世界中を熱狂させた阿部典史を知っていますか?

9月7日は阿部典史というGPライダーの誕生日です。衝撃的すぎるデビューで世界を熱狂の渦に巻き込み、わずか32歳でこの世を去ったノリックこと阿部典史を振り返ってみたいと思います。



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1994年4月24日、ロードレース世界選手権の第3戦は日本の鈴鹿サーキットで行われました。18歳の阿部典史はこのレースで世界選手権デビューを飾り、世界中の注目を集め流ことになります。レース中は観客が総立ちになって阿部に声援を送り、各国のプレスは「阿部とは何者だ?」と、日本人を捕まえては質問攻めにしたといいます。そしてレース終了後の記事の多くは、表彰台に上がった3人ではなく阿部のために費やされ、突然出現した怪物ルーキーに世界中が熱狂しました。

※鈴鹿サーキットのレイアウト

1.阿部のマシン ホンダNSR500

型落ちのホンダNSR500はパーツをかき集めて作られていて、いかにも垢抜けないくすんだ朱色でした。タイヤもミシュランの全盛時代にダンロップを履き、戦力が大きく劣るのは誰の目にも明かでした。マシンは劣っても、この一戦で良い走りをして関係者の目にとまるようなレースをしなくてならない阿部は、レース後に「死ぬ気で走りました」と語っています。

※当時としても垢抜けないカラーリングでした。

2.レースの予想

前年の年間優勝者でスズキのワークスチームに所属するケビン・シュワンツが優勝候補の筆頭でした。RGV-Γ500の仕上がりも順調で、テクニカルなコーナーが多い鈴鹿サーキットは、ブレーキのマジシャンと呼ばれるシュワンツに相性が良いと言われていました。

※ケビン・シュワンツ

そしてホンダのワークスチームに所属するマイケル・ドゥーハンは過去2年は怪我に苦しんでいましたが、その怪我が癒えたのとオフシーズンに開発を続けたNSR-500の仕上がりが抜群で、第2戦も優勝しています。

※マイケル・ドゥーハン

シュワンツとドゥーハンが優勝争いに絡むのは必至で、この2人の間に誰が切り込むかが見所でした。この時、初出場の阿部に注目した人はほとんどいませんでした。1戦のみのスポット参戦では注目は集まりませんし、日本のファンもいきなり阿部が活躍するとは思っていませんでした。

3.手に汗握るバトルへ

7位からスタートした阿部は3位に上がると、4周目にはドゥーハンを果敢に攻めて追い抜きます。新人がドゥーハンを抜くという、これだけでも度肝を抜く展開ですが、阿部は全く満足していませんでした。そのまま1位をめがけて果敢に攻め、逆に一瞬の隙を突かれて再びドゥーハンに抜かれます。ここからシュワンツ、ドゥーハン、阿部の激しいバトルが始まりました。

現地の観客、プレス、そしてテレビでレースを見守る人達も、阿部を見る目が変わりました。非力な型落ちマシンに乗ったルーキーの阿部は、良いレースをしたいのではなく、本気で優勝を狙っているのだと気づいたのです。無謀な挑戦を果敢に繰り返す阿部に、観客は総立ちで応援を行います。

※ドゥーハンの前を走る阿部

4.特徴的な阿部の乗り方

後に「ノリック乗り」と呼ばれる、極端な前傾姿勢でマシンをコントロールしていました。ほぼ全ての体重を前輪に掛け、コーナーで一気に体重を内側に落とすと、アクセルを大きく開けて後輪をスライドさせながら曲がっていくのです。

まるで土のコースを走るダートトラックのような乗り方で、あまりにもリスキーで危険な乗り方でした。しかしマシンのパワーもトルクも大きく劣る以上、普通のことをやってもシュワンツやドゥーハンとは戦えません。阿部はリスクを承知で、休むことなく2人に襲いかかります。

各国のプレスは阿部の乗り方を「曲芸のよう」「まるでロデオ」と評しました。それは最も刺激的なライダーを各国メディアが目撃した瞬間でもありました。


5.ギリギリの攻防

15周目は一つのハイライトになりました。首位を走るシュワンツを追う阿部は、ヘアピンカーブで一気に距離を詰めると、次のスプーンカーブでまるでブレーキを使っていないかのように高速で、シュワンツのインに切り込みます。オーバースピードのため、阿部は外に開いてしまいますが、すかさずインを突くシュワンツを外側から強引に押さえ込みました。

