世界一になるはずだった加藤大治郎 /二輪レース最大の損失
その時、鈴鹿サーキットのシケインでは、悲鳴のようなファンの声が響き渡っていたそうです。「大ちゃん、大ちゃん!」目に涙を浮かべたファン達は、サーキットに横たわり、ピクリともしない加藤大治郎に呼びかけ続けました。
「大ちゃん、起きてよ。大ちゃん!」
目の肥えた鈴鹿のファンは気づいていました。これは単なる事故ではなく、取り返しのつかない事態が起こってしまったのだと。だから藁にもすがる想いで、加藤の名前を呼び続けたのです。
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しかしサーキットでオートバイに乗った加藤は怪物でした。各国のトップライダー達が「完璧」と評するライディングで隙のないレースを展開し、あっという間に優勝をさらっていきます。冷徹でシビアなレースの組み立て方と、抜きどころや抑えどころを直感的に見抜く才能は、誰もが羨むものでした。その加藤がマシンを降りると、ほんわかした雰囲気で笑顔を浮かべるギャップに、ファンだけでなくメディアもライバル達も惹かれてしまったのです。
2000年にはイタリアのグレジーニに加入して、世界選手権にデビューします。パシフィックGPでは日本のエース中野真矢と激しいバトルを展開して勝利しました。中野はレース中に景色がスローモーションに見えるほど集中していたのですが、それでも加藤に勝てなかったと涙を浮かべて悔しがりました。
2001年はロードレース世界選手権に250ccクラスでエントリーした2年目でした。16戦中優勝が11回で、圧倒的な強さを見せつけてワールドチャンピオンになりました。もはや250ccでは無敵の存在になり、500ccへのステップアップは必然でした。
シーズンが始まると、どのレースでも4ストローク990ccマシンが圧倒的な優位性を発揮しました。加藤はスペインGPで2位に入るなど検討して500cc勢の最高位になりますが、990ccマシンにはかないません。結果的に、この年は2ストローク500ccマシンの勝利は1度もありませんでした。
シーズン後半に入ると、加藤にも4ストローク990ccのマシンが与えられ、いきなり2位に入る強さを発揮します。しかし加藤の小さな体がマシンに体力負けすることや、マシンの熟成が進んでいないことが課題になり、シーズンオフは肉体をビルドアップし、マシンの開発に時間を割きました。
加藤のマシンは鈴鹿の130Rを抜けてすぐにフラフラし、そのままシケインのタイヤバリアに突っ込んでいきました。激突した加藤は投げ出され、ピクリとも動きません。ファンの悲鳴の中、加藤はドクターヘリで搬送され、すぐに病院で処置を受けました。意識不明の重体で、危険な状態でした。この年、ライバルたちからも世界王者になると思われた加藤に、生死を彷徨う悲劇が襲ったのです。
以前にも似たようなことがありました。2001年にサッカーのイタリア代表が、来日した時のことです。イタリア代表が練習を開始すると、そこにたまたま帰国していた加藤が激励のために訪れたのです。ヒョコヒョコと加藤が練習場に入っていくと、イタリア代表の面々はすぐに気がつき、握手をしたりサインを頼んだり、記念撮影を始めるなどして、練習が中断してしまいました。
ヨーロッパのメディアが加藤の訪問を取材する中、日本のメディアは「あれは誰だ?」と、ヨーロッパのメディアに質問する変な事態が起こってしまいました。イタリアで最も有名な日本人は、日本のメディアには全く知られていませんでした。
これほどのライダーが亡くなれば、ライバルや関係者達が次々とコメントを発表するのですが、加藤の場合は意外にコメントが少なかったのが意外でした。大好きな加藤の死が信じられず、ショックが大きすぎてコメントできなかったのです。
日本が生んだ最高の才能は、完全に開花することなく人生を終えてしまいました。この損失はあまりに大きく、他に代えようがありません。そしてこのような天才が、日本でほとんど知られていないことに歯がゆさを覚えます。しかしそれでもいいのかもしれません。世界中のファンの心の中に、天真爛漫な笑顔で爆発的な強さを見せて加藤の雄姿は刻まれているのですから。
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「大ちゃん、起きてよ。大ちゃん!」
目の肥えた鈴鹿のファンは気づいていました。これは単なる事故ではなく、取り返しのつかない事態が起こってしまったのだと。だから藁にもすがる想いで、加藤の名前を呼び続けたのです。
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加藤大治郎とは
加藤はあらゆる意味で稀有なライダーでした。世界一の座を掛けて激しい戦いが繰り広げられるGPライダーの世界では、確執や憎悪さえも生まれます。しかし加藤は人懐っこい笑顔と、ほんわかした雰囲気で誰からも好かれていました。周囲によると「そそっかしくて忘れっぽい。驚くほどマイペースで、ほっとけないキャラ」で、誰もが世話を焼きたくなる存在だったそうです。しかしサーキットでオートバイに乗った加藤は怪物でした。各国のトップライダー達が「完璧」と評するライディングで隙のないレースを展開し、あっという間に優勝をさらっていきます。冷徹でシビアなレースの組み立て方と、抜きどころや抑えどころを直感的に見抜く才能は、誰もが羨むものでした。その加藤がマシンを降りると、ほんわかした雰囲気で笑顔を浮かべるギャップに、ファンだけでなくメディアもライバル達も惹かれてしまったのです。
