投稿

10月, 2019の投稿を表示しています

浅田真央 /最も印象に残る銀メダリスト

イメージ
2014年2月21日、女子フィギュアスケートのフリーは、世界各国の人々が 浅田真央 に複雑な想いを抱いていました。前日に作られたツイッターのハッシュタグ、♯Go Maoと♯MaoFightには、日本語や英語だけでなく、ロシア語、フランス語、アラビア語、スペイン語など、世界各国の言葉で埋め尽くされていました。この日は、もう表彰台に上がる可能性すらない浅田真央が主役でした。 浅田真央の悲劇は優れたオペラのように雄弁で、美しい結末を迎えました。まるでソチ五輪は、浅田真央の美しい悲劇のために用意された舞台装置のようでした。 関連記事: 安藤美姫 /翻弄され嫌われ続けた女王  オリンピックに嫌われ続けた浅田 名コーチと名高い山田満知子の元で急成長し、天才と呼ばれた浅田真央が海外に名を轟かせたのは2004-2005シーズンでした。ジュニアグランプリでの連勝に加え、世界ジュニア選手権で初出場初優勝を遂げると、世界的な注目株になります。さらに翌シーズンはシニアに舞台を移し、いきなりグランプリシリーズ中国杯で2位、グランプリファイナルでは優勝をさらいました。 ※2004年の浅田真央 翌年のトリノオリンピックではメダル間違いなしと言われましたが、年齢規定にわずか87日足らず、出場はできませんでした。4年後のバンクーバーを目指す浅田は、成長に伴い身体のバランスが変わったことで苦戦する場面もありましたが、確実に実力をつけていきます。一方でキム・ヨナという強力なライバルの出現により、世界女王争いは熾烈になっていきました。バンクーバーオリンピックがキム・ヨナとの決着の場になります。 バンクーバーでの激しいメダル争いは、キム・ヨナに軍配が上がりました。難しい技を回避して高得点を積み上げたキム・ヨナと、難易度の高い技に挑戦した浅田は対照的で、男子でも高難度な技に挑戦して銀メダルに終わった皇帝プルシェンコが、公然と「真央こそ金メダルにふさわしい」発言しました。挑戦者が報われないならフィギュアに未来はないと断言したプルシェンコは、その後も浅田を応援し続けることになります。 ※銀メダルに終わった浅田真央 その後は日本を襲った東日本大震災に心を痛め、こんな時期にスケートなんかしてて良いのか?と苦しんだり、コーチ不在の状態に陥ったり、さまざまな困

バスケットボール風雲録 /腐敗した組織の再生

イメージ
ある飲み屋で知り合った男性が、酔った勢いで不満を言っていました。「問題は女子なんですよ。協会の理事は男しかおらんでしょ。あいつら男子のことしか考えとらんけど、男子はオリンピックにも出られんのです。でも女子は可能性があるんですよ。協会は女子のことをなんも考えていない」不満というより怒りに近かったと思います。 この時、日本のバスケットボールにはトップリーグが2つ存在し、 国際バスケットボール連盟 (FIBA)から統一するよう是正を命じられていました。日本はオリンピック出場資格を剥奪される瀬戸際でしたが、 日本バスケットボール協会 (JBA)の改革は遅々として進んでいませんでした。数年前まで大学でコーチを務めていたというこの男性は、このままでは日本のバスケットボールが終わると嘆いていました。絶体絶命の危機に陥っても、日本のバスケットボール界には危機感がなかったのです。 日本初のプロバスケットボールチームの誕生 長引く不況により多くの企業が運動部を廃止する中、バスケットボール部の廃部も続いていました。そのためJBAは、以前から要望の多かったプロリーグ創設に向けて動き出します。そんな中、2000年に日本初のプロバスケットボールチーム、 新潟アルビレックスBB が誕生します。華々しく報じられた新潟アルビレックスBBですが、実態は大和証券バスケットボール部の活動が停止になり、行き場を無くした選手達がスポンサーを募って誕生したチームでした。その際にサッカーJリーグの アルビレックス新潟 のスポンサーであるNSGグループが受け皿になり、同じアルビレックスを名乗って共に新潟を盛り上げようとなったのです。 ※発足時のメンバー(新潟アルビレックスBB公式サイトより) 2001年、JBAはプロリーグに向けて足場固めを行い、バスケットボール日本リーグ機構(JBL)を設立しました。さらにこれまでのリーグを廃止してJBLスーパーリーグをJBL主催で開催し、ホームタウン制度を導入します。これでプロリーグ創設に弾みがつくかと思われましたが、遅々としてプロリーグの話は進みませんでした。これはチームのほとんどが大企業のバスケットボール部として運営されていたのに対し、プロリーグにするには会社と切り離してチームを独立した会社にする必要があったからです。 bjリーグの誕生 新潟ア

