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もう少しインディ500を見る人が増えてもいいと思うこの頃

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日本には世界的自動車メーカーやオートバイメーカーがあるのに、モータースポーツの人気は今ひとつです。海外からも不思議に思われるこの不人気は、モータースポーツの面白さが十分に伝わってないからではないかと思います。一時期、F1や鈴鹿8耐が人気だったりしましたが、ブームはすぐに終焉してしまいました。今回はモータースポーツの中でも、日本では特に人気がない インディ500 についてです。今年は 佐藤琢磨 の3位というのも、ほとんど国内では報じられませんでした。 視聴者500万人を超えるビッグイベント 世界三大レースといえば、F1モナコGP、ルマン24時間、インディ500と言われるほど、伝統と規模を誇ります。 インディ500の観客動員数は40万人以上で、テレビの視聴者は500万人から600万人にのぼります。これは1億人以上の視聴者を誇るスーパーボウルや、2000万人以上のNBAファイナルには遠く及びませんが、全米オープンゴルフ、NHL(アイスホッケー)のスタンレーカップ、全米オープンテニスを上回る視聴者数です。 佐藤琢磨は2017年にインディ500で優勝しましたが、全米オープンゴルフよりも注目されるビッグイベントで優勝したことになり、そのインパクトの大きさが伺い知れると思います。2019年は3位になりましたが、これだけでもアメリカに大きな爪痕を残したと言えるでしょう。これほどのビッグレースの覇者が、さほど日本で報じられないのは不思議に思いました。 オーバルに潜む高精度のバトル オーバル(楕円)コースをぐるぐる回るレースは、単純でつまらないと言う人がいます。またアメリカ人は単純な速さを求めるので、F1のような複雑なコースを好まないと言う人もいます。繊細さに欠けるアメリカ人が、豪快なレースを求めるから単純なコースで単純なレースを行うと思われがちですが、実はこれらは全て間違っています。インディ500をはじめとするオーバルコースのレースは、恐ろしく繊細で高精度の運転が要求されるのです。 ※インディ500のサーキット インディカーは常に左回りなので、外側にくる右タイヤの方が大きくなっています。つまり直線を走る時も左に曲がろうとし、それをコントロールしなければストレートではまっすぐ走りません。それだけならいいのですが、時速350Km/hで団...

アイルトン・セナはなぜ死んだのか

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1994年5月1日、F1のスーパースターだった アイルトン・セナ が死亡しました。私はこのニュースを広島のホテルで知り、しばらく茫然とした記憶があります。死亡の原因については諸説ありますが、当時は操縦ミスやマシントラブルだけでなく、自殺というのもまことしやかにささやかれていました。今回はF1史上に残る重大な事故の1つ、アイルトン・セナの死を書いてみます。そしてその死の原因を探っていきたいと思います。 関連記事 あの頃ホンダはなぜ強かったのか /川本信彦のレース狂時代 「ここはモナコ、モンテカルロ」名実況が作り上げた名場面  耐え忍んだホンダが芽を吹かせた2018年 /F1のホンダは復活するか アイルトン・セナの略歴 セナは1960年、ブラジルのサンパウロに生まれます。幼い頃からカートレースを始め、17歳の時には南アメリカ・カート選手権で優勝しています。その後、イギリスに渡るとジュニア・フォーミュラに参戦して、21歳でチャンピオンになりました。23歳の時にはF3にステップアップし、20戦中12勝の最多記録でチャンピオンになります。ブラジルでの生活を希望する妻と離婚しての参戦でした。 ※84年トールマンに乗るセナ 84年にトールマンからF1に参戦すると、名門の ロータス に移籍し次々に表彰台に上るようになります。しかし予選で圧倒的な速さを見せつつも経験の少なさからレースでは波が大きく、優勝は少ない状態が続きました。しかし87年にはロータスがホンダのエンジンを獲得したことで、総合3位に入る健闘を見せました。さらに88年からは マクラーレン に移籍すると、チームメイトのアラン・プロストとレースを席巻します。マクラーレン・ホンダは16戦中15勝の圧倒的強さを見せ、セナは初のF1ワールドチャンピオンを獲得しました。特に総合優勝を決めた鈴鹿サーキットでのレースは、ポールポジションを獲得しながらスタートに失敗して13位からのスタートになってしまう波乱含みでした。しかし驚異的な速さを見せ、逆転優勝する様子は日本でも放送され大きな反響を呼びました。 プロストとの確執が表面化した89年はプロストとの接触で総合2位に、90年は再びプロストと接触事故を起こしてワールドチャンピオンを獲得しました。さらに91年もワールドチャンピオンを獲得し...

