のジェシカ・アイは、ただならぬ殺気を伴いオクタゴンに入場します。しかしシェフチェンコは、浮かれるわけでも相手を蔑むわけでもなく冷静に語っていました。ジェシカはレスリングが得意なようだが、私はあらゆるスタイルに合わせる用意ができている。UFC女子フライ級タイトルマッチは、こうして始まりました。 ※英語読みではヴァレンティーナ・シェフチェンコですが、ここではロシア語読みのワレンチナで書きます。 関連記事 UFCでの日本人の成績はどうなのか 女子のUFCが面白い今日この頃 統合失調症を超えて ローズ・ナマユナスの番狂わせ ローズ・ナマユナスは復権するか? /女子ストロー級の戦乱期 女王は復権するか? /ヨアナ・イェンジェイチックのいばら道 MMA最強女子の陥落 /クリスチャン・サイボーグが初のKO負け 女子MMA日本最強の中井りんはどこへ行く? 痩せられない美しき柔術女王 /マッケンジー・ダーン 総合格闘技に最適なバックボーンは? /UFCを見ながら考えてみた ワレンチナ・シェフチェンコとは 1988年生まれの31歳です。ウクライナに住んでいた両親は、ソ連のスターリニズムによってキルギスに強制移住させられ、そこでワレンチナは生まれました。その後、一家はペルーに移住して現在も家族はペルーで暮らしています。そして彼女の母、エレナ・シェフチェンコは元ムエタイの選手で、キルギスのムエタイ協会の会長でした。ワレンチナが母の影響を受けるのは必然でした。 ワレンチナは5歳の時にテコンドーを始めました。テコンドーの有段者でもありスポーツが大好きな母親は、ワレンチナにさまざまなスポーツを体験させました。12歳でムエタイを始め、現コーチのパベル・フェドートフに出会います。パベルは早い時期から総合格闘技(MMA)を教えていて、週替わりでサンボ、ボクシング、柔道、レスリング、テコンドーをワレンチナは習いました。やがてワレンチナには、打撃に関して非凡なセンスが備わっていることがわかります。 2003年に1

芸能事務所興亡史 /なぜ芸能事務所は強大な力を得たのか

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ジャニーズ事務所や吉本興業など、芸能事務所のトラブルが話題になっています。日本では芸能事務所が大きな力を持ち、タレントに対して強い立場に立っています。タレントだけでなくテレビ局にも大きな力を持っているとされ、「事務所の圧力」といった言葉が使われます。日本の芸能事務所はどのようにして、強大な力を手に入れたのでしょうか。 戦後の芸能事務所 芸能事務所は古くからあり、戦前からその源流となる組織がありました。メジャーなところではレコード会社や映画会社が持つ事務所で、それぞれの会社は俳優や歌手と専属契約をしていました。映画では五社協定というのが有名で、松竹・東宝・大映・新東宝・東映の5社がそれぞれの俳優を「引き抜かない」「貸し出さない」という約束をしていました。そのため松竹に所属する俳優は東宝や東映の映画に出ることはできませんでした。映画会社は俳優を囲い込み、時には飼い殺しにしていました。 ※松竹の映画 そして演歌歌手など師弟関係によって出来上がった組織があり、大物タレントとマネージャーという私的組織があり、独立系事務所がありました。これらの組織はそれぞれの得意分野があり、ある程度の棲み分けができていたのです。しかし独立系事務所の代表格「神戸芸能」は、山口組の伝説的な組長だった田岡一雄が関わっていて、美空ひばりの公演を主に行っていましたが、田岡は山口組のアンダーグランドの力を利用して、全国各地の公演会場を牛耳っていました。そのためコンサートを開くには田岡に挨拶に行かなくてはなりませんでしたし、美空ひばりとのジョイントコンサートを断った鶴田浩二は、白昼にレンガで頭を割られることになりました。 ※田岡一雄 そんな中、ジャズミュージシャンの渡辺晋とマネージャーの美佐は、芸能事務所を設立しました。現在の渡辺プロダクション(通称ナベプロ)の始まりです。 ナベプロの全盛期 渡辺プロは月給制を敷いて、仕事のないタレントにも生活を保障しつつ育成を続けていきました。やがて渡辺プロは日劇ウエスタンカーニバルを成功させ、ロカビリーブームの立役者となります。美佐は次々に才能のある歌手をスカウトし、日劇ウエスタンカーニバルに出演させてはスターにしていきました。中でも喫茶店で歌っていたザ・タイガースは後のグループサウンズブーム最大の成功者になり、渡辺プ

