消えた歌姫 /小比類巻かほるの人気はなぜ急落したのか

 1985年、TBSで始まったドラマ「ポニーテールはふり向かない」の主題歌が、話題になりました。クレジットには曲のタイトル「Never Say Good-Bye」と歌っているのが小比類巻かほると書かれていましたが、当時はその歌手を誰も知りませんでした。それもそのはずで、この曲は小比類巻かほるのデビューシングルで下。その後、彼女は大ブレイクするのですが、90年代に入ると急に姿を見なくなってしまいます。当時人気絶頂だった小比類巻かほるが、なぜ姿を消したのかを考えてみたいと思います。


80年代末のブレイク

紅白出場も果たした87年

デビュー曲の「Never Say Good-Bye」はドラマを見ていた人の間では話題になりましたが、ブレイクするというほどではありませんでした。2ndシングル「両手いっぱいのジョニー」は、OVAアニメ「ガルフォース」の主題歌だったこともあり、一部では話題になったものの世間一般に知られるというほどではありませんでした。しかし87年の4thシングル「Hold On Me」は、沢口靖子主演のドラマ「結婚物語」の主題歌として使われたこともあり、ドラマの視聴率上昇とともに大ヒットとなります。

※両手いっぱいのジョニー


※Hold On Me


※Hold On Me

この曲のヒットにより、TBSの歌番組「ザ・ベストテン」に出演したことで、初めてその歌う姿が披露されました。その姿は髪を短く切ったボーイッシュな雰囲気の美少女で、中低音の伸びやかな声と圧倒的な歌唱力で新しい女性シンガーの到来を感じさせるものでした。当時のヒットチャートを賑わす女性シンガーは中森明菜、松田聖子、小泉今日子、中山美穂などのアイドルが中心でしたが、そこに高い歌唱力を持った本格派のシンガーが登場したのです。前年には渡辺美里が「My Revolution」をヒットさせており、アイドルではない歌姫を求める土壌が生まれつつあった時期でした。

※渡辺美里のMy Revolution

「Hold On Me」のヒットが続く中、「Hold On Me」を収録したアルバム「I'm Here」を発表します。これは小比類巻かほるにとって3枚目のアルバムで、LPレコード、カセットテープ、CDの3種類でリリースされています。合計のセールスが30万枚を超える、当時としては大ヒットアルバムになります。さらにこの年は5thシングル「City Hunter〜愛よ消えないで〜」をリリースします。TVアニメ「シティハンター」の主題歌で、この曲のヒットによりファン層を大幅に拡大しました。今でも小比類巻かほるの曲といえば、この曲を思い浮かべる人は多いと思います。

※City Hunter〜愛よ消えないで〜


さらにこの年はシングル「I'm here」「Come On」を続けてリリースします。「Come On」はダイハツ ミラのCMに使われていました。さらに年末には紅白歌合戦にも出演して「Hold On Me」を歌い、87年は大躍進の年となりました。この時点で小比類巻かほるの未来は約束されたかのように思われました。

88年の快進撃

1988年は1月1日に先行シングル「On the Loose」のリリースから始まりました。同じく1月には4thアルバム「Hearts On Parade」をリリースし、収録曲の「HOLLY NIGHT」は昭和シェル石油のCMに使われています。その後も次々にシングルを発表すると、10月に発表した「TONIGHT」は、テレビドラマ「新婚物語」の主題歌としてヒットします。このドラマは87年に「Hold On Me」が主題歌だった「結婚物語」の続編ドラマで、ドラマの人気との相乗効果でヒットとなったのです。


