投稿

6月, 2019の投稿を表示しています

東洋エンタープライズ /日本が誇る執念の服飾ブランド

イメージ
東洋エンタープライズ という服飾メーカーは、マニアックな商品展開をしているため一般には馴染みが少ないブランドです。しかしその一部のマニアにはたまらない商品を揃えていて、特にアメリカのヴィンテージ品の復刻には並々ならぬ執念を感じさせる会社です。今回は、東洋エンタープライズの紹介です。 関連記事 アロハシャツの季節 /各ブランドを一気に紹介 フライトジャケットはロマンで着る 歴史 東洋エンタープライズは、1940年代に創業した生地の貿易商「港商」から始まります。GHQによる財閥解体があり、貿易事業をする会社が減っていたため港商の事業は順調に進みました。戦後の焼け野原になった日本で生地といえばレーヨンぐらいしか残ってなかった時に、創業者の小林亨一はレーヨンを使ったジャンパーを作りました。そこに日本風の刺繍を施して米兵のお土産として売り出したところ大ヒットし、これが今日でいうスカジャンになります。当時は米兵の日本土産が大人気で、焼けた家の跡から焦げた雛人形を掘り出して並べていても、ジャンジャン売れる時代だったのです。その後、小林は米軍基地に出入りして、スカジャンを大量に販売しました。 関連記事: スカジャンが話題だがスタジャンと混同してはいけない アメリカがベトナム戦争に本格介入し、日本の米軍基地には米兵があふれるようになった1965年、小林は港商を解散して新たに東洋エンタープライズを立ち上げました。東洋エンタープライズは、米軍基地の米兵向けの衣料メーカーとして事業を拡大していきます。そして1975年にベトナム戦争が終結すると、東洋エンタープライズは米兵に販売していた衣料を国内に向けて販売するようになります。これが シュガーケーン というブランドになり、今日も続いています。 その他にも1930年代から1950年代のアロハシャツを再現する サンサーフ 、アメリカ軍のフライトジャケットを再現する バズリクソンズ 、スカジャンを作り続ける テーラー東洋 など、複数のブランドからヴィンテージ衣料を復刻したものを販売し続けています。 シュガーケーン 国内メーカーながら米兵に販売するため、アメリカの衣料を再現することに徹したことから始まったブランドです。その精密で徹底した再現には定評があり、多くの愛好者がいます。ヴィンテージ愛好家には、無視できな

ただ空を飛びたいんだ /20世紀初頭の飛行機の話

イメージ
1903年、ライト兄弟が初めて飛行機の初飛行に成功し、飛行機の時代が幕を開けます。私はここから第一次世界大戦が始まるまでに開発された飛行機が好きで、この時代の写真を見ていろいろと空想を巡らせます。本当に飛ぶか飛ばないかわからない飛行機も多く、野心的な作品が数多く見られます。 ※イギリス人初の飛行者と豚 ただ飛びたいんだ この時期の飛行機の特徴として、用途が決まっていないことが挙げられます。第一次世界大戦が始まると、飛行機は偵察機として作られ、後に爆撃機となります。戦後は商用飛行機が作られ、空飛ぶバスとして開発されますが、大戦前は飛行機に具体的な目的がありません。とにかく空を飛びたい、ただ空を飛びたいだけで、ものすごい情熱と死亡事故などの人的犠牲を払いながら開発が進みます。 この野心的で情熱的、しかしどこか牧歌的な飛行機に私は魅せられています。科学の粋と職人の技が融合した、ちょっと変わった飛行機を紹介していきたいと思います。 エアロドローム(1903年) スミソニアン学術学会長官のサミュエル・ラングレーは、1894年から飛行機のテストを繰り返していました。これらの飛行機はエアロドロームと名付けられ、無人機でテストを繰り返した後に1903年10月、そして12月に有人機のテスト飛行が行われました。しかしポトマック川に墜落し、失敗に終わりました。 ラングレーは機体の安定性を維持することに重点を置き、空力特性を重視していませんでした。エアロドロームの実験が失敗した9日後に、エアロドロームとは反対のコンセプト(機体の安定性を犠牲にして空力特性に特化した)で設計したライト兄弟が初飛行に成功しました。政府予算を使い、アメリカ最高の頭脳を集めたエアロドロームが失敗し、新聞屋のライト兄弟が成功したのは皮肉なことだと思います。 ペルトリII(1908年) ヨーロッパでも飛行機の開発は行われていて、フランスがヨーロッパでは先進国でした。そんなヨーロッパにライト兄弟の飛行に成功したニュースが届くと、開発者らは驚きを隠せませんでした。ライト兄弟が設計してたライトフライヤー号が飛行する写真が新聞に掲載されると、フランスの技術者は翼がねじれていることに着目し、「ひねり翼」の秘密に気が付きました。 ライト兄弟はフランスとドイツでひ

