サーキットの純愛物語 GPライダー原田哲也とレースクイーンの恋

モデルをやっていた高校生の美由希さんがレースクイーンになり、サーキットにやって来ます。1989年のことでした。美由希さんはライダーの傘持ちで、担当したのが原田哲也という若手のライダーでした。レースのこともライダーのことも全く知らない美由希さんは、原田が注目株の人気ライダーだとは知りませんでした。




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二人の出会い

美由希さんが原田に会った時の第一印象は「小さっ!」でした。170cmの長身に高いヒールを履いた美由希さんは、163cmの原田を見下ろすように挨拶したと言います。一方、原田の美由希さんの第一印象は「女子高生なのに老け顔」でした。互いに決して良い第一印象ではありませんでしたが、レースが始まると美由希さんは、その光景に目を奪われす。

原田はオートバイを自分の手足のように自在に操り、爆発的な速さでサーキットを駆け抜けます。数千人のファンが原田の走りに歓声を送る様子を見ながら、美由希さんはもっと原田のレースを見たいと思ったそうです。

※原田哲也は31番を使い続けました。

いつも眠そうな顔に甲高い声で喋る小さい原田に、美由希さんは恋をしました。レースと普段とのギャップにやられたと言います。どちらからアプローチしたかは、お互いが「向こうから声を掛けてきた」と言うので、真相はわかりません。ともかく若手注目株のライダーと、レースクイーンのカップルがサーキットに誕生しました。

ライダーとレースクイーンの恋というと、いかにもバブル期の話をに聞こえますが、美由希さんの周囲は反対する人も多かったそうです。今もそうですが、全日本のライダーは収入が少なく支出が多いのです。要するに貧乏で転戦ばかりで怪我も多く、将来性も見えません。美由希さんなら、他にいくらでも良い男が見つかったはずですが、小さい原田にくっついて周り、仲睦まじい様子を見せています。

※原田哲也

世界最高峰の舞台へ

92年に原田が全日本チャンピオンになると、93年からロードレース世界選手権への参加が決まります。美由希さんは原田と一緒にヨーロッパに行くことを決めましたが、美由希さんの周囲は心配していました。世界選手権は世界各地を転戦するので、根無し草のような生活です。原田が世界選手権で通用する保証もありません。しかし楽天的な美由希さんは、迷うことなくついていくことを決めました。日本で数千人のファンを熱狂させた原田が、世界最高峰の舞台でどんな景色を見せてくれるのか、見てみたかったのです。

世界選手権の初シーズンは初戦でいきなり優勝の快挙を遂げると、そのままチャンピオン争いに加わり、最終レースにまでもつれ込みました。93年の最終レースはスペインのマドリード郊外で、満員の観客の前で行われました。ピレリ・チームのカピロッシが優位の中、アプリリアのビアッジを加えて最終ラップまで三つ巴の激しいバトルが展開され、原田が勝利して原田のワールドチャンピオンが決まりました。

 ※初戦でいきなり優勝し、スタッフに抱きつかれる原田

初めて原田に会った時、美由希さんは数千人のファンが熱狂する光景を見て、もっと見てみたいと思いました。そしてこの時、数万人のファンが原田のレースに熱狂し、原田の名前を叫んでいました。美由希さんの目には、どんな景色が映っていたでしょう?初挑戦の93年シーズンは、日本人初のワールドチャンピオンの誕生という劇的な結果で幕を閉じました。

この様子を伝えたニュース映像に、スタッフと一緒に泣いている美由希さんの姿が一瞬だけ映っています。

美由希ワールド

原田は、その冷静沈着な走りと肉食獣のように一気に襲いかかる姿から「クールデビル」と呼ばれていました。しかし誰より気が強く、おっとりとした喋り方からは想像もつかないほどの闘争心を持っていました。チャンピオンとして迎えた94年から、アプリリア・ワークスのビアッジが、原田の前に立ちはだかります。ビアッジとの激しい戦いは、レースを見守る美由希さんにとって、心臓に悪いものでした。いつも祈るような気持ちでレースを見ていたと言います。

