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バブル景気真っただ中の人々は幸せだったのか

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バブル景気の頃の話がメディアでちょくちょく出てきますし、飲み屋でその頃の話が出ることもあります。しかしどうも現在語られている内容と、当時の記憶にギャップがある気がしてなりませんでした。先日も妹とバブル景気の頃の話していて「あの頃、お父さんは本当に楽しくなさそうだった。ただ疲れていた」と言っていて、確かにその通りだったと思いだしました。お金が余って使い道に困っていたバブル景気は、みんなが幸せだったような印象がありますが、実際にはそうでもなかったと思います。 バブル景気の頃のエピソード バブル景気のエピソードには、眉唾ものや当時のドラマのエピソードが真実として語り継がれているものが多くあります。例えばネットなどでよく見かける「毎朝タクシーで通勤していた」というものです。そういう人が一人もいなかったとは言いませんが、当時のタクシー事情を考えると怪しい話です。当時は利用者に対してタクシーが絶望的に不足していました。タクシーに乗りたいと思っても、タクシーが捕まらなかったのです。 それに関連して「一万円札を振りかざしてタクシーを止める人がいた」というのもあります。バブル景気を描いた映画にもこのような場面がありましたが、当時の主流はタクシー券です。中には金額を書き込まないで渡す人もいたので、万札なんかを見せられるよりもタクシー券の方が運転手にはおいしいのです。そもそも万札を振ったぐらいでタクシーが止まるはずがなく、こんな人がどれだけいたのかは疑問です。事実としては以下のようなものがあります。 東京を中心に地価が異常に高騰し、東京23区の地価の合計がアメリカ全土の地価の合計を上回りました。銀座では1坪が数十億円になり、それでも安いと言われたりしました。利益を誤魔化す企業はいつでもいますが、誤魔化しきれなかったみたいで、お金を捨てる人も出てきました。川崎市の竹やぶから1億3000万円が入ったカバンが発見され、数日後には9000万円が入ったバッグが発見され、大騒ぎになりました。 ※現金がみつかった竹やぶに集まる人々 サラリーマンの給与は上昇し、年に3回のボーナスを受け取る会社も増えました。接待費が増えたため、一晩で数百万円を使う人も珍しくなくなりました。これは後述しますが、楽しんで大金を使っていた人ばかりではありませんでした。

ポロシャツを考える /歴史と代表3ブランド

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普段、何気なく来ているポロシャツですが、100年以上も歴史がある服です。伝統を重んじながらもプリンシプルを重視するイギリス、なにより合理性を大事にするアメリカ、そしてフランスの洒落た感覚が融合して今日のポロシャツが出来あがりました。今回はポロシャツの歴史と、各ブランドを紹介したいと思います。 ポロから始まったポロシャツ 馬を使った球技は古くからありますが、近代ポロはイギリス軍が駐留したインドのマニプールで発見され、独自の改良が行われました。19世期の中頃にはイギリス軍将校の間で盛んに行われるようになりました。 ※19世紀のインドのポロ 当時の選手は綿の生地で作られた長袖シャツでプレイしていましたが、襟が風ではためいて顔に当たるのが不快でした。そこで彼らは襟をボタンで固定するようになります。こうして現在のボタンダウンシャツが生まれました。ポロシャツの元祖はボタンダウンシャツということになります。 ブルックス・ブラザーズでの発売 ブルックス・ブラザーズの創始者であるブルックス兄弟の孫、ジョン・E・ブルックスはイギリスを訪問しました。ポロの試合を見たジョン・E・ブルックスは、ほとんどの選手が襟をボタンで留めていることに気がつきます。この工夫に感動したジョンは、帰国するとブルックス兄弟にボタン付きの襟を進言しました。 ※当時のブルックス・ブラザーズのロゴ 1896年にブルックス・ブラザーズからボタンダウンシャツが発売されると、瞬く間に大ヒットしました。後に「ファッション史上、最も多く模倣されたアイテムの1つ」と呼ばれることになるボタンダウンシャツの誕生です。 ※1896年に発売されたボタンダウンポロシャツ ルネ・ラコステの登場 ラコステの登場の前に、ルイス・レーシーというポロ選手が1920年にブエノスアイレスに開いたメンズショップで、大きな革新がありました。ボタンダウンシャツにワンポイントの刺繍を入れて販売したのです。これが後にポロシャツのアイコンとなる、ワンポイントの始まりです。 テニスの王者だったフランス人のジャン・ルネ・ラコステは、テニスウェアに不満を持っていました。当時のテニス選手は、ボタンダウンシャツの袖をまくってプレイしていました。ズボンはフランネルで、表彰式にはそのままネクタイを着