器用貧乏も10年続けば金の小手先 /CM女王の菅野よう子

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名前は知らなくとも、日本人のほとんどが菅野よう子の曲を聴いたことがあるはずです。作曲家で演奏家で音楽プレイヤーである菅野よう子は、海外にも多くのファンを持ち、多くのアルバムも発表しています。しかし彼女の音楽は、多くの人がテレビのCMで聴いたことがあるはずです。1000曲以上を提供してCM音楽の女王と呼ばれています。しかしかつては器用貧乏と言われ、悩んだこともあったようです。 天才少女と呼ばれた幼少期 1963年に宮城県に生まれます。親戚の家のピアノから離れない姿を見て、両親がピアノを買い与えました。頭の中に浮かぶ音楽をピアノで鳴らして喜ぶ子供で、ヤマハ音楽教室に通いだすと頭角を現しました。そしてあちこちのコンクールに出ては賞をもらうようになりました。当時の菅野は審査員が喜びそうな曲を知っていて、審査員ウケが良い曲を演奏していたそうです。しかしそんな菅野を見抜いた審査員から「もっと子供らしい曲を作りなさい」と注意を受けたというエピソードがあります。 幼少期の菅野よう子は、言葉で何かを伝えるよりも音楽にした方が楽だったそうで、音楽は作品ではなく「致し方ないコミュニケーション手段」だったと語っています。そのため作曲を始めたのは2歳か3歳の頃だったといいますから、早熟型の天才肌だといえるでしょう。 大学で人生が変わる 小説家になりたいと思い、早稲田大学の文学部に進学します。それまでクラシック音楽ばかりを聴いて弾いていた菅野は、ここで初めてドラムセットを見たそうです。両手両足で違うリズムを刻むのを見て、この人は天才だと感動して周囲に呆れられたといいます。そして曲を聴くとすぐに楽譜を起こせる菅野の能力は、大学で重宝されることになります。さまざまなレコードを聴かされ、楽譜にすることを先輩から頼まれるようになったのです。 この時に、さまざまな音楽を聴いたことでさまざまなジャンルのお約束を覚えていったそうです。そしてクラシック音楽にはあまり関係ない、ビートを覚えたのもこの頃だそうです。高い音楽スキルがありながら、クラシックしか聴いていなかった菅野はスポンジのようにさまざまな音楽を吸収していったそうです。そして大学で便利な音楽屋として菅野の名前が知られるようになると、光栄という会社から仕事の依頼がきました。光栄は現在の「コーエーテクモゲームス」とい

復活した村田諒太 /衝撃のKO勝利の要因は?

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2019年7月12日、 村田諒太 はWBA王者のロブ・ブラントを2RKOで下して王座を奪還しました。大方の予想を覆す勝利で、アメリカにも衝撃をもたらしました。ESPNはこの試合の第2Rを今年のベストラウンド候補と報じ、伝説のハグラーVSバーンズ線を彷彿させたと最大級の賛辞を送っています。なぜ村田は復活できたのでしょう。前回のロブ・ブラント第1線から振り返ってみたいと思います。 関連記事 ・ 村田諒太の再戦が決定 混戦のミドル級を解説します ・ 村田諒太が勝利 今後の展望は? ・ 大荒れのミドル級戦線 /村田諒太は誰を目指すのか ・ 亀田裁判と日本ボクシングコミッションの闇 2018年10月20日 WBAの指名試合で、WBA王者の村田はロブ・ブラントの挑戦を受けました。場所はラスベガスのパークMGMで、ミドル級最強の王者を目指す村田にとって、最高の舞台になりました。村田はWBA王者ですが、ミドル級最強はメキシコのサウル・アルバレスかカザフスタンのゲンナジー・ゴロフキンです。村田はこれらの選手との試合を望んでいました。 ※ミドル級の頂点に立つアルバレス 村田がこの2人がいるステージに立つには、ブラントにただ勝だけでは不十分でした。アメリカの観客、そしてプロモーターに、これら2人と戦うだけの強さと人気を備えていることを証明しなくてはなりません。ブラントもこの2人がいるステージを目指していて、共に負けられないだけでなく、強烈な印象を残す試合が必要でした。 村田の悪い点ばかりが目立った ブラントは初回から積極的に出て、自分のリズムで試合を運ぼうとします。村田はいつものように手数が少なく、プレッシャーをかけていきます。そんな展開が続くと、優劣がはっきりしてきました。村田はハンドスピードも足もブラントよりはるかに遅く、手を出したくても出せない状態に陥りました。 何度か流れを変えようと打ちに出ますが、ブラントはすぐに距離をとって村田の間合いから外れ、再び入ってくると反応が遅い村田を狙い撃ちします。やがて村田はボディブローすら空を切るようになり、一度も見せ場を作ることもなく、後半は安全運転に入ったブラントに何もできないまま試合を終えました。ポイントは圧倒的な差でブラントにつき、村田は王座を失いました。 結果としては村田