興奮しきった観客の大歓声に迎えられたホームストレートで、首位を走る阿部にマシンパワーの優位性を使ってシュワンツが一気に仕掛けてきます。1コーナーに向けて必死に阿部は耐えますが、そこにインから恐ろしい速さで切り込んできたのは、3位を走っていたドゥーハンでした。3者とも全く譲らない激しい攻防戦となり、3者ともマシンが激しくブレるほど限界に近い戦いになっていました。

6.そして終演へ

首位に立ったシュワンツが、激しい攻防から逃げるようにタイムを縮めて先行していきます。2位のドゥーハンを追う阿部は焦っていました。すでに阿部のタイヤは後輪だけでなく前輪もグリップしなくなっていて、コーナーの度に危険なほどブレています。しかし諦める気は全くありませんでした。

再びスプーンコーナーの入り口で、今度はドゥーハンに切り込み、出口ではアウト側ギリギリまでふくらみながら抜いていきます。明らかにタイヤは限界でしたが、凄まじい気迫です。しかし勝負所を知っているドゥーハンはバックストレッチで阿部のスリップストリームに入り、130Rで阿部を抜き去ります。ところが次のシケインで阿部は盛大にマシンの尻を振りながら、ドゥーハンをアウトから抜き去っていきました。

興奮と驚喜で総立ちとなった観客の前を走る阿部は、ホームストレートで首位のシュワンツを見据えます。そして1コーナーに進入した時、阿部のタイヤはすでにグリップ力を完全に失っていました。白煙を上げながらタイヤは悲鳴を上げ、阿部のマシンは宙を舞ってエスケープゾーンに叩きつけられました。

サーキット中に悲鳴が起こり、テレビの解説者も大声を上げました。残り3周を残して阿部はリタイアになりました。

※この瞬間に誰もが悲鳴を上げました。

7.ルーキーからヒーローへ

マーシャルに救出された阿部は無事でした。レースはシュワンツが優勝し、ドゥーハン、伊藤真一が表彰台に上がります。しかしこのレースは表彰台の3人よりも、大健闘した阿部に注目が集まりました。誰もが94年の鈴鹿は阿部のレースだったと言います。

阿部が型落ちのマシンではなく、最新のワークスマシンに乗ったら手がつけられない強さになるのでは?という当たり前の疑問が渦巻き、その後の阿部の動向に誰もが注目しました。

後に現役のまま伝説になるバレンティーノ・ロッシは、この時はまだ高校生でした。彼は阿部の走りに興奮し、自分も阿部のようなライダーになると誓います。毎朝起きるとビデオでこのレースを見てから学校に行き、嫌なことがあっても阿部の走りを見て元気を取り戻したそうです。やがてビデオは擦り切れてしまいますが、ロッシは世界チャンピオンになっても阿部のファンであることを公言していました。

8.日本人の反応

海外での熱狂と日本の熱狂は少しだけ違いました。それは83年から91年まで週間少年マガジンで連載されていた「バリバリ伝説」というマンガに原因があります。

「バリバリ伝説」は、峠の走り屋だった主人公のグンがレースに参加し、非力なマシンでも攻撃的で類い希なライディングセンスを発揮して勝ち上がる物語でした。グンがレースに参加した時のゼッケンは56番で、マシンはホンダのNSR500の型落ちでした。阿部と全く同じです。

そのグンと同じゼッケン、同じマシンの阿部がマンガ同様にルーキーで登場し、王者と互角に渡り合ったのですからマンガの世界が現実になったと興奮しました。「リアルなグンだ!」「グンが出てきた」と、もちきりでした。阿部がやったことは、マンガの出来事の実現だったのです。



9.まとめ

たった1レースで、18歳の阿部は伝説を残しました。これ以上の衝撃的なデビューは現在までもなく、まさに空前絶後の出来事でした。そして盛り上がる周囲をよそに、阿部が泣いていたというのも印象的です。彼は本気で勝つつもりだったのです。

その阿部が、交通事故で亡くなる日が来るとは想像もできませんでした。デビューの時と同様に、阿部の突然の死は世界中を駆け巡り、情報を求めて各国の記者が日本に連絡をしたそうです。

94年の鈴鹿のデビュー戦は、今見返しても血が騒ぎ興奮が抑えられなくなります。マシンのポテンシャルを限界まで引き出し、ギリギリのところでコントロールしながら闘争心を失わなかった希有な瞬間が詰まっているからです。オートバイのレースが続く限り、94年の鈴鹿は語り継がれるであろう伝説です。
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