あの頃ホンダはなぜ強かったのか 川本信彦のレース狂時代

現在、F1に参戦しているホンダは惨憺たる状態です。かつては圧倒的なパワーでライバル達を震撼させた存在でした。なぜ今のホンダは弱いのかも興味あるテーマですが、今回はなぜあの頃は強かったのかを考えてみたいと思います。そこにはホンダ第4代社長、川本信彦の存在が欠かせません。



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川本信彦 レース狂になる

東北大学を卒業した川本が、軽飛行機の研究をすると聞いてホンダに入社したのは1963年のことです。川本は自動車の開発に関わると、すぐにレース用エンジンを任されるようになります。F2に参戦すると連戦連勝で、川本はのめり込んでいきました。


1965年にホンダがF1に参戦すると、エンジン開発の責任者になります。ここで本田宗一郎と衝突したことが、後の川本の考えに大きく影響することになります。川本は水冷エンジンを主張し、本田は空冷を頑固に主張して衝突し、最終的に川本の水冷エンジンに決まり、本田宗一郎は本田技術研究所の社長を退任しました。

その後、川本はF1の責任者としてホンダF1の躍進に大きく貢献しました。この頃になると、川本にとってレースはライフワークになっていました。

川本信彦 ホンダを辞めようとする

1968年にホンダのF1撤退が決まると、川本は市販車の設計担当になります。そこでヨーロッパのレーシングチームに連絡し、転職を画策します。ついに辞表を提出し、留意を振り切りますが、文字通り首に縄をつけられてホンダに連れ戻されました。

やっぱりレースが好き

なんとかしてレースに関わりたい川本は、会社をあの手この手で説得し、レーシングエンジン専門の会社を設立します。株式会社 無限です。


ホンダの社員でありながら、無限に関わる川本に対し、ホンダは川本を本田技術研究所の取締役に昇格させ、ホンダの仕事に専念させます。

ついにホンダのF1復帰か?

社内でF1復帰の機運が高まると、F1参戦に猛反対したのは、なんと川本でした。「国を代表して戦うんだぞ。ただ参加しますじゃダメなんだ。絶対に勝てる体制を作ってからF1に挑むんだ」と、宣言してF2に参戦することにしました。

川本信彦 キレる

F2でシリーズチャンピオンを獲得すると、川本も本田技研の副社長に昇格し、いよいよF1への挑戦を決定しました。川本が総責任者になり、エンジンの設計に取り掛かります。そんな中、若手の桜井淑敏らが提案があると言ってきました。

桜井淑敏

桜井らはレースエンジンの主流だったビッグボア・ショートストロークに反して、スモールボア・ロングストロークのエンジンを提案します。エンジン内の燃焼の研究を続けていた桜井達らしい提案でした。これに川本は激怒します。ホンダは挑戦を始めたばかりで、従来のレースエンジンすら作れていない。それなのに、こんな常識外れのエンジンに関わる暇などないと雷を落としたのです。

桜井達は川本の剣幕に圧倒され、確かに川本さんの言うことは正しいと認めつつも、自分達のアイデアを諦めませんでした。川本が帰ってから図面を引き、他の部品に混ぜて発注した部品を使って試作を試みました。川本は桜井達がコソコソやっていることに気がつきましたが、気づかないふりを決め込みます。

それは川本が若い頃、水冷か空冷かで本田宗一郎と衝突したからです。その時、本田宗一郎は、どうしても川本の意見を理解してくれませんでした。今の自分は、あの頃の本田宗一郎なのかもしれないと考え、普段の業務に差し障りがなければ黙認することにしたのです。後に16戦15勝を達成するホンダの怪物エンジンは、ここに芽吹きました。




川本信彦 達観してしまう

もう自分は古い人間なのかもしれない。川本がそう思い始めると、考え方にも変化が訪れました。アメリカのNASAから小包が届き、嬉々として若手の技術者が受け取ります。なぜNASAなのか?中身は何なのか?何をしようとしているのか?副社長で総責任者の川本は、社員を呼び止めて問いただすことができました。しかしあえて何もしませんでした。

彼らは間違いなく優秀な技術者で、その彼らが目を輝かせて取り組んでいるのです。間違った方向に行っているとは思えません。気分がノッている時に、中断させられる煩わしさもわかります。それに問いただしたところで、自分が理解できないような気もしました。F1の開発は、もう川本の理解の範疇を超え始めていたのです。

勘と経験に裏打ちされた技術から、コンピュータを使った膨大な分析と計算によって弾き出す流れに、川本は口出しするよりもバックアップに徹するようになります。

川本信彦 F1から離れる

川本は、83年にホンダの専務に昇格しました。これを機に、桜井淑敏にF1総責任者の地位を譲ります。川本の若手を信じて口出しせず、自由な発想で挑戦させるやり方の総決算です。

この文化が、後にF1のパドックでパンパンに膨らんだコンドームを持った技術者が走り回り、それを誰も気に留めないという一風変わった光景に繋がります。「マフラーから出る水と排ガスの割合を調べるのに、何かいい方法はないかって言ったら、あいつが財布からコンドームを出してマフラーに被せたんですよ。一体、いつ使うつもりで持ってきたんですかね(笑)」と、その時の監督、後藤治は不思議がるメデイアに答えています。「柔軟な発想と行動力がウチの武器なんです」と、後藤は胸を張りました。

※後藤治

ともかく川本は第一線から離れ、後ろからF1を支えることにしました。86年には本田技術研究所の社長に、90年にはホンダの社長に就任します。




チームの相談役として

第一線を離れた川本は、本社からチームを支えつつ相談役になります。桜井や後藤などホンダの社員だけでなく、ドライバーのアイルトン・セナの相談にものっています。特に89年にセナが危険運転でライセンスの無期限停止になった際には、川本はすぐに電話を入れています。セナは引退も示唆しますが、「君が引退するなら、ホンダはF1から撤退する」とまで語り、引退を留意しました。


まとめ

「なんでもいいから、世界一になりてえ」が口癖の本田宗一郎が存命で、レースを愛してやまない川本が会社のイニシアチブを握っていたのですから、F1にかける意気込みは半端なものではなかったでしょう。

そして参戦する際に「絶対に勝てる体制を作ってから」と、すぐに参戦しなかったのは大きかったと思います。参戦を決めてから、いきなりトップチームのマクラーレンと組んだ現在とは大きな違いです。川本はF2でチャンピオンになってからF1を始動させますが、それでも最初の数年は、壊れてばかりで完走がやっとでした。


果たして、現在の八郷隆弘社長は、どれほどの情熱で参戦しているのでしょうか。2017年の鈴鹿を前に長谷川総監督に電話で「わかってるな」と言ったエピソードを聞き、現場に任せてバックアップに徹した川本信彦との違いを感じずにはいられませんでした。


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