浅田真央 /最も印象に残る銀メダリスト
2014年2月21日、女子フィギュアスケートのフリーは、世界各国の人々が 浅田真央 に複雑な想いを抱いていました。前日に作られたツイッターのハッシュタグ、♯Go Maoと♯MaoFightには、日本語や英語だけでなく、ロシア語、フランス語、アラビア語、スペイン語など、世界各国の言葉で埋め尽くされていました。この日は、もう表彰台に上がる可能性すらない浅田真央が主役でした。 浅田真央の悲劇は優れたオペラのように雄弁で、美しい結末を迎えました。まるでソチ五輪は、浅田真央の美しい悲劇のために用意された舞台装置のようでした。 関連記事: 安藤美姫 /翻弄され嫌われ続けた女王 オリンピックに嫌われ続けた浅田 名コーチと名高い山田満知子の元で急成長し、天才と呼ばれた浅田真央が海外に名を轟かせたのは2004-2005シーズンでした。ジュニアグランプリでの連勝に加え、世界ジュニア選手権で初出場初優勝を遂げると、世界的な注目株になります。さらに翌シーズンはシニアに舞台を移し、いきなりグランプリシリーズ中国杯で2位、グランプリファイナルでは優勝をさらいました。 ※2004年の浅田真央 翌年のトリノオリンピックではメダル間違いなしと言われましたが、年齢規定にわずか87日足らず、出場はできませんでした。4年後のバンクーバーを目指す浅田は、成長に伴い身体のバランスが変わったことで苦戦する場面もありましたが、確実に実力をつけていきます。一方でキム・ヨナという強力なライバルの出現により、世界女王争いは熾烈になっていきました。バンクーバーオリンピックがキム・ヨナとの決着の場になります。 バンクーバーでの激しいメダル争いは、キム・ヨナに軍配が上がりました。難しい技を回避して高得点を積み上げたキム・ヨナと、難易度の高い技に挑戦した浅田は対照的で、男子でも高難度な技に挑戦して銀メダルに終わった皇帝プルシェンコが、公然と「真央こそ金メダルにふさわしい」発言しました。挑戦者が報われないならフィギュアに未来はないと断言したプルシェンコは、その後も浅田を応援し続けることになります。 ※銀メダルに終わった浅田真央 その後は日本を襲った東日本大震災に心を痛め、こんな時期にスケートなんかしてて良いのか?と苦しんだり、コーチ不在の状態に陥ったり、さまざまな困