野茂英雄02 /日本球界からの脱出と栄光

前回は、野茂英雄がパリーグを代表するエースとなりながらも、所属する監督の交代によって近鉄バファローズに不満が溜まっているところまでを書きました。そして野茂はダン野村と組んで、MLBに移籍するべく動き出します。しかしこれが日本中を巻き込んで、大バッシングを生むことになってしまいます。


前回記事
野茂英雄01 /堕ちた日本球界のヒーロー

ダン野村の策略

野茂が近鉄ではこれ以上プレイできないと感じていること、メジャーリーグに憧れを持っていることから、ダン野村はMLBへの移籍を視野に入れて動き出します。ダン野村はアメリカ人の女性弁護士、ジーン・アフターマンに協力を依頼します。ジーンは「日米間選手契約に関する協定(通称、日米協定)」を読んだ後、こう言いました。「これって違法じゃないの?」

※ジーン・アフターマン

選手の権利を著しく制限する日米協定に対する違和感に加え、それを打破できる可能性がある選手がいると言うダン野村の言葉に、ジーンは協力することにしました。そこでジーンとダン野村は日米協定を細かくチェックし、日本の選手がアメリカのチームに移籍することを禁止しているものの、現役の選手に限られていることに気づきます。つまり野茂がMLBに移籍するには、日本プロ野球を引退する必要があったのです。

また「日本プロフェッショナル野球協約」を細かく見直したダン野村は「任意引退」という言葉に目をつけました。自己都合により任意引退をしたプロ野球選手が復帰する場合、元のチームで復帰しなければならなくなっていました。しかしこの条項には日本のプロチームと書かれており、海外の球団は言及されていません。つまり任意引退した選手であれば、MLBに移籍できるのです。

ジーンは日本プロ野球機構に、日本プロ野球を引退した選手であればMLBに入団するのは問題ないか?と質問状を送ります。日本プロ野球機構は問題ないと返事を返し、これで言質を取ることができました。次の問題はどうやって野茂を任意引退にするかです。任意引退には選手の希望を球団が受け入れなければ、任意引退選手のリストに名前が乗らないのです。そこでダン野村は作戦を立てました。

作戦Aは契約更改時に6年間で24億円という桁外れの要求をすることです。当時は複数年契約の例はほとんどなく、また金額も大きいことから球団が認めず、他のチームとも契約できないように任意引退にするだろうという目論見でした。作戦Bは、契約がまとまらず任意引退も引き出せなかった場合に、1年間は徹底抗戦してキャンプにも試合にも出ないことでした。さらに作戦Cは、球団に任意引退が封じられた場合はアメリカのカリフォルニア州で裁判を起こすことでした。裁判になった場合、労使が強いカリフォルニアなら確実に勝てる勝算がジーンにはありました。そこでまずは作戦Aから始めることにしました。そしてこの作戦Aが、日本全体に野茂バッシングを巻き起こすことになります。

引退とバッシング

ダン野村が立てた作戦Aは、近鉄を怒らせて引退を引き出すことが目的でした。94年シーズンに成績を落としていた野茂は、球団から激しい批判されることが予想されましたし、世論も敵に回す可能性があると思っていました。覚悟を決めた野茂が契約更改の場で複数年契約を持ち出すと、近鉄の前田社長は怒り、呆れ、物別れに終わりました。前田社長はダン野村の義父である野村克也に連絡し、ダン野村と野茂を説得するように依頼しました。怒った野村克也はダン野村に電話しますが、ダンは「これが私の仕事です」とはねつけました。

※ダン野村と野村克也

2回目の交渉では近鉄側は野茂1人に対して8人がかりで説得しますが、野茂は球団側の条件を全て拒否します。エントランスで待つダン野村のところに野茂が走ってやってくると「みんな怒ってます!」と嬉しそうに言いました。慌ててダン野村は野茂を連れて会議室に行くと、前田社長は激昂して「サインしないなら、我々はここで引退させるぞ」と迫りました。野茂は「わかりました、では引退します」と言い、8人の球団職員は呆気に取られてしまいました。こうして野茂のプロ野球引退が決まりました。スポーツ新聞だけでなく一般紙もこの衝撃的なニュースを伝え「野茂引退」の文字が踊ることになります。

そして野茂が日本プロ野球を引退し、MLBに挑戦することを表明すると日本国内は大騒ぎになりました。野茂英雄がダン野村と組んで、日本球界の不文律を破ろうとしていることに、全マスコミが否定的に報じ、日本中で大バッシングが始まります。ダン野村は金の亡者と言われ、「殺すぞ」といった脅迫電話が何件もかかってきたと言います。この日を境に野村も野茂も多くの友人を失いました。そして各方面からの批判は、鳴り止みませんでした。

