投稿

11月, 2019の投稿を表示しています

井上尚弥は何が凄いのか改めて整理する

イメージ
日に日に 井上尚弥 の評価が高まり、多くのメディアが井上尚弥の動向や彼にまつわる海外の動向を伝えています。しかしどうも井上尚弥の凄さが伝えられていない気がして仕方ないのです。世界王者は時に注目を集めますし、良い試合をすれば話題にもなります。しかし井上尚弥は、過去に日本が生んだ世界王者の中でも稀有な存在です。これまでの日本が生んだ世界王者と何が違うのかを整理してみたいと思われます。 関連記事 ・ 衝撃のKO劇 /井上尚弥の強さとは  ・ 井上尚弥のパウンド・フォー・パウンドを考える  ・ 井上尚弥が参戦するWBSSとはなにか  ・ 亀田裁判と日本ボクシングコミッションの闇 海外では無名の世界王者 90年代に行われたWBAのパーティだったと思いますが、かつての世界王者が各国から招待されて賑わいました。日本からも名だたる王者が招待されたのですが、ほとんどはパーティで声を掛けられることもなくゆったりと雰囲気を楽しんだそうです。しかしファイティング原田とガッツ石松の周囲には人垣ができ、世界王者達から握手や記念撮影を頼まれたり、彼らの話を熱心に聞いたそうです。 ※ファイティング原田 ファイティング原田は、ボクシング史にその名を刻む名王者です。軽量級の歴史を語る時、原田の名前は必ず出てきます。ガッツ石松は、名だたる強豪と何度も対戦しており、その経歴は華やかです。歴史に名を残す強豪と激戦を繰り広げ、世界王者にまで上り詰めた劇的なキャリアがあります。2人は海外でも名の知られたボクサーですが、それ以外はほとんど海外では知られていないのが現状です。これは日本に限らず、どの国でも大半の世界王者は人々の記憶に刻まれることなく消えていくのです。 ※ガッツ石松 ファイティング原田がフライ級の世界王者になった時、世界王者はフライ級からヘビー級までの8人しかいませんでした。それがジュニア階級(現在のスーパー○○級)の創設により17階級に増え、世界王座の認定団体は主要なものだけで4団体に増えました。さらに暫定王座、スーパー王座の乱発により、ボクシングの世界王者が100人近くいることもあります。そのため世界王者の価値はデフレ化が進み、今や世界王者になるだけでは名前を残せなくなりました。世界王者の中でも傑出した実績を残した王者だけが名前を残せるの

狂気 /名作アルバム紹介02

イメージ
名作アルバムを紹介するコーナー、第2回はピンク・フロイドの名盤「狂気」です。1973年の発表以来、アメリカのアルバムランキングを示すビルボード200に15年に渡りランクインし続け、カタログチャートでは30年に渡ってランクインした超ロングセールスアルバムです。 1973年のピンク・フロイド ピンク・フロイドのサウンドに大きな影響を与えたシド・バレットが精神異常と薬物の乱用で脱退したのが68年です。当初はバレットのワンマンバンドだったため、残されたメンバーは途方に暮れたという話もあります。しかし70年にアルバム「原子心母」を発表すると、全英1位を記録する大ヒットになり、バレット抜きのピンク・フロイドが順調に船出をしていました。 71年にはアルバム「おせっかい」を発表し、これもヒットしたことでピンク・フロイドは野心的なアルバム作りにとりかかります。それが本作「狂気」です。コンセプトアルバムとして製作され、ロジャー・ウォーターズが全面的に作詞をしました。「狂気」は全世界的なヒットになり、ピンク・フロイドはイギリスの批評家が推薦するバンドというだけでなく、世界的なヒットメーカーに変身しました。「狂気」は72年発表のアルバム「雲の影」と同時進行で曲作りが行われ、レコーディングに膨大な日数を費やしています。 レコーディング ロジャー・ウォーターズが人間の心の裏側を描き出すというコンセントを考え、1972年にはほぼ全ての曲が完成しています。それらをレコーディングの前にライブで披露し、観客の反応を見てアレンジを加えていきました。こうした試行錯誤を経てレコーディングが始まりました。 エンジニアのアラン・パーソンズは、録音したテープを貼り合わせる原始的な作業を繰り返し、「マネー」のレジの音だけで、実に30日にも及んでいます。こういった手法が身を結んだため、のちにサンプラーなどが開発されることになります。これら地道な作業は半年も及び、あまりに長期間になったために、自分たちだけでは良し悪しが判断できなくなります。そこで第三者の意見を求めて、クリス・トーマスが招かれました。 アメリカでの成功 73年3月にリリースされると、広大な空間を感じさせる音作りと、徹底的に立体化された音に多くの人が驚き、一気にヒットチャートを駆け上がります。4月には