追悼コービー・ブライアント /神と呼ばれた男を継ぐ者

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日本時間2020年1月27日、プロバスケットボールのスーパースター、 コービー・ブライアント の訃報が届きました。1996年から2016年までロサンゼルス・レイカーズでプレイし、神と呼ばれた男が引退した NBA を支えていきました。史上最高のスコアラーの一人で、厳格で強烈なリーバーシップを発揮し、チームを5度の優勝に導きました。コービーの突然の死に、誰もが驚きショックを受けました。 関連記事 マイケル・ジョーダンは何が凄かったのか /映像に残らない部分 デニス・ロッドマン /破滅的なリバウンド王 安価すぎた最高の選手 /時代に翻弄されたスコッティ・ピッペン 6月のNBAドラフトに注目 /八村塁は3人目のNBA日本人プレイヤーになるか? NBAドラフトの仕組み /八村塁はどれほど凄いのか 事故の概要 現地時間1月26日午前10時頃、ロサンゼルス郊外にヘリが墜落炎上しました。乗客乗員の9名の死亡が確認され、乗客の中には元NBAのスター選手コービー・ブライアントと次女のジアーナちゃん(13歳)も含まれていました。ジアーナちゃんが所属するバスケットボールチームの試合に向かうところだったと報じられています。事故当時は濃い霧が出ており、原因になったのではないかと言われています。国家運輸安全委員会が調査を開始しており、事故の詳細が待たれます。 生い立ち 1978年、ジョー・ブライアントの息子としてアメリカで生まれました。ジョーはNBAの選手で、コービーは父親の練習や試合について回ってバスケットボールに興味を持つようになります。ジョーはスター選手ではなかったものの、75年から86年にかけて3つのチームを渡り歩いてキャリアを築きました。 ※高校時代のコービー 86年にNBAを引退するとイタリアのプロリーグに移籍し、コービーもイタリアに移り住むことになりました。コービーは父親の背中を見てバスケットを学び、このことが彼の人格に大きな影響を与えました。高校はアメリカの学校に進学し、ペンシルバニア州の最優秀選手に選ばれます。大学からスカウトが大量に来ますが、コービーはプロになることを希望しました。 レイカーズに加入 記者会見を開いてNSA入りを表明したコービーでしたが、高校を卒業したばかりの選手がNBAで活躍すると考えた関係者は

スパイダルコのナイフを紹介 /機能性を追求したナイフ

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初めて スパイダルコ のナイフを見たのは、アウトドア雑誌の広告だったか、お店に並んでいるのを見た時だったか、とにかく90年代だったと思います。第一印象は「不細工なナイフ」で、風情もロマンも感じられない変な形だと思いました。なにせ当時のアウトドアナイフのフォルダーといえば、バック社のナイフでした。しかし、いざ使ってみるとよく考えられたナイフだとわかります。今やトップクラスの人気を誇るブランドに成長し、アウトドアナイフといえば、スパイダルコと言う人も少なくありません。 関連記事 スパイダルコ デリカ4 /スタンダードすぎるナイフ スパイダルコ ドラゴンフライ2 /机の中の小道具 ガーバー社のナイフの世界 ビクトリノックスの世界 /マルチツールの長い歴史 スパイダルコの歴史 サル・グレッサーが1976年に最初の製品を完成させて、世に送り出しました。ポータブルハンドと呼ばれるこの製品は、宝石などを使ったアクセサリー作りに使われたようですが、奇妙な外観から「スパイダー」(蜘蛛)と呼ばれていたようです。この製品にちなみ、社名は蜘蛛を意味する「スパイダルコ」になりました。 次に製作したのは、トライアングル・シャープナーでした。これは誰でも簡単に刃物を研ぐことができる製品で、今でも人気の商品として売られています。このトライアングル・シャープナーを妻のゲイルと全国で売り歩く中で、様々な種類のナイフと持ち主に会い、人々がナイフのどこに不満を感じ、何に満足しているかを知りました。やがてサルは、理想的なナイフを自分で作ることを考えるようになります。 SPYDERCO 砥石 トライアングル シャープメーカー セラミック砥石 | Spyderco といし トイシ と石 油砥石 水砥石 オイルストーン シャープナー タッチアップ 簡易砥石 価格:9240円(税込、送料別) (2019/12/24時点) 楽天で購入 そして1981年、最初のナイフC01ワーカーを誕生させました。片手で開けるサムホール、ポケットクリップなど、現在のスパイダルコの特徴が備わったナイフです。ブレードに空いた大きな穴、サムホールは奇妙な印象を与えますが、片手でナイフを開くことを容易にしました。また片方にしか突起がないサムスタッドでは、右手