耐え忍んだホンダが芽を吹かせた2018年 /F1のホンダは復活するか

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2017年はホンダにとって、F1に参入してから最も悲惨なシーズンの一つだったはずです。鳴り物入りで2015年にホンダがF1にカムバックした時、誰もが名門ホンダの復活を予感しました。なにせマクラーレンと組んでの復帰であり、かつての常勝チーム、マクラーレン・ホンダが復活するのです。しかし期待は見事に裏切られました。マシンは遅く、頻繁に壊れました。 関連記事 あの頃ホンダはなぜ強かったのか /川本信彦のレース狂時代 「ここはモナコ、モンテカルロ」名実況が作り上げた名場面  アイルトン・セナはなぜ死んだのか 失望の3年間 フェルナンド・アロンソはレース中に苛立ち「GP2のエンジンかよ! GP2だ!」と、無線で叫びました。ストレートで全くスピードが出ず、ライバル達にやすやすと抜かれていくのに我慢がならなかったのです。さらにホンダのパワーユニット(以下PU、エンジンを含めた出力系まわり)は、排熱に問題があり簡単に壊れました。まともに完走するのすら難しくなっていました。 ※フェルナンド・アロンソ 2016年には復調の兆しが見えましたが、2017年はさらに酷くなります。ホンダは数年先を見据えてPUを一から再開発したのが裏目に出たようです。全くスピードが出ないことにイラついたアロンソは、公の場でホンダ批判を繰り返します。 「こんなにスピード差があるのは危険でさえある」 「信頼性もないし、パワーもない。僕たちはすべてのストレートで時速30km遅い」 「問題はひとつだけだ。パワーユニットだ」 さらにマクラーレン首脳もホンダを手厳しく批判します。マクラーレンのシャーシは優勝を狙えるほど素晴らしい出来だが、ホンダが全てをぶち壊しているというイメージが出来上がり、ホンダは厳しい批判にさらされます。 しかし過激になっていくアロンソの批判に対して懐疑的な声も少数ですがありました。本当にホンダだけが問題なのだろうか?マクラーレンにも問題があるのではないかという声は、日本のプレスだけでなく海外からも漏れていました。特にアロンソの「これがルノーのPUなら、4位か5位には楽に入れた」というコメントには、パートナーへの礼儀を欠き、信憑性も乏しいとマクラーレンの地元イギリスからも疑問が出ていました。 ※マクラーレン・ホンダ ...