90年代の日本でPUFFYが最も重要なミュージシャンだったと思う理由

イメージ
1996年5月、シングル「アジアの純真」でデビューした パフィー は、デビューと同時にスターダムに駆け上がりました。ナンセンスな歌詞に力強い演奏、そして元気なのか気怠いのかわからない歌声は、ラジオのヘビーローテーションになり、そこからパフィーの快進撃が始まりました。私はラジオで「アジアの純真」を初めて聴いた時、また変なのが出てきたと感じていました。しかし奥田民生と井上陽水が作詞作曲をしていると知り、2人のお遊びなんだと納得していました。 その時は、まさか20年以上に渡ってこの2人が活躍するとは思っていませんでした。今やベテランの域に達したパフィーですが、重厚感の欠片もなく、相変わらずのマイペースで活動していることも驚かされます。 関連記事 椎名林檎の歌詞と音楽の世界 まだ椎名林檎を右翼と言っている人たち 安室奈美恵の引退で思ったこと 今更ながらビル・ローレンス /森高千里モデルのギター 伝説のバンドHIS /忌野清志郎は坂本冬美に何を見たのか? レコード会社が消費者を裏切った日 /CCCDの大罪を振り返る 60年以上続いた音楽バブルの終焉 /なぜ音楽は売れなくなったのか 96年という時代 世間では7月に始まったアトランタオリンピックが盛り上がり、女子高生ブームが絶頂期に達していました。この年の流行語には「援助交際」「チョベリバ」「ルーズソックス」などがあり、制服をミニスカートにしたコギャルが時代の最先端のように言われていました。 ※もう少し後に流行ったガングロギャル 音楽の世界では小室哲哉が全盛期にあり、この年はグローブの「デパーチャーズ」が大ヒットし、華原朋美の「アイム・プラウド」、安室奈美恵の「チェイス・ザ・チャンス」などが記録的なヒットを飛ばしていました。特に安室奈美恵は、熱狂的なファン「アムラー」が増加のを一途を辿り、10代少女の絶対的なカリスマになっていきました。 ※小室哲哉と華原朋美 その小室哲哉勢に対抗していたのがミスター・チルドレンで、この年は「名もなき詩」が最大のセールスになっています。またGLAYも大ブレイクしており、BELOVEDが大ヒットしたのはこの年です。またアトランタオリンピックのNHK公式ソング、大黒摩季の「熱くなれ」、久保田利伸の「ラララ・ラブソング」など多くのヒ

