野茂英雄01 /堕ちた日本球界のヒーロー

 1995年7月、野茂英雄の代理人のダン野村は外務省からかかってきた電話に対応していました。「総理が野茂さんにお祝いを伝えたいと言っています。野茂さんと直接話すことはできますか?」と言う外務省担当者に、ダン野村は気まずそうに答えました。「野茂は話したくないと言っています」外務省担当者は驚きましたが、野茂は日本からのお祝いを素直に受け入れられる心境ではなかったのです。裏切り者と呼ばれ、多くの脅迫電話を受け、友人だと思っていた人達からは縁を切られ、まるで追われるようにアメリカに来てから、まだ半年しか経っていませんでした。一斉に手の平を返した日本に、野茂は疑心暗鬼になっていたのです。


野茂英雄が日本球界から追われ、アメリカMLBで成功するまでを2回に分けて書いていきたいと思います。

野茂英雄の誕生

1968年、野茂英雄は大阪市の下町に生まれました。周囲は工場地帯で、工場の壁にボールを投げて遊んでいたようです。この頃の子供の遊びといえば野球です。野茂は友達と野球をして遊び、どうやったら速いボールを投げられるか考えていました。そして父親とキャッチボールをしている時に、体を大きくねじることで速いボールを投げられることに気がつきます。速球に驚く父親をもっと驚かせたくて、野茂は投げ方を工夫していきました。こうして後のトルネード投法の原型が生まれていきました。

小中学校時代の野茂は、特に注目されることはありませんでした。高校進学は複数の名門校のセレクションを受けますが不合格になり、最終的に大阪府立成城工業高等学校(現在の成城高校)に入学します。そこで徐々に頭角を現すようになり、1985年には完全試合も記録しています。高校3年時にはプロからの誘いもありましたが、最終的に新日鐵に入社しました。この新日鐵時代にフォークボールを習得し、都市対抗野球で活躍した結果、1988年のソウル五輪代表に選出され銀メダル獲得に貢献します。さらにインターコンチネンタルカップの代表にも選ばれ、日本アマチュア野球のNo.1投手として認知されるようになりました。

日本でのトルネード旋風

1989年のプロ野球ドラフト会議では、史上最高の8球団から1位指名を受けます。抽選は近鉄バファローズが引き当て、近鉄への入団が決まりました。この時、野茂は近鉄の監督だった仰木彬に対して、独自の調整方法を認めて欲しいことと投球フォームをいじらないで欲しいとお願いしています。仰木は勝てるならなんでもいいと快諾し、その後どんなに周囲から言われても野茂の投球フォームには口を出しませんでした。

※仰木彬

90年にプロデビューした野茂は、最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率の四冠を達成し、ベストナイン・新人王・沢村栄治賞・MVPにも輝きました。野茂が大きく体を捻る独特のトルネード投法は大きな話題になり、野球ファンでなくとも野茂とトルネードを知っていました。寡黙で淡々とした話し方も真面目な印象を与えて世間には好評で、プロ入り1年目にして野茂はプロ野球のスーパースターに駆け上がりました。

そしてこの年、野茂は日米野球に出場しました。ランディ・ジョンソンやバリー・ボンズ、ケン・グリフィー・シニアとジュニアらのスーパースターと試合に挑んだ野茂は、MLBへの憧れを強くしました。そしてこの試合に出場した、ワールドシリーズ覇者の投手ロブ・ディブルは、野茂の投球に見惚れていました。ディブルは野茂について「ボンズもケン・グリフィー・ジュニアも、みんなで話していたよ。『マジかよ!』って感じでさ」と語り、さらに「野茂がメジャーで通用するか?って質問されたランディ・ジョンソンは『間違いない』って言ってたよ。だから俺も言ったんだ『彼なら地球上のどのリーグでも投げられる』ってね」

大エースの風格

近鉄でチームメイトだった石井浩郎は、野茂が先発する日は野手全員が野茂を勝たせようと漲っていたと語ります。投手が1点に抑える好投を見せても、打線が全く打てずに投手に負けがつくことがあります。基本的に先発投手は6回3失点に抑えれば及第点なのですが、打線が全く打てないために好投しても敗戦投手となってしまうことがよくあるのです。そんな時、多くの投手は打てない打線に不満を漏らし、野手は投手に申し訳ないと思うのです。ところが野茂はどんなに野手が打てなくても「次、がんばりましょう」と言って野手を全く責めなかったそうです。


ある試合で、野茂が好投していたものの二日酔いで来ていた金村義明が三遊間の平凡なゴロをスルーして負けてしまいました。キャッチャーの光山英和は野茂を慰めるためにホテルの部屋に行き、話をしていました。光山が「金村さんのあのプレイがなぁ」と愚痴ると野茂は「そう言うことを言うもんじゃないですよ。次頑張ればいいんですよ」と年下の野茂が諭したそうです。思わず唸った光山は石井の部屋に来て「野茂はどえらい男ですよ」と感心していたと語っていました。

こうした野茂の振る舞いは、チームに「野茂を勝たせたい」という機運を生みました。野茂は三振をたくさん奪ったからエースになったのではなく、チームに勝ちたい勝たせたいという気持ちを芽生えさせたからエースになったのです。野茂はまだ二十代前半の若者でしたが、近鉄に大きな影響を与えていました。