ウラジミール・コマロフ /死を覚悟した宇宙飛行士

イメージ
1967年4月23日、カザフスタン共和国にあるソ連のバイコヌール宇宙基地では、華々しく有人宇宙飛行船のソユーズ1号が打ち上げられようとしていました。関係者とメディアが賑わう中、かつてソ連の英雄と呼ばれたユーリ・ガガーリンが騒ぎを起こします。ガガーリンはソユーズ1号の予備搭乗員でしたが、正規搭乗員のウラジミール・コマロフを押しのけて、自分が搭乗すると宇宙服を着て騒いでいたのです。メディアはその様子を冷ややかな目で見ていました。かつて英雄だったガガーリンは、ここ何年も冷飯を食わされる地位に堕ちていました。名をあげたいガガーリンが、自分が搭乗したがっていると思われたのです。しかしガガーリンは親友のコマロフの命を救うため、騒ぎを起こしていたのです。 ユーリ・ガガーリン ガガーリンは、世界で初めて宇宙を有人飛行した人物として知られます。1961年、ボストーク3KA-2に搭乗したガガーリンは、大気圏外で地球周回軌道に乗り「地球は青かった」と名言を残しました。 ※ガガーリン 時のソ連共産党書記長、ニキータ・フルシチョフは、ガガーリンの栄誉を最大限に讃えてソ連の英雄になりました。労働者階級出身で、勤勉さを美徳した青年が歴史に残る大事業を成功させたとソ連の体制を自画自賛し、同時にフルシチョフが通常兵器の開発を止めてまで押し進めた宇宙開発の正当性を強調しました。ガガーリンは、フルシチョフから異例の厚遇を受けていきます。 ※フルシチョフ しかしフルシチョフが失脚し、プレジネフが書記長に就任すると、ガガーリンはフルシチョフ派として扱われ冷遇されるようになります。さらに宇宙からの帰還後に激変した環境に適応できなくなったガガーリンは、飲酒を繰り返して自傷行為を起こすまでになっていました。しかし数年をかけて精神的な疲弊から立ち直り、飛行指揮官を目指して訓練を再開し、ソユーズ1号の予備搭乗員になりました。 米ソ宇宙開発競争 1957年、ソ連が世界初の人工衛星スプートニクの打ち上げと衛星軌道上に衛星を静止させることに成功しました。人工衛星に望遠鏡を設置すればアメリカをはじめとする西側諸国は丸裸にされ、常時監視されることになります。またアメリカは科学技術分野において、ソ連を上回っていると思っていましたが、ソ連に出し抜かれたことは大きなショックで

ラグビー日本代表の足跡を振り返る /屈辱の日々からの栄光

イメージ
父親がラグビーをやっていたため、家のテレビではよくラグビーの試合を見ていました。もっぱら大学ラグビーが中心で、早稲田、明治、慶応などの試合を父が気まぐれに解説してくれていました。いつの間にか私も大学ラグビーを積極的に見るようになり、代表戦はワクワクして見ていました。しかし当時の日本代表は、勝つ試合より負ける方が圧倒的に多かったのです。 関連記事: ワールドカップ ラグビー雑感 /日本が歴史を変えた大会       ラグビー・ワールドカップ展望 /日本はどこまで勝ち上がるのか       人に教える難しさ /ラグビー平尾誠二と大八木淳史 第1回ワールドカップ(1987年) 神戸製鋼の平尾誠二、大八木淳史などのスター選手を配したジャパンの前評判は悪くなく「アメリカには勝てる」とか、「イングランドは相性がいい」など、景気の良い見出しがスポーツ新聞を彩りました。国内では空前の大学ラグビーブームで、ラグビーを知らない人の間でも、平尾誠二などスター選手の名前は知られていました。初戦のアメリカ戦は、ジャパンが実力を出せば十分に勝てる相手というのも、間違ってはいなかったと思います。 しかしアメリカ戦が始まると、日本はPGをことごとく外してキッカー不足が露呈します。トライはアメリカと同数でしたが、キックの差で負けてしまいました。イングランド戦は、これまでのテストマッチのイングランドとは別物で、なす術なく大差で負けてしまいました。日本の国内テストマッチでは、強力なパワーでトライを量産したジャパンは、本気のイングランドの前ではボロボロに打ち砕かれ、さらにオーストラリアにも負けて、日本は0勝3敗で大会を終えてしまいました。 ※日本対オーストラリア戦 代表監督が直前に辞退するなどの混乱もありましたが、それにしても海外との差を決定的に見せつけられた大会で、あまりに無残で後味の悪い敗退でした。それでも国内の大学ラグビーは大人気で、この頃は代表戦などラグビーのおまけ程度でしかなかったのです。 スコットランド戦の劇的勝利 89年5月に日本でスコットランドとのテストマッチが決まった時、日本の勝利を信じる人はいませんでした。過去にスコットランドとは3戦して全敗で、ジャパンはアジア勢にしか勝てないと言われていました。そんな危機的状況に、日本ラグビ