サンタクロースの警備をするアメリカ軍 /NORADが展開する年末最後の大作戦

イメージ
1955年12月、アメリカ軍大陸防空司令部の赤い電話が鳴りました。時は冷戦時代で、ソ連からの核攻撃に備えて空を警備していた防空司令部に緊張が走ります。ハリー・ショープ大佐が電話に出ると、幼い女の子の声で質問してきました。「あなたはサンタクロースですか?」と。 1948年12月24日 大陸防空司令部は、この日に未確認飛行物体に関する発表をしました。早期警戒レーダーが、高度4300メートル上空で8匹のトナカイを動力源とする未確認のソリを検出したというのです。この発表はAP通信によって、アメリカ各地に配信されました。 アメリカ軍のジョークですが、これが大きな話題になったという記録もなく、ほんの軽い冗談だったのでしょう。翌年は、このような発表はされず、軍の気まぐれなジョークでした。 1955年12月24日 冒頭の電話の場面です。赤い電話はペンタゴン(国防総省)とのホットラインでした。ショープ大佐は緊張して電話に出ます。「ショープ大佐です」と電話に出ても相手は何も言いません。「ショープ大佐です」と再度の呼びかけにも相手は何も言いません。「大丈夫ですか?」と質問すると、女の子の声で「あなたはサンタクロースですか?」という質問が聞こえてきました。唖然としたショープ大佐は部下の誰かがイタズラをしていると思いましたが、部下たちは緊張した面持ちでこちらを見ています。 ※ショープ大佐 そこでショープ大佐は、何かの手違いでかかってきた電話だと気づきました。「はい、そうですよ。君はいい子にしてたかな?」とショープ大佐が答えると、少女はサンタとトナカイのために夕食を残してとっておくと説明しました。少女の気遣いに感謝を述べて電話が終わると、すぐに赤い電話が鳴りました。電話は一晩中鳴り続け、ショープ大佐は部下にサンタになって対応するように指示しました。 そしてスーパーマーケットのシアーズが、クリスマスにサンタとのホットラインサービスを展開していたことを知ります。その広告の電話番号は間違って印刷されており、それがたまたま防空司令部の赤い電話の番号だったのです。これをきっかけに、防空司令部はサンタクロースの追跡を始めることになりました。 他の説 一般的には上記の説が言われていますが、どうやら事実は少し違うようです。ショープ大佐は間違い電話に苛立ち

スポーツのおバカなインタビュー集

イメージ
スポーツ選手のインタビューは毎日のように放送されています。その中で、特にひどいと思ったものを並べてみたいと思います。 「来日した時の印象を聞かせてください」 1990年に行われたアメリカン・フットボール最高峰を決めるスーパーボウルの開幕の直前に、サンフランシスコ49ers(フォーティナイナーズ)のスーパースター、ジョー・モンタナが共同インタビューに応じました。各社1つずつ質問が可能で、日本での放送を担当した日本テレビも現地に派遣した女子アナがモンタナに質問しました。 「昨年、アメリカンボウルで来日した時の印象を聞かせてください」 日本語の質問が通訳されると、会場には緊張が走ったそうです。日本ではスーパーボウルはアメフトのイベントとして知られていますが、その経済効果はオリンピックに匹敵します。選手にとっては人生最大のイベントで、勝つか負けるかで人生が劇的に変わります。スーパーボウルで勝利に貢献するプレイをすれば子供の代まで褒めたたえられ、敗北につながるミスをすれば死ぬまで「お前はダメな人間だ」と言われてしまう戦いです。 そんなスーパーボウルの直前に、最も重圧を感じているスーパースターに全く関係ない質問をしたので周囲が緊張したのです。モンタナが椅子を蹴飛ばして、会見を打ち切っても仕方なかったと言う人もいます。しかしモンタナは紳士でした。 「日本の桜は美しいと思いました」 無難な答えをモンタナが返すと、司会者はすぐに次の質問者を指名しました。翌年も日本テレビはスーパーボウルを中継しますが、共同記者会見で質問はさせてもらえませんでした。 「老後はどうするんですか?」 2011年、トヨタカップではスペインのFCバルセロナとブラジルのサントスFCが対戦しました。日本テレビが中継し、ゲストには多くの芸能人が迎えられていました。世界最高峰のサッカーの試合は華々しくFCバルセロナが4-0で勝利して幕を閉じました。FCバルセロナのスーパースター、メッシはこの日も大活躍で、日本のファンを喜ばせました。勝利の歓喜に沸くFCバルセロナですが、メッシが放送ブースに来ることになりアナウンサーやゲストの芸能人は大いに盛り上がりました。 しかしやってきたメッシは露骨に不満げで、明石家さんまがコートを着せようとすると拒否しました。通