250ccクラスで他を圧倒する
94年に全日本選手権にデビューすると、型落ちのマシンでトップ争いを演じます。97年にはホンダのワークスマシンが与えられ、骨折などのトラブルもありながらチャンピオンになりました。2000年にはイタリアのグレジーニに加入して、世界選手権にデビューします。パシフィックGPでは日本のエース中野真矢と激しいバトルを展開して勝利しました。中野はレース中に景色がスローモーションに見えるほど集中していたのですが、それでも加藤に勝てなかったと涙を浮かべて悔しがりました。
2001年はロードレース世界選手権に250ccクラスでエントリーした2年目でした。16戦中優勝が11回で、圧倒的な強さを見せつけてワールドチャンピオンになりました。もはや250ccでは無敵の存在になり、500ccへのステップアップは必然でした。
500ccデビュー
2002年に加藤が500ccクラスに参戦し、大きな期待を集めます。しかしこの年は500ccクラスの変換期でした。この年から、従来の2ストローク500ccに加えて4ストロークの990ccでも参加できるようになったのです。加藤は新戦力の990ccではなく実績のある500ccを選びました。この時は、990ccマシンは開発と熟成に時間がかかると考えられていたのです。しかしこれが明暗を分けます。シーズンが始まると、どのレースでも4ストローク990ccマシンが圧倒的な優位性を発揮しました。加藤はスペインGPで2位に入るなど検討して500cc勢の最高位になりますが、990ccマシンにはかないません。結果的に、この年は2ストローク500ccマシンの勝利は1度もありませんでした。
シーズン後半に入ると、加藤にも4ストローク990ccのマシンが与えられ、いきなり2位に入る強さを発揮します。しかし加藤の小さな体がマシンに体力負けすることや、マシンの熟成が進んでいないことが課題になり、シーズンオフは肉体をビルドアップし、マシンの開発に時間を割きました。
世界チャンピオンになるはずの年
2003年シーズンは、加藤が大本命になります。前年のワールドチャンピオンのヴァレンティーノ・ロッシは、「最大の脅威は加藤」と言い、多くの関係者も本命に加藤を挙げていました。稀有な天才がトップを争えるマシンを手に入れ、万全の準備をしてきたのです。もはや加藤がワールドチャンピオンになるのは時間の問題でした。さらに第1戦の鈴鹿を控え、加藤には子供が誕生しました。充実した状態で2003年の鈴鹿を迎えたのです。加藤のマシンは鈴鹿の130Rを抜けてすぐにフラフラし、そのままシケインのタイヤバリアに突っ込んでいきました。激突した加藤は投げ出され、ピクリとも動きません。ファンの悲鳴の中、加藤はドクターヘリで搬送され、すぐに病院で処置を受けました。意識不明の重体で、危険な状態でした。この年、ライバルたちからも世界王者になると思われた加藤に、生死を彷徨う悲劇が襲ったのです。
混乱する欧州メディア
ヨーロッパを中心とした各国のメディアは、競うように加藤の容体に関する情報を求めて日本のメディアに問い合わせます。しかし皮肉なことに、この年最も世界中から注目されていた加藤を、日本のメディアは知りませんでした。世界最高のライダーに、母国はあまりに無関心だったのです。※搬送される加藤 |
以前にも似たようなことがありました。2001年にサッカーのイタリア代表が、来日した時のことです。イタリア代表が練習を開始すると、そこにたまたま帰国していた加藤が激励のために訪れたのです。ヒョコヒョコと加藤が練習場に入っていくと、イタリア代表の面々はすぐに気がつき、握手をしたりサインを頼んだり、記念撮影を始めるなどして、練習が中断してしまいました。
ヨーロッパのメディアが加藤の訪問を取材する中、日本のメディアは「あれは誰だ?」と、ヨーロッパのメディアに質問する変な事態が起こってしまいました。イタリアで最も有名な日本人は、日本のメディアには全く知られていませんでした。
加藤の死
入院から2週間後に、脳幹梗塞により死亡しました。まだ26歳の若さで、溢れんばかりの才能に恵まれた青年が天国に旅立ちました。多くの人々は加藤が運転ミスをするわけがないと信じ、ホンダも原因の徹底究明を約束しました。これほどのライダーが亡くなれば、ライバルや関係者達が次々とコメントを発表するのですが、加藤の場合は意外にコメントが少なかったのが意外でした。大好きな加藤の死が信じられず、ショックが大きすぎてコメントできなかったのです。
まとめ
加藤は日本人初の500ccクラス(MotoGP)の世界チャンピオンになるはずでした。死んでから神格化される人もいますが、加藤の場合は世界王者ロッシが恐れ、誰もが世界王者になるのは時間の問題だと思っていました。世界王者にならなければおかしいライダーだったのです。その加藤が鈴鹿でこの世を去った事実は多くの人に受け入れがたく、多くの選手が加藤のゼッケンナンバーをマシンやヘルメットに貼って追悼の意を表しました。日本が生んだ最高の才能は、完全に開花することなく人生を終えてしまいました。この損失はあまりに大きく、他に代えようがありません。そしてこのような天才が、日本でほとんど知られていないことに歯がゆさを覚えます。しかしそれでもいいのかもしれません。世界中のファンの心の中に、天真爛漫な笑顔で爆発的な強さを見せて加藤の雄姿は刻まれているのですから。
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