特にプロ野球OBからは激しい批判がありました。「すぐに逃げて帰ってくる」「勘違いで自意識過剰」「近鉄に対して態度が悪すぎる」「メジャーで通用するわけがない」「日本球界の裏切り者だ」といった言葉が連日のようにメディアで紹介されていました。特に近鉄監督の鈴木啓示は野茂の移籍に強い不快感を示し「あいつのメジャー挑戦は、人生最大のマスターベーションだ」とまで切り捨てていました。ごくごく一部にスポーツ誌Numberのように好意的な記事を書く媒体もありましたが、テレビと新聞は野茂批判一色でした。そんな中、ダン野村も気持ちが落ち着かない日々を過ごしましたが、野村の目に映る野茂は平常心だったと言います。しかしちょくちょく連絡をくれていた友人達から連絡がなくなり、球界でも友人だと思っていた選手が批判的なコメントを出しているのを見ると、気持ちが落ち込むこともあったようです。

ロサンゼルス・ドジャースへの移籍

激しい批判を受ける中、野茂とダン野村はメジャー球団との面会を続けました。野茂はロサンゼルス・ドジャースのオーナー、ピーター・オマリーと会談してドジャースを希望することを決めました。オマリーは親日家でもあり、野茂との話に花が咲きました。そしてオマリーは野茂を欲しており、この会談で勝負を決めると誓っていたのです。野茂はドジャースに移籍を決め、一度帰国してからアメリカに旅立ちました。その際、野茂を見送りに来たのは数人のファンとわずかなメディアだけでした。「どうせすぐに泣きついて帰ってくる」という世間の声を背に、野茂はロサンゼルスに旅立ったのです。

※入団会見

1995年2月13日、ロサンゼルスのリトルトーキョーにあるホテルで、野茂は入団会見に挑みました。この会見でオマリーは最大級の賛辞を野茂に送り、大きな期待を表明しました。しかし野茂がこの場に立つために、どれほどの犠牲を払っていたかはオマリーもアメリカメディアも知りませんでした。野茂は文字通り退路を絶ってロサンゼルスの地に立ちました。しかし強い意気込みの野茂に反して、この時MLBは大きな問題を抱えていました。プロスポーツ史上最長のストライキ中だったのです。

MLBのストライキ

MLBは高騰する選手の年俸に頭を痛めていました。平均年俸は過去5年間で約2倍に膨れ上がり、勝ち続けることでサラリーを払えなくなるチームが出ていました。そこで労働協約が切れた93年から、選手会と球団側で話し合いが持たれるようになり、球団側はサラリーキャップ制度の導入を要望しました。これはチームが選手に支払う収益に占める年俸総額の割合を抑え、1球団当たりの選手の年俸の平均額を抑えるものでした。これに選手側は、ほとんどの選手の年俸が下がると激しく反発します。


選手会側は94年8月12日までに球団側が要求を飲めないなら、ストライキを行うと宣言します。野球ファンの多くはストライキに反対の姿勢を示しました。8月に入ると多くの球場では選手やチームを応援する横断幕ではなく、ストライキ反対の横断幕が出るようになりました。しかし両者の主張はなんら妥協点を見つけることができないまま、ストライキが始まってしまいます。そしてついにはプレイオフとワールドシリーズが中止になり、当時の大統領だったビル・クリントンも和解のために動き出しました。

金の亡者同志の金の奪い合いだという批判がファンの間で巻き起こり、年間何億円も受け取っている選手達が、ファンを顧みずにストライキを決行したことに批判が集まりました。これを好機と見た他のスポーツは積極的にキャンペーンを張り、野球ファンを取り入れるべく動き出します。実際に自身の強欲さばかりを主張する野球への関心は低下していき、これには球団側も選手側も危機感を募らせるようになりました。

1995年シーズンは4月3日から開幕の予定でしたが、なんとか交渉がまとまり4月25日に開幕が決まりました。開幕戦では多くの球場でブーイングが発生し、テレビニュースも開幕戦の様子よりも、やっと始まったことと自己主張ばかりを繰り返していた選手と球団を批判するコメントに終始しました。野茂英雄はこういった状況でMLBデビューを行いました。アメリカのファンからすると、今年からやってきた野茂は数少ない強欲ではない選手でした。

アメリカでのデビュー戦

野茂は背番号について16番を希望し、チームはそれを認めました。野茂が16番にこだわったのは、映画「メジャーリーグ2」に出演した石橋貴明がつけていた背番号だったからです。日本で総バッシングを受けて意気消沈している中、数少ない連絡をくれたのが石橋でした。落ち込んでいる野茂に応援の言葉を送り、勇気づけてくれた石橋と同じ背番号でアメリカで戦いたいと思ったのです。