動画リンク:TONIGHT


「TONIGHT」のリリースしてからまもなく、アルバム「SO REAL」を発売します。このアルバムは、これまでのベスト盤的な色合いが強いアルバムで、ヒット曲のほとんどが網羅されており47.8万枚の大ヒットになりました。そしてこのアルバムからシングルカットされた「TOGETHER 」をリリースします。この曲はTDKのカセットテープのCMに使われ、本人もCMに出演して話題になりました。またCM撮影のためにニューヨークの一角を借り切って道路封鎖を行い、ヘリからの空撮も交えた大規模なロケと、その制作費用が数億円になったことも話題になりました。このCMは長期間に渡って何度も放送されたため、小比類巻かほるの代表曲として多くの人に記憶されています。

動画リンク:TOGETHER


さらにこの年は日本武道館で2Daysのライブを敢行し、ソルドアウトさせました。戦略的にテレビ出演を抑えていたようですが、間違いなくこの当時の日本を代表する歌姫となり、快進撃を続けていました。そしてCM出演が縁で所属していたEpicソニーからTDKコアに移籍します。

※武道館ライブ


89年から始まる低迷

87年は4枚のシングルと1枚のアルバム、88年は4枚のシングルと2枚のアルバムというハイペースなリリースをしていきましたが、TDKコアに移籍した89年は1枚のシングルと1枚のアルバムのリリースでした。シングル「DREAMER」は、TDKのカセットテープのCMに使われます。またリリースしたアルバム「TIME THE MOTION」は、以前から小比類巻かほるがファンだったプリンスがプロデュースした曲が2曲含まれたことで話題になりました。このアルバムはヒットしますが、前作アルバム「SO REAL」の半分程度の売上でした。

※DREAMER


90年はアルバム「TIME THE MOTION」の収録曲「いい子を抱いて眠りなよ」のライブバージョンをシングルリリースすると、次にシングル「TWILIGHT AVENUE」をリリースし、テレビ朝日の「どーする!?テレビタックル」のエンディングテーマに使われました。以降、毎年1枚のペースでアルバムをリリースするようになりますが、話題に登ることはほとんどなくなります。92年のアルバム「FRONTIER」で、アース・ウインド&ファイアのモーリス・ホワイトが2曲をプロデュースしたことが話題になりましたが、それもコアな音楽ファンの間でだけでした。

その後、93年に徳間ジャパンに移籍し95年にはテイチクミュージックに移籍しています。この移籍の繰り返しの中でヒットが出ることはなく、インディーズ活動を交えつつ現在に至ります。88年の人気ぶりから一気に名前を聞かなくなった印象が強く、91年頃には「そういえば、そういう歌手がいたね」という感じになっていました。そのため引退したと思っていた人も多くいたぐらいで、88年には無敵の快進撃を続けていた小比類巻かほるは、一気に舞台から消え去っていきました。

なぜ表舞台から消えたのか

タイアップの全盛時代

これまで書いてきたように、小比類巻かほるのヒット曲はどれもドラマやCMのタイアップによって生まれています。タイアップがヒットを左右する時代の走りに、小比類巻かほるは登場しました。TDKコアに移籍した89年の年間ヒットチャートを見てみましょう。

89年オリコン年間チャート

1.Diamonds (プリンセス・プリンセス)→ソニーカセットテープCM
2.世界でいちばん熱い夏 (プリンセス・プリンセス)→テレビ朝日「いつか行く旅」テーマソング
3.とんぼ (長渕剛)→TBSドラマ「とんぼ」主題歌
4.太陽がいっぱい (光GENJI)
5.愛が止まらない (Wink)→フジドラマ「追いかけたいの」主題歌

もちろんタイアップは売れている曲だからタイアップされる場合と、売れるためにタイアップしてもらうケースがあります。ですからタイアップされたから売れたと決めつけることはできませんが、この頃は売れるためにタイアップしてもらおうと、広告代理店やテレビ局への売り込みが加熱していた時代でもありました。続いて90年の年間チャートを見てみましょう。

90年オリコン年間チャート

1.おどるポンポコリン(B.B.クィーンズ)→アニメ「ちびまる子ちゃん」主題歌
2.浪漫飛行(米米CLUB)→日本航空CM
3.今すぐKiss Me(LINDBERG)→フジドラマ「世界で一番君が好き!」主題歌
4.さよなら人類(たま)→宝酒造CM
5.OH YEAH!(プリンセス・プリンセス)→ソニーカセットテープCM