電車内の赤ん坊の泣き声 /母親へのプレッシャー

イメージ
先日電車に乗って吊り輪につかまっていると、目の前に座っている赤ん坊がギャンギャン泣き続け、母親は私と目が合うと「すみません」と申し訳なさそうに謝りました。私が「お腹がすいてるんですかね?」と尋ねると「ミルクを飲ませようとしても飲まないんです」と言い、「おむつは濡れてませんか?」と尋ねると「大丈夫みたいです」と、赤ん坊のおむつを触りながら言います。そこで「では眠りたいけど眠れなくてグズっているから、そっとしておいた方がいいですよ。泣きつかれてたら寝ますから」と言うと、隣に座っていたオジさんが私を睨みつけて、私たちに聞こえるように大きく舌打ちをしました。母親は「すみません」と謝り、さらに赤ん坊をあやし続けます。こうなると赤ん坊は、火がついたように泣き続けるだけになります。 赤ん坊の欲求 赤ん坊は泣くことだけがコミュニケーションなので、基本的に1日中泣いています。欲求は3つしかなく、「お腹すいた」「眠い」「おしっこ(うんこ)」になります。泣いている時は、この3つのどれかが満たされていないことを訴えているわけで、さらに親に泣き声が聞こえるように人が不快に感じる周波数で泣くという機能を備えています。 泣き止ませたい時は、この3つを確認することが基本になります。ですからお腹がすいた時にミルクがなければ、泣き止ませることはできません。泣きつかれて寝ることはありますが、起きたら再び泣き出します。これ以外にも母親の不安が子供に伝わり、泣き出すこともあります。冒頭に書いたように、母親が「すみません」を連発して謝り続けていると、その不安が赤ん坊に伝わって泣き続けるのです。 ネットでは母親に厳しい意見が多い 電車や飛行機の中で泣き続ける赤ん坊に対し、泣き止ませるのが母親の仕事だという意見は多く見られます。中にはしつけられないなら外出するなとか、子供のしつけもできないなら子供を産むなとか手厳しい意見もあります。 また赤ん坊に履かせている靴が、自分の服を蹴り続けているので不愉快になったとか、泣いているのに親は知らん顔してスマホをいじっているのか不愉快だという意見も多く見られます。また、親が「すみません」と一言言えばいいのに、「赤ん坊は泣くものだから仕方ない」と開き直った態度を取っていることに不快感を示す人もいます。 大別すると、赤ん坊を公共交通

20世紀末の事件簿 /大事件が続いた世紀末

イメージ
令和に入り凶悪事件や大事件が続いています。これを新時代の不吉な幕開けのように語る人もいますが、個人的には20世紀末の90年代も事件続きで不気味な空気が流れていたことを思い出します。ノストラダムスの予言じゃないですが、1999年までには世の中がおかしくなるんじゃないかと、多くの人が思っていました。そんな世紀末の事件を振り返ってみたいと思います。 戦争の脅威が高まった90年代前半 国際的な大ニュースとして、北朝鮮が93年に核拡散防止条約を脱退、94年に国際原子力委員会を脱退し、北朝鮮の核開発が疑惑から確信に変わったことでした。アメリカは空爆も辞さない構えで、朝鮮半島で戦争が起こる可能性が一気に高まりました。 関連記事: カーター元大統領の訪朝は面白い一手 この頃、友人の家にオートバイで向かう途中に横田基地の横を通ると、いつもは閑散としている横田基地に多くの兵士がいて、さまざまな物資を移動していました。開戦が近い雰囲気を感じました。結果的に戦争には至りませんでしたが、一歩手前ぐらいのところまで戦争が近づいた時期だったと思います。 海外ニュースが多かった94年 この年、日本で大きな話題となった海外のニュースは、5月のアイルトン・セナの死亡のニュースでした。日本でも人気の高かったF1ドライバーの事故は、F1を中継していたフジテレビ以外でも大きく報じられ、悲しみの声が溢れました。 ※アイルトン・セナ さらに海外からはルワンダでの大虐殺のニュースが届きます。100日間で100万人が殺されることになったこの事件では、ニュースが届くたびに子供を含む大勢の虐殺が報じられて嫌な気持ちになったものです。 ※ルワンダの虐殺でできた無数の墓 北朝鮮の核開発疑惑が落ち着いたものの、最高指導者である金日成の死去が報じられると、北朝鮮の体制崩壊で内戦が起こる可能性が指摘され、朝鮮半島は再び落ち着かなくなりました。アメリカではメジャーリーグが大規模ストライキに入り、日本人メジャーリーガーの野茂英雄の動向が報じられ、年末にはロシアでチェチェン内戦が報じられました。 自然災害と事件に混乱した95年 坂上忍が飲酒運転で事故を起こし逃亡のうえ逮捕されるという芸能ニュースに呆れた日から3日後の1月17日に、阪神淡路大震災が発生しました。転倒した