近鉄での暗雲

オリックスの長谷川滋利は、敵でもありながら野茂との交流を深めていました。二人が話したのは、いつかMLBのマウンドに立つという夢でした。それは現実的な話ではなく、日米プロ野球協定により選手の引き抜きが禁止されている状況では、夢物語に近い話でした。いつかMLBに挑戦するという夢を語り合っていたのですが、野茂はメジャーどころか近鉄での立場も危うくなっていきます。

プロ2年目の91年は、31試合に登板し17勝を挙げています。前年の18勝には届きませんでしたが、6試合連続二桁奪三振などで話題を振り撒き、92年には再び18勝して防御率も2.66を記録しました。野茂はパリーグを代表するピッチャーとなり、野茂の人生は順風満帆に見えました。しかし野茂の最大の理解者であった仰木彬監督が、この年に辞任しました。仰木監督は辞めていく際に野茂のことを心配していました。チームを去る直前に、仰木監督は野茂と並ぶ近鉄のエースである阿波野秀幸に、こんなことを言っています。

「いままではオレがいたから、コーチやOBがあれこれ言っても野茂はいまのままでいいんだと言うこともできた。オレがいなくなるのだから、これから先、野茂の投球フォームを変えようとするコーチがいたら、アンタがしっかり止めないとあかんよ」

阿波野は戸惑いました。選手の一人に過ぎない自分が、コーチや監督の指示に反抗することなどできません。それは仰木監督もわかっていたはずです。しかしそれでも言わなければ気が済まなかったのでしょう。野茂の課題はコントロールでした。変則的なトルネード投法で投げるためか制球が定まらないことが多く、多くの人が野茂の投球フォームを変えるように言っていました。仰木監督はそれをはねつけ、野茂のやりたいようにやらせていたのです。そして仰木監督の心配は、翌年に現実のものになります。

鈴木啓示監督との反目

93年に近鉄の監督に就任したのは、かつての大投手だった鈴木啓示でした。鈴木は大投手であった自負や過去の栄光に囚われ、自身が現役だった頃の教えにこだわりました。当時でさえ前時代的と言われた根性論をチームに持ち込み、特に投手陣に対しては特に強く強要しました。全ての投手に対して投げ込みが足りないと言い、オーバーワーク気味に投げてもまだ投げ込みが足りないと断言しました。肩の痛みを訴える投手には、さらに投げれば肩は治ると怪我をした投手に投げ込みを強要しました。


さらに走り込みが大事だと言い、どれだけ走れば良いのかと問う選手達に対して「とにかく走るんだ」と闇雲に走らせました。こういった指導方法には選手だけでなくコーチも違和感を覚えます。コンディショニングコーチの立花龍司は、これらの練習方法について鈴木と対立していき93年のシーズン終了とともに退団しました。立花を信頼していた野茂にとっても、これは大きな痛手になります。その野茂は鈴木によって93年シーズンは最多の32試合に登板となり、しかもその全てが先発でした。

無理な起用に野茂の右肩は悲鳴を上げますが、鈴木は根性論で押し通して起用を続けます。ついに右肩が上がらなくなった野茂は、車も片手で運転するようになりますが、鈴木は投げ込めば治ると言って先発ローテから外しませんでした。さらに鈴木は野茂に投球フォームを変えるように何度も言います。野茂は断固として断りますが、メディに対して「いつか泣きついてくる」と露骨に野茂の投球フォームを批判していきます。

こうして無理な起用が続いた結果、94年シーズンの野茂は怪我に苦しみ、それまでのキャリアの中で最低の記録となりました。それまで二桁勝利が当たり前だったのに、94年は17試合に登板して8勝7敗でした。防御率も3.63となり、パリーグを代表する投手としては物足りない結果になってしまいました。野茂は鈴木監督への不信感を強めますが、チーム全体に鈴木監督への不信感と不満が溜まっていきます。

近鉄球団との反目

近鉄バファローズは、決して金銭的に裕福な球団ではありませんでした。そこに突如として野茂英雄というスーパースターが現れ、戸惑いも生じていました。選手は活躍すればするほど年俸が上がっていきますが、払える年俸には限界もありました。近鉄としては野茂の活躍は嬉しいが、読売ジャイアンツのような高額年俸を払えるはずもなく、野茂にもなんとか年俸を抑えてもらいたいのが本音だったのです。そのため少しでも安く選手を使おうとする球団に対して、野茂は仰木監督時代から不満を持っていました。

※ダン野村

94年の契約更改で、野茂は代理人交渉制度を希望しました。ダン野村を野茂の代理人として、球団と交渉しようとしたのです。しかし近鉄は「年俸吊り上げのための口実」だとして激しく拒否します。さらに球団社長はメディアの取材に対して「年俸をもっとよこせ、ということでしょう」と野茂を守銭奴のように言い、契約更改の場では野茂本人に対して「君はもう近鉄の顔ではない」と言い放ちます。野茂は限界に来ていました。野茂とダン野村は、メジャー移籍のために動き出しました。

まとめ

野茂はどうしてもメジャーに行きたいというより、どうしても近鉄から離れたいという想いが強かったようです。近鉄は仰木監督時代にな常にAクラス入りで優勝を争っていましたが、鈴木監督になってからは4位、2位、6位と成績を下げていき、野茂が去った95年に辞任しました。監督としては周囲からだけでなく選手からも酷評されており、その後に当時のことを振り返って、反省の弁を述べています。そして野茂はここからロサンゼルスに移り、目覚ましい活躍を見せるのですが、それはまた別に書きたいと思います。

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