5月2日、サンフランシスコ・ジャイアンツ戦で野茂はデビューします。これまで激しくバッシングしていた日本のメディアは手のひらを返して、野茂は日本の誇りだと騒いでいました。その様子にダンと共に野茂にMLBへの道を開いたジーン・アフターマンは呆れつつ内野席で野茂の登板を見守っていました。大きな期待と不安を胸に、ダン野村もスタンドから見守っています。ジャイアンツの広報は、日本から押し寄せるメディアに大量のメディアパスを発行しながら驚いていました。「野茂は日本で嫌われてるって聞いてたけど、間違いだったのか?」


そして野茂が大きく振りかぶり、トルネード投法で第1球を投げてストライクを取ると、スタンドに大きなどよめきが起こりました。誰も見たことがない奇妙な投げ方ですが、その球筋は本物でした。見逃し三振で片付けると、スタンドからは大きな拍手が湧き上がり、その様子をダンとジーンは震えながらスタンドで見守っていました。二人が野茂はメジャーで通用すると確信したのです。しかしここから野茂は緊張からは制球が乱れていき、3つのフォアボールを出してしまいます。2アウト満塁のピンチに、ピッチングコーチのデイブ・ウォレスは思わずマウンドに駆け寄りました。

「とにかく何かを言って落ち着かせなきゃって思った。だけど慌てて、野茂に話す時のための日本語のメモを忘れてきちゃったんだよ」とデイブは言います。キャッチャーのマイク・ピアッツァもマウンドにやって来ましたが、二人とも日本語は全く話せませんし野茂のが英語をほとんど理解できないことも知っていました。「とにかく何か声を掛けないといけないし、英語が通じないこともわかってたからね。で、なんでそんなことをしたのかわからないけど、とにかく英語以外で話そうと思って『ノモ、ノモ、コモエスタ』(野茂、元気?)ってスペイン語で言っちゃったんだよ」

これには野茂も思わず笑い「グッド」と返しました。これで緊張がほぐれたのか好投を見せ、5回1安打無失点7奪三振の文句なしの出来を見せてマウンドを降りました。一部のメディアはトルネード投法を見て「野茂がセットポジションに入ってからボールが来るまでに居眠りができる」と茶化していましたが、この野茂の好投は離れ掛けていた野球ファンの関心を集めました。日本からやって来た奇妙な投げ方の投手がすごいぞと、野球ファンの関心が戻って来たのです。

アメリカでのトルネード旋風

好投を続ける野茂が6月2日のメッツ戦で初勝利をあげると、アメリカのうるさ型の評論家も論調を変えていきました。キャッチャーミットから目を離すトルネード投法に批判的な論客はいましたが、速球と切れ味鋭いフォークボールは本物でしたし、果敢に三振を狙う姿に好感を持つ人も増えました。スタジアムでは野茂が三振を奪うたびにKの文字が掲げられ、ドクターKの愛称とともに熱狂的なファンを生んでいきます。そして6月に連勝すると、野茂を目当てに球場に足を運ぶファンが増えていきます。


何よりアメリカのファンを引き付けたのは、派手さを嫌う木訥(ぼくとつ)な野茂の振る舞いでした。アメリカの野球ファンは、何かと金ことを口にする野球選手に嫌気がさしていましたが、野茂は誰も批判せず、自分の仕事だけに集中し、わずか1000万円の年俸に不満も漏らさずに大活躍していました。この頃、アメリカの各地で子供達が野茂を真似て投球する姿が見られたそうですし、テレビ番組でも野茂の投球フォームが何度も取り上げられています。野茂がオールスターに選出され、先発を任されると全米でも大きな話題になりました。総理大臣の祝電を拒否した野茂は、まだ日本で受けた傷が癒えてませんでしたが、アメリアのファンは野茂を歓迎しリスペクトしていました。

野茂は低迷し掛けていたMLB人気の救世主となりました。そしてNOMOマニアという熱狂的な人々を生み出しました。そしてこの年はアメリカの野球ファンの間で「Sanshin(三振)」が流行語になっています。ニュースキャスターは野茂が登板する日には、「今日は野茂のSanshinショーが見られるよ」と煽っていたほどです。

まとめ

日米の野球に関する本を書いたロバート・ホワイティングは、日本のメディアや世論の手のひら返しが早過ぎたことに苦笑いを述べていましたし、アメリカメディアでも日本の急激な世論の変化に言及していました。また「アメリカのボールは日本と違うから上手くいっている」「縫い目が違うからフォークが鋭い」など、言い訳を繰り返す日本メディアのコメントが紹介されることもありました。野茂は激しい批判を浴びながらも、実力でその批判をねじ伏せてスター街道を突き進みました。断言できますが、野茂の成功がなければ日本人のMLBでの成功はありませんでした。イチローはキャンプへの参加までで終わり、吉井も松井もダルビッシュも日米協定の壁に阻まれ、日本でキャリアを終わらせていたでしょう。その壁が高過ぎたため野茂が味わった痛みは大きかったのですが、歴史を変えたパイオニアとして名前が刻まれています。

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