しかし原田は「そんなことないと思いますよ」と、笑顔で言います。それは美由希さんが激しい天然ボケの性格のため、ピリピリした原田に随分とズレたことを言っていたので、原田から見ると心配しているのか安心しているのかわからない面があったからです。原田が「美由希ワールド」と名付けた天然ボケは、ビアッジとの戦いで荒れた原田の神経を癒してくれたそうです。そして張り詰めたヤマハ・ワークスチームも、美由希さんに何度も和まされます。

※美由希さんの登場は0:50からです。

原田の驚くべき移籍
原田は94年以降、どうしてもアプリリア・ワークスのビアッジに勝てませんでした。敗因を聞かれた原田は「ビアッジに負けてるんじゃない!アプリリアに勝てないんだ」と答え、ヨーロッパ各紙がこれを報じました。そしてこれは負け惜しみではなく、ヤマハとアプリリアの戦力差を明確に示した言葉だと受け取られました。そしてアプリリアが動きます。

驚くべきことに、アプリリアはビアッジを放出して原田を獲得しました。イタリアの会社のアプリリアが、イタリア人で3年連続ワールドチャンピオンのビアッジを放出して、日本人の原田を獲得したのです。すでにジャパンマネーのマジックもなく、純粋にアプリリアはビアッジよりも原田の方がシーズンを戦えると判断したのです。こうして原田は海外のファクトリーチームと契約した初の日本人ライダーになり、絶対に勝たなければならない状況になりました。そしてビアッジも雪辱を胸に、絶対に勝たなければなりませんでした。

※放出されたマックス・ビアッジ

結婚と歴史に残る戦い

原田と美由希さんは、長い交際を経て結婚しました。互いにケジメをつける意味で籍を入れたそうです。レース関係者の間では「え!?あの美人が原田の奥さんなの?原田にはもったいないよ」というジョークが、お約束のようにあちこちで言われます。美由希さんはアプリリア・ワークスのチーム内でも人気者で、その天然ボケはスタッフを和ませていました。

一方、原田はアプリリアに移った97年以降は、激しい戦いの中に身を置きます。ビアッジは激しい闘争心を胸に戦い抜き、さらにカピロッシも加わり、歴史に残る激しいシーズンを過ごしました。97年は不運なアクシデントもありながら、火花が出るようなバトルの末にビアッジにタイトルを渡してしまい、98年はワールドチャンピオンをほぼ手中にしておきながら、カピロッシの追突でタイトルを逃す不運が続きます。しかしアプリリアからの信頼は絶大で、500ccクラスへのエントリーが決まりました。

※98年の最終戦 凄まじい攻防と呆然となる幕切れ

わずか2年でアプリリアは資金難のために500ccクラスを断念したため、原田は再び250ccクラスに帰ってきました。しかしそこには類いまれなる才能を持った若手、加藤大治郎がいました。加藤は世界的に見ても稀有な才能の持ち主で、原田は加藤との戦いに敗れました。全てをやり尽くし、後輩の台頭もあって原田は32歳で引退を決めました。

引退とその後

原田の引退会見には大勢が集まり、原田が常々「大嫌いだ」と公言していたビアッジも訪れました。ビアッジは
250ccクラス時代に、ウォルドマン、ジャック、中野ら信じられないライダーたちと走ってきたが、テツヤは僕の真のライバルだった。93年にワールドチャンピオンに輝いたとき、全く新しいスタイルをグランプリに与えた。全く異なったラインを走っていたし、僕は彼から多くのことを学んだ。この世界は彼の引退を悲しむだろう。テツヤは全ての時代において、最高のライダーの1人だ。
と、最大級の賛辞を送り、後に一緒に食事をする仲になります。また、追突されてから犬猿の仲になっていたカピロッシとは、互いの家で食事をするほどの仲になっているようです。

引退後はモナコに住居を構え、2人の子供を授かりました。現役時代に稼いだお金を投資機関に預け、その資金で悠々自適な隠居生活を送っています。美由希さんと原田は子育てに専念し、たまにチャリティイベントに顔を出す程度しか、公の場には姿を見せなくなりました。現役時代はヨーロッパのどこに行っても注目されたため、静かな場所で過ごすことを望んでいるようです。

地中海を眺める自宅から、今2人は何を想うのでしょうか。



※記憶を頼りに書いていますので、事実と違うところがあったらスミマセン。


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