「さよなら人類」はヒットしてからCMに使われたように記憶していますが、それ以外はタイアップがあって知った曲ばかりです。90年はヒットチャートランキングを100位ぐらいまで見ると、89年以上にタイアップ曲が多いことに驚かされます。この傾向は91年も続き、タイアップなしに大ヒットは難しいことがわかります。当時はテレビの影響が絶大で、テレビで流れるか否かで知名度の差が大きく異なりました。テレビに出る人はメジャーで、出ない人はマイナーだったのです。小比類巻かほるもタイアップによってその名を知られていきましたが、TDKコアに移籍してからは営業力の違いなのかタイアップが激減しました。これがヒット曲に恵まれなくなった原因の1つではないかと思います。

ライバルの多さ

この時代、女性歌手で最も勢いがあったのはアイドルで、中森明菜はヒットチャート上位の常連でした。しかしバンドブームの到来で、アイドル一辺倒だったヒットチャートの流れが変わった時期でもあります。85年のBOOWY、レベッカの成功によってバンドブームが始まり、89年から放送開始された「三宅裕司のいかすバンド天国」から、次々に新たなバンドがデビューします。女性歌手もバンドで売れることが増えていき、レベッカのNOKKOの成功から女性ボーカリストに関心が高まっていました。プリンセス プリンセス、SHOE-YAらがヒットすると、「あいにきて I・NEED・YOU!」でブレイクしたゴーバンズ、ドラマの主題歌になった「P.S. I LOVE YOU」でブレイクしたピンクサファイアなど、女性ボーカルを置いたバンドの快進撃が起こっていました。

※ピンクサファイア

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そして小比類巻かほるのような女性ソロシンガーに目を向けると、先にデビューしていた渡辺美里は毎年のように西武球場でライブを行い、「虹をみたかい」や「サマータイムブルース」を次々とヒットさせており、87年にデビューした永井真理子はアニメ「YAWARA」の主題歌になった「ミラクル・ガール」を89年に、フジのバラエティ「邦ちゃんのやまだかつてないテレビ」のエンディングテーマになった「ZUTTO」をヒットさせています。また「邦ちゃんのやまだかつてないテレビ」では、テーマ曲になった川村カオリの「神様が降りて来る夜」が大ヒットし、川村は翌年にも「翼をください」を大ヒットさせています。

※永井真理子

※川村カオリ


高い歌唱力を持った小比類巻かほるはタイアップによってその名を知らしめましたが、小比類巻のタイアップが消えた頃にはライバル達が大量に現れて、タイアップの奪い合いを行っていたのです。そんな中で元々メデイアへの露出度が低く、さらにタイアップが亡くなった小比類巻かほるが忘れられるのは、必然だったように思います。

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洋楽への傾倒

青森県三沢市で生まれた小比類巻かほるは、米軍放送を聞いて育ったそうです。そのため日本の音楽よりも海外の音楽に強く惹かれており、洋楽志向が強くありました。また英語で歌うことも幼い頃から親しんでおり、それがプリンスやモーリス・ホワイトらのプロデュース曲でも活かされています。そのため歌い方はファンクやR&Bの影響を受けており、当時としては珍しいタイム感の歌手でもありました。それが新鮮でもあり、ヒットの要因の1つだと思います。

※プリンス


87年、88年の快進撃を続けている中で、小比類巻かほるは不満を多く抱えていたという話は、当時からちょこちょこと出ていました。それは「Hold On Me」のカバー写真が「表情もポーズも中途半端なのに、なんであれが使われちゃったの?」という軽いものから、R&Bテイストの歌謡曲を歌うことへの不満という売り出し方の根幹に関わるものまでです。これは当時の噂レベルですし、本人はあまり自分のことを語らないので真意は不明ですが、後の楽曲は黒人音楽のテイストが濃いものが多く、本人としてはそちらの方に向かいたかったように感じます。

