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アメリカのボクシングファンにある軽量級の壁

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 アメリカ人のボクシングファンと話すと、彼らと大きな隔たりを感じることがあります。例えば 井上尚弥 です。世界で最も権威があるボクシング雑誌「リング」の パウンド・フォー・パウンド で1位に選出される日本ボクシング史上最高の選手の1人ですが、アメリカのボクシングファンのほとんどは彼の名前を知りません。アメリカのボクシングファンには軽量級に壁があり、井上尚弥を知っているのはかなり熱心なマニアなファンなのです。 もともと階級はなかった 近代ボクシングは18世紀のイギリスで誕生しますが、その形は今の総合格闘技みたいなもので、蹴りも投げ技も存在したようです。そしてこの頃は階級が存在せず、あえて言うなら無差別級の試合でした。しかし死亡事故が多発するボクシングに世間の目は厳しくなり、さらに政治的な圧力も高まります。ボクシングのような死者が出る危険な競技は、即刻禁止するべきだという声が高まったのです。 ※ジャック・ブロートン そこでジャック・ブロートンというボクサーが安全性の高いルールを提唱します。ダウンした選手への攻撃を禁止し、倒れた相手が30秒以内に立てなかったら勝ちとなるノックアウトルールを持ち込みました。また腰より下への攻撃を禁止し、素手ではなく拳を保護する布を推奨しました。さらに体重によって選手を分け、160ポンド(72.575kg)より重い選手をヘビー級、それより軽い選手をライト級に分けました。現在のボクシングでは、160ポンドはミドル級のリミットになります。こうしてボクシングに階級が誕生しました。 ミドル級・ウェルター級の誕生 まだまだ紳士協定的な暗黙のルールが多かったボクシングですが、1838年にロンドン・プライズ・リング・ルールが制定され、より近代的な競技へと進化します。ここでは反則が明文化され、頭突きや肘打ち、目への攻撃、爪での攻撃が禁止されました。これらは従来、男らしくない攻撃として嫌われていたのですが、この時に反則として明確なルールになりました。 さらに画期的なのは、全ての蹴り技を禁止したことです。これにより、ボクシングは現在の姿に近づくことになりました。そしてこの頃、160ポンド以下をミドル級、145ポンド(65.77kg)以下をウェルター級、142ポンド(64.41kg)以下がライト級になりました。ただしこの頃のウェイト制度の運用はゆるく、厳格な計量は

テニスで起こった性別間の戦い /ビリー・ジーン・キングの挑戦

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 1973年9月20日、ヒューストンのアストロドームには満員の観客が詰めかけ、全世界で9000万人の視聴者がテレビに釘付けになっていました。テニスコートには普段とは違う熱気が漂い、29歳の ビリー・ジーン・キング はクレオパトラのような王座に座り、古代の奴隷スタイルの男性らに担がれてコートに登場しました。この時点で、キング夫人に期待をする観客はごく少数でした。多くの関係者はキング夫人に悲観的な予想をしていたのですが、本人は自信に満ちており、自分の勝利に多額の現金を賭けていました。こうして「性別間の戦い」Battle of the sexesと名付けられた女性対男性のテニスのシングルマッチが始まりました。 ※本記事ではビリー・ジーン・キングの略称として「キング夫人」を使用します。これは私の記憶する限り、70年代から80年代にかけてメディアでは「キング夫人」と呼ばれていたからです。 ビリー・ジーン・キングとは 1943年にカリフォルニア州ロングビーチに生まれます。消防士の父はバスケットボールと野球が得意で、専業主婦の母は水泳が得意という家系で、弟はのちにサンフランシスコ・ジャイアンツの投手になっています。ジーンは野球とソフトボールが得意な子供でしたが、両親はもっと女の子らしいスポーツをして欲しいと望み、テニスを勧めました。お小遣いで8ドルを貯めてラケットを購入すると、学校の友達と一緒に無料のテニスレッスンに通いました。 そこからテニスにのめり込み、13歳の頃には世界一のテニス選手になると公言していました。高校でもテニスを続け、カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校に進学しますが、1964年にプロになるべく大学を中退しています。ちなみにこの大学で、後に結婚するラリー・キング(CNNで放送されていたラリー・キング・ライブのホストとは別人)と出会っており、65年に結婚してキング夫人になりました。 そこからはキング夫人の快進撃が始まります。66年と67年、68年はウィンブルドンで優勝し、67年は全米選手権(現在の全米オープン)、68年は全豪選手権(現在の全豪オープン)でシングルと混合ダブルスで優勝しています。そして四大大会にプロの出場も解禁になり、現在のオープンに変わっても強さは健在で、71年は全米オープン優勝、72年は全仏オープン、ウィンブルドン、全米オープンで優勝しました。キ