世界一になるはずだった加藤大治郎 /二輪レース最大の損失

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その時、鈴鹿サーキットのシケインでは、悲鳴のようなファンの声が響き渡っていたそうです。「大ちゃん、大ちゃん!」目に涙を浮かべたファン達は、サーキットに横たわり、ピクリともしない加藤大治郎に呼びかけ続けました。 「大ちゃん、起きてよ。大ちゃん!」 目の肥えた鈴鹿のファンは気づいていました。これは単なる事故ではなく、取り返しのつかない事態が起こってしまったのだと。だから藁にもすがる想いで、加藤の名前を呼び続けたのです。 関連記事: サーキットの純愛物語 GPライダー原田哲也とレースクイーンの恋       世界中を熱狂させた阿部典史を知っていますか? 加藤大治郎とは 加藤はあらゆる意味で稀有なライダーでした。世界一の座を掛けて激しい戦いが繰り広げられるGPライダーの世界では、確執や憎悪さえも生まれます。しかし加藤は人懐っこい笑顔と、ほんわかした雰囲気で誰からも好かれていました。周囲によると「そそっかしくて忘れっぽい。驚くほどマイペースで、ほっとけないキャラ」で、誰もが世話を焼きたくなる存在だったそうです。 しかしサーキットでオートバイに乗った加藤は怪物でした。各国のトップライダー達が「完璧」と評するライディングで隙のないレースを展開し、あっという間に優勝をさらっていきます。冷徹でシビアなレースの組み立て方と、抜きどころや抑えどころを直感的に見抜く才能は、誰もが羨むものでした。その加藤がマシンを降りると、ほんわかした雰囲気で笑顔を浮かべるギャップに、ファンだけでなくメディアもライバル達も惹かれてしまったのです。 250ccクラスで他を圧倒する 94年に全日本選手権にデビューすると、型落ちのマシンでトップ争いを演じます。97年にはホンダのワークスマシンが与えられ、骨折などのトラブルもありながらチャンピオンになりました。 2000年にはイタリアのグレジーニに加入して、世界選手権にデビューします。パシフィックGPでは日本のエース中野真矢と激しいバトルを展開して勝利しました。中野はレース中に景色がスローモーションに見えるほど集中していたのですが、それでも加藤に勝てなかったと涙を浮かべて悔しがりました。 2001年はロードレース世界選手権に250ccクラスでエントリーした2年目でした。16戦中優勝が11回で、圧倒的な強さを見せつ...

狂気の沙汰のバイクレースを知っているか /マン島TTレース

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バイクレースは世界中で行われていますが、世界一危険なレースとしてGPライダーからも恐れられているのがイギリスのマン島で行われるTTレースです。TTはTourist Trophy :ツーリスト・トロフィーの略で、1904年から続く伝統と権威のあるレースです。今回は毎年初夏に行われる最もクレイジーなレースを紹介したいと思います。 市街地を最大時速350km/h以上で駆け抜ける、常軌を逸したオートバイレースです。多数の死者がでていますが、このレースが中止になる気配がありません。 TTレースの歴史 20世紀初頭、国別対抗の自動車レースであるゴードン・ベネット・カップが人気でした。その出場者を選抜するためにマン島での自動車レースが考案されました。イギリス王立自動車クラブは、マン島の領主に公道でのレース開催を要請して認められました。 ※当初は自転車にエンジンがつけたようなマシンでした。 1907年からオートバイのレースがマン島で行われることになり、ノートンやトライアンフといったイギリスのオートバイを使ったレースが行われるようになります。コースやレギュレーションの変更を重ね、現在に至ります。1959年にはホンダが日本のメーカーとして初参戦し、1961年には優勝してホンダの名を世界に示しました。 ※1959年に参戦したホンダ 危険なコース かつてTTレースは世界ツーリング選手権(オートバイレースの世界最高峰)の1レースでしたが、1970年代前半には多くのライダーがコースが危険すぎるという理由で出場を辞退しました。現在も高速で走り抜けるには路面の整備が追いついておらず、危険すぎると出場しないライダーは多くいます。 ※石垣の側で跳ねるマシン 狭い公道を走るため、エスケープゾーンがなく石垣や塀などがあります。転倒は死に直結し、観客を巻き込んでの事故が何度も起こりました。整備されていない路面はバンピーで、高速で走るマシンは跳ねて捻れます。暴れるマシンを押さえつけ、わずかなミスや一瞬の判断の遅れはマシンを制御不能にし、時速300km/hで壁に叩きつけられるのです。これまでの死者は250人を超えています。 ※観客との距離が近いのも特徴です。 コースの名所 バラフ・ブリッジは時速20...