ベガーズバンケット /名作アルバム紹介01

イメージ
名作アルバムを紹介するコーナー、第1回はザ・ローリング・ストーンズの傑作アルバム「ベガーズバンケット」です。1968年に発売され、ストーンズの黄金期の幕開けとなり、当時のロックシーンに多大な影響を残しました。 1967年のストーンズ アメリカを覆ったサイケデリックムーブメントは、イギリスの音楽界にも影響を与え、サイケなサウンドを前面に押し出したバンドが数多く存在しました。その代表格はビートルズの「サージェント・ペバーズ」で、このアルバムはビートルズを代表するだけでなく、ロックミュージックの金字塔として、歴史に残る名盤になりました。またジミ・ヘンドリックスはサイケなサウンドを前面的に押し出し、変幻自在なギタープレイで圧倒的な人気を誇るようになります。 ストーンズも66年の「ビトウィーン・ザ・バトンズ」からサイケなサウンドを取り入れ、67年の「サタニック・マジェスティーズ」はサイケを前面に押し出してヒットしました。しかし本来、ストーンズはアメリカの黒人音楽を取り入れ、ハードで黒いサウンドのバンドでした。流行りもののサイケに乗ったストーンズに、ファンは困惑していました。人々がストーンズに求めたのは、アメリカの泥臭いブルースのアレンジでアリ、ストレートなロックサウンドでした。そのためストーンズの時代は終わったという批評家もいて、人気バンドの終焉を予感する人もいました。 さらにリードギターリストのブライアン・ジョーンズは、重度の麻薬中毒に陥り演奏が困難になっていました。 1968年のストーンズ 黒人音楽から乖離したことに不満を覚えるファンの声はストーンズにも届いており、バンドの軌道修正が必要だと自覚していました。ミック・ジャガーはアメリカンサウンドを作り、自分たちを客観的に見ることができるプロデューサーとしてジミー・ミラーを招聘してレコーディングに取り掛かります。 ロンドンのオリンピックスタジオでレコーディングが始まり、ニューアルバムの発売はミックの25歳の誕生日になる7月を目標にしました。スタジオではブルース、カントリー、ゴスペルなどのアメリカンサウンドが試みられ、さまざまなアイデアが取り入れられます。 ブライアンは酷い麻薬中毒で、6時間かかってギターの弦を交換できないありさまで、ギターのほとんどをキースが演奏すること

ヘンリー王子は王室の反逆者か

イメージ
イギリス王室のウィリアム王子とヘンリー王子の確執が、世界的に注目されています。ヘンリー王子はなにかと世間を騒がせることで有名ですが、今回はドキュメンタリー番組でウィリアム王子との確執を認める発言をしたのです。メディアに叩かれっぱなしの妻、メーガン妃の話題と相まって、今大きく騒がれています。 関連記事: 祝婚約!やっぱりお騒がせなヘンリー王子        なぜイギリス王室の男性は結婚指輪をしないのか /シグネットリングの例外 ヘンリー王子とは 1984年9月15日、チャールズ王太子とダイアナ妃(当時)の間に、次男として生まれました。ダイアナ妃が愛情を込めて「ハリー」と呼んでいたため、ハリー王子と呼ばれるようになりました。大きな病気にかかることもなく順調に成長していましたが、12歳の時に母親の死を経験します。 ※少年時代のヘンリー王子 イートン校から陸軍士官学校に進みますが、数々のスキャンダルを起こして、ダーティ・ハリーとメディアから呼ばるるようになります。陸軍士官学校を卒業と同時に陸軍に入隊すると、近衛兵連隊に所属しました。2007年にはタリバン掃討作戦に参加し、さらにはヘリコプターを操縦してミサイル攻撃を行う任務にも就きました。ヘンリー王子の従軍は機密事項でしたが、タプロイド紙がすっぱ抜くとタリバンは公然とヘンリー王子殺害を断固として行うと表明しました。 この騒動でヘンリー王子は最前線から外されることになりますが、王族として特別扱いを拒否し、危険な任務に果敢に挑んだ姿勢は軍隊の内外から高く評価され、現地司令官からも「模範的な兵士」と評されました。ヘンリー王子が攻撃に参加して成果をあげたことについて、多くの新聞は英雄的行為と絶賛しています。 ※陸軍の前線に向かうヘンリー王子 2017年にはアメリカ人女優のメーガン・マークルと結婚し、第一子アーチーが誕生しています。スポーツ好きで陽気な性格のヘンリー王子は、サービス精神も旺盛で、親しみやすい王族として高い人気を誇っています。 スキャンダルの系譜 11歳の95年頃から、酒やタバコを常習していたことが後に知られます。14歳の時にはアルコール依存症になり、2002年にはマリファナを吸って騒動を起こしました。2005年には仮装パーティでナチスの制服を着用して騒動を