人に教える難しさ /ラグビー平尾誠二と大八木淳史
以前、一緒に働いたことがある建設会社の人が、京都の伏見工業高校のラグビー部でした。2軍にも上がれなかったそうですが、名門ラグビー部出身ということで、色々な話を聞くことができました。その中でも、平尾誠二と大八木淳史という、日本では伝説的なラガーマンからラグビーを教わった話はとても面白い内容でした。 ※大八木淳史(左)と平尾誠二(右) 関連記事: ラグビー日本代表の足跡を振り返る /屈辱の日々からの栄光 ラグビー・ワールドカップ展望 /日本はどこまで勝ち上がるのか ワールドカップ ラグビー雑感 /日本が歴史を変えた大会 平尾誠二とは 「ミスター・ラグビー」「貴公子」と呼ばれた日本を代表するラガーマンです。1963年に京都府京都市に生まれ、小学校までは野球をやっていました。中学に入学すると練習が厳しい野球部より楽しそうに練習しているラグビー部を見て、中学からラグビーをはじめました。高校はスカウトされる形で京都伏見工業高校に進むと、主将として同校を初の全国優勝に導きました。不良が多く、なにかと問題の多かった伏見工業高校の優勝は衝撃的で、「スクールウォーズ」というテレビドラマの題材になりました。 同志社大学に進学すると、最年少で日本代表にも選出されます。同志社大学は史上初の大学選手権3連覇を達成し、イギリスに留学してこのままラグビーを辞めることも考えていました。しかしファッション雑誌のモデルになったことをキッカケに、紆余曲折を経て神戸製鋼に入社してラグビー部に入ります。 神戸製鋼は史上初の日本選手権7連覇を達成し、神戸製鋼の黄金期を作ります。ワールドカップも第1回大会から3回出場し、引退後は神戸製鋼の総監督に就任しました。2016年に胆肝細胞癌で、53歳の若さで死去しました。 大八木淳史とは 1961年に京都府京都市に生まれました。工務店の実家を継ごうと伏見工業高校を受験した際に、190cmの巨体に惚れ込んだ教師からラグビー部に勧誘されてラグビーを始めます。その後、同志社大学に進学して、平尾誠二とともに大学3連覇に貢献すると、日本代表に選ばれます。圧倒的な身体能力を活かした日本人離れしたプレイで、周囲を蹴散らしながらトライを狙う姿勢には多くのファンがいました。 日本選手権では、当時