井上尚弥は逃げたのか? /アンチの言い分を聞いてみる

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歴代の日本人世界王者が絶賛し、世界的にも高い評価を得ている 井上尚弥 ですが、これだけ絶賛されると一定数のアンチが出てきます。彼らは井上尚弥は強豪から逃げ回っていて、弱い相手を選んで試合をしていると主張しています。その中には笑ってしまうほど見当違いのものもありますし、なんとも微妙なものもあります。そこで今回は、井上尚弥が逃げたと言われている選手に関して書いていきたいと思います。 そもそも対戦相手から逃げるとは 古くから世界王者が強い挑戦者を回避して、王座を保持し続けることがありました。そこで指名試合という制度が生まれ、世界王者は一定期間内に最上位の世界ランカーと試合することが義務付けられました。しかしなんだかんだと理由をつけて逃げ回る世界王者がいるのも事実で、たびたびその行為が議論になります。もちろん指名試合は行わなければなりませんが、ボクシングの試合は興行でもあり、ビジネスとして成立しなければ試合が組まれないこともあるのです。 五輪で2度の金メダルに輝いた ギレルモ・リゴンドウ はプロでも世界王者になりますが、試合が面白くないと言われ続けて興行の利益は厳しいものでした。さらにリゴンドウのマネジメント会社がペーパーカンパニーだとわかると、彼の背後にいる怪しい人物達が噂され、なかなか試合が組まれなくなりました。リゴンドウの実力は間違いないのですが、興行として厳しいとファイトマネーは下がりますし、最悪の場合は試合が組まれなくなってしまいます。 ※ギレルモ・リゴンドウ 複雑なビジネスの中にボクシングは存在し、両者が試合を望んでも簡単には実現しないことがあるのです。そのためファンが望んでも試合が実現しないことは珍しくありません。ネットに「○○は□□から逃げている」と書かれていることの何割かは、単にファンが望んでいる試合が実現しないから逃げていると言っているだけだったりします。逃げているのと、試合が組まれないのは全く意味が異なるのです。 ローマン・ゴンザレスから逃げた? ローマン・ゴンザレス (以下、ロマゴン)は、ミニマム級からライトフライ級までの4階級を制覇し、リング誌のパウンド・フォー・パウンドにも選ばれた名王者です。井上がロマゴンから逃げたと言われるのは2回あり、1度目はロマゴンがフライ級王者だった時です。井上尚弥はライトフライ級王者でしたが、ロマゴンの名前を口にしてい

セイコーのお家騒動とグランドセイコー /栄光と暗黒の歴史

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1881年に東京で創業した セイコー は、波瀾に満ちた歴史を辿り現在に続いています。そのため転機になる出来事は数多くあるのですが、現在のセイコーに大きな影響を与えたと思われる1998年のグランドセイコーの復活と、2010年の経営陣が起こした社内クーデターまでを中心に書いていきたいと思います。 服部時計店の創業 幼い頃から自分の店を持ちたいと考えていた服部金太郎が、1881年に東京都中央区の京橋に、中古時計の買取と販売を行う服部時計店を創業したのがセイコーの始まりです。その商売は上手くいき、11年後の1892年には置き時計を製造する工場である精工舎を設立しました。やがて精工舎は懐中時計、そして腕時計の製造も行うようになります。 世の中の主流が腕時計になると、1937年に腕時計の製造部門を独立させた新工場の第二精工舎を東京の亀戸に設立しました。これが今日の セイコーインスツル(株) になります。ところが1941年に始まった太平洋戦争で東京の工場は爆撃の目標になりやすいため、第二精工舎は長野県諏訪市に疎開しました。ここは諏訪工場と呼ばれ、現在の セイコーエプソン(株) になります。戦争が終わると第二精工舎(通称、亀戸)と諏訪精工舎(通称、諏訪)はライバル関係になり、開発競争を行うことになります。 ※第二精工舎 また終戦後の1947年、服部時計店は小売部門を独立させて (株)和光 を設立しました。こうして現在のセイコーを構成する主な部門が戦後に出来上がりました。 天文台コンクールの快挙 東京でのオリンピック開催が決まると、諏訪は世界に挑戦する最高級の腕時計を作るという理念を掲げ、1960年に グランドセイコー のブランド名で高級腕時計に進出します。この頃の日本の時計業界の目標は、世界最高峰のスイス時計に少しでも近づくことでした。そのため諏訪はスイスの天文台コンクールに出品する計画を立てました。これを聞いた亀戸は、自分達も参加を検討し始めました。こうして1963年に諏訪が、翌年の64年からは亀戸もニューシャテル天文台コンクールに参加しました。これは時計の精度を競うもので、さまざまな姿勢に置かれた時計の狂いを測定するコンクールです。 ここから諏訪と亀戸は互いにしのぎを削り、67年には亀戸が2位に入賞しました。これら日本勢の猛攻に、67年に優勝したオメガは68年にはクォーツ式時計