人気絶頂の時にレーベルを移籍していますが、一般的にレーベルや事務所の移籍はギャラへの不満があります。しかし小比類巻かほるの場合は、自分の理想的な音楽環境を求めての移籍だったのではないでしょうか。そして洋楽に近づけば近づくほど、市場が求めているものとは離れていき、ヒット曲が無くなったようにも思います。プリンスがプロデュースした「MIND BELLS」は間違いなく優れた楽曲ですが、これが当時も今も日本市場で売れるとはとても思えません。本人の志向と市場の志向のミスマッチがあったと思います。

動画リンク:MIND BELLS


TDKのマネジメント力

個人的な印象ですが、TDKコアというかTDK自体にマネジメント力や企画力が低かったように思います。例えば1983年にTDKが開催した「TDKレディスバンドオーディション」です。15歳から18歳の容姿端麗な女性という応募条件で、2500人を超える応募者が集まりました。各楽器のオーディションを行って5人が選出されると、西日暮里のアパートに詰め込まれて合宿が始まります。しかしその間に担当者の移動などがあり、この企画は宙に浮いてしまいました。

その後、とりあえずデビューさせましたという感じのお披露目があり、その後はアイドル的な仕事ばかりでバンド活動は少なめでした。このままTDKに残っても未来がないと感じ、紆余曲折を経て彼女達はCBSソニーに移籍しました。バンド名をプリンセス プリンセスと改名した彼女らは4年後に「Diamond」で年間ヒットチャート1位、170万枚というモンスターヒットを放つことになります。この2500人も集める大規模なオーディションを開催し、その後はほったらかしといういい加減さは、小比類巻かほるの移籍にも感じるものがあります。


TDK系列からソニー系列に移籍して大ヒットしたプリンセス プリンセスと、ソニー系列からTDK系列に移籍してヒットが無くなった小比類巻かほるは、なんとも対照的に見えてしまいます。TDKに所属したミュージシャンで、成功した人がほとんどいないことを見ると、企画力やマネジメント力が不足していたように思います。

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売れなくなったことは不幸なのか

小比類巻かほるは売れなくなりましたが、定期的にアルバムをリリースしており、歌手としての活動は続けています。自分がやりたい音楽を続けることができる環境であるならば、もしかしたら幸運だったのかもしれません。元々はレコーディングエンジニアを目指していたという過去があり、歌手になってからも音作りにはこだわりを持っていたと言います。マーケティングとは無関係に、自分の望む音楽ができるのは歌手としての喜びや満足は大きいのではないでしょうか。

ヒットした「City Hunter〜愛よ消えないで〜」を聴くと、スラップ奏法のベースラインが強調されていたり、ギターをシャッフルさせていたりと、ブラックミュージックの影響をあちこちに感じます。ホーンセクションを多用する曲も多いことやドラムのパターンなども、ブラックミュージックに寄せている感じがする曲が多くあります。こういった時代とは関係なくこだわりがある人にとって、好きなようにできる環境を手にすることは無常の喜びだったかもしれません。そして移籍したのは、まだ彼女が22歳の頃でした。利益よりも理想を追い求めたとしても、不思議ではない年齢だと思います。

まとめ

高い歌唱力と独自のセンスで時代の寵児となった小比類巻かほるは、ライバルの台頭やタイアップが減ったこと、音楽性の問題から急速に表舞台から姿を消しました。しかし彼女の曲は、今聴いても十分に素晴らしいもので、聴き惚れてしまいます。ブラックミュージックへの傾倒、洋楽へのこだわりを持った女性シンガーが花開くのは、98年にデビューしたMISIA、99年にデビューした宇多田ヒカルまで待たなくてはなりません。その意味で小比類巻かほるは、登場が10年早かったのかもしれません。


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