川村カオリが亡くなって、もうすぐ10年

ふとしたきっかけで、ガンで亡くなった歌手の川村カオリを思い出しました。彼女の曲を聴くと懐かしさがこみ上げてくるのですが、同年代の彼女が亡くなってから、もう10年になるという事実にも驚かされます。そこで今回は、川村カオリのことを書いてみたいと思います。



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川村カオリとは

1971年に日本人の父親とロシア人の母親の間に、モスクワで生まれました。日本の小学校に編入すると、ハーフだったことからイジメを受けるようになります。中学生に進学してソ連が領空内に侵入した民間機を撃墜する大韓航空機撃墜事件が起こると、教師からも「ソ連に帰れ」といわれるなど、辛い時期を過ごしました。

高校に進学すると、新宿ロフト(ライブハウス)に出入りするようになり、高校を中退してロンドンに留学します。1年ちょっとの留学を終えて帰国すると、86年に「川村かおり」として歌手としてデビューしました。その後はバラエティ番組への出演、モデル活動、ラジオ番組など幅広く活躍の場を広げますが、93年に活動を休止してニューヨークで過ごすようになりました。



95年から歌手として活動を再開し、クラブDJやモデル、ドラマ出演などで活躍しますが、2004年に乳がんが見つかります。闘病と子育て、音楽活動を並行して行い、2009年に38歳の若さで亡くなりました。

最初に聴いた印象

おそらく88年頃だと思います。ラジオで彼女の「ZOO」が流れました。辻仁成の作詞作曲でプロデュースもしていると紹介されましたが、私は辻仁成が嫌いでした。そして川村かおりの声は、ほとんど印象に残りませんでした。再び川村かおりの名前を思い出すのは、彼女がパーソナリティをしていた「オールナイトニッポン」を聞いた時です。



その後は破竹の勢いでテレビ番組やCMに出演し、人気者になっていきます。そこでアルバム「ヒッピーズ」を聴きました。最初の印象は「歌が下手だなぁ」という感じで、レコーディングでこれだから生歌はかなり酷いだろうと思いました。普通ならこのまま2度と聴かないはずですが、なぜか繰り返し聴きました。それどころか次に発売されたベスト盤「チャーチ」も手に入れて聴きました。相変わらず歌は不安定で、お世辞にも上手いとは言い難いものでしたが、なぜか繰り返し聴きたくなったのです。

川村カオリの歌の魅力

透明感のある音楽と歌詞に、引っかかるように彼女の声は残ります。そこには十代特有の不安定さがあり、マイノリティとして生きることになった疎外感や孤独、それでもなんとか明日を生きようとする力があります。未来よりも今を充実させたいという若さがあり、自分の好きなこと、信じることを優先したいという無謀さがあります。

おそらくとても繊細なんだろうと思える人柄が節々に見られ、エキセントリックな一面も彼女の魅力でした。そしてイジメの原因となったロシアの血を引く彼女が、冷戦の終結機に人気を博したのは偶然ではないと思います。ペレストロイカという言葉に象徴される、新しい時代と世界が始まる予感が世の中にあり、ロシア人の血をあけすけに語る彼女はその予感の中にいたのです。



川村カオリの曲を多く手がけた高橋研は、当時の彼女のことを「音程はおおよそ曖昧で、発声はいいかげんだった」「周囲は力を貸そうとしたが、彼女がスキルを磨くために時間を割くことはほとんどなかった」と語ります。しかし「かおりは的確に歌の世界観を捕まえることが出来た。歌い手としてはまだまだでも、表現者としての天性があった」と語ります。彼女は歌手ではなく表現者だったのです。周囲は理解できず、また本人もそれを仕方ないと捉えていたように思います。

高校時代

私が以前、一緒に仕事をした人が71年生まれで、都立田柄高校の卒業生でした。つまり川村カオリと同じ学校に、同学年でいたのです。クラスは違ったそうですが、クラスメイトが「ロシアよハーフがいるから見に行こう」と言い出し、わざわざ顔を見に行ったのだそうです。

長い髪に透き通るような白い肌で、ハッとするような美人だったそうです。芸能人が学校に紛れ込んでしまったような印象で、スカウトされて芸能界デビューしたと聞いても納得だったそうです。その人が驚いたのは、真っ黒の長い髪が茶髪のリーゼント風になり、美少女が男のような風貌になってテレビに出ていたことだそうで、最初は同姓同名の別人かと思ったと言っていました。

当然ながら、なんとか彼女と仲良くなれないかと狙っている男子はいたそうですが、近寄りがたい雰囲気があり、女子とも特定の人としか話をしないのできっかけがなく、そのうちにロンドンに行くと言って退学してしまったそうです。

結婚と離婚と闘病生活

99年にギターリストのMOTOAKIと結婚しますが、子供ができないため不妊治療を行っています。MOTOAKIも酒を絶って一緒に不妊治療に励み、その甲斐あって2001年に長女るちあが誕生しました。しかし出産後に、再びMOTOAKIの飲酒が始まるとトラブルが続き、浮気などもあって03年から別居しています。そして04年に乳ガンが発覚します。



左乳房の切除手術を受け、抗がん剤による治療を続けてガンを克服すると、乳ガンの正しい知識を広めるピンクリボン運動にも参加して、乳ガン検診をアピールします。07年には離婚を発表し、娘るちあの親権を持つことになりました。そして08年にガンが再発します。手術が困難なため、抗がん剤治療を続けながら音楽活動を再開します。そんな中、俳優の水谷豊が中心になり、かつてCMで一緒に仕事をした富士フイルムやJALの関係者が集まって「川村カオリを囲む会」が開かれました。手術ができない絶望的な状況にあって、民間療法など少しでも楽になる方法はないかと、多くの人が彼女を訪れて励ましています。

川村カオリのカムバックにあたって、歌手の吉川晃司は自身の事務所に所属することを勧めて彼女をバックアップしていましたが、病床に苦しみながらもアルバムを作りたいという彼女の希望を叶えるために奔走します。そしてもう一つの彼女の希望であった渋谷公会堂(CCレモンホール)でのライブの実現に向けて、動き出しました。病院からスタジオに入り、また病院に戻るという生活を繰り返しながらレコーディングを開始し、2009年にアルバム「K」を発表しました。



闘病する彼女を支えようと、ニッポン放送は「川村カオリのオールナイトニッポン」を急遽企画し、09年4月4日に生放送する予定でした。しかし体調が悪化してスタジオ入りすることができず、放送作家の鈴木おさむが代打MCを務めて「川村カオリのためのオールナイトニッポン」と題して、関係者やファンがみんなで川村カオリの闘病を応援する番組を放送しました。そして念願の渋谷公会堂での単独ライブを実現します。直前に体調が悪化したためキャンセルもあり得ましたが、車いすで会場入りした川村カオリは椅子に座って思い出が詰まった渋谷公会堂で3時間に及ぶライブを成功させました。アンコールでは立ち上って歌い抜き、大きな拍手を浴びていました。

しかしその直後に、さらなるガンの転移がみつかります。彼女の洗礼名「アナスタシア」(復活する女)になぞらえ、多くの人が川村カオリの復活を望んでいましたが、その応援もむなしく09年7月28日に亡くなりました。享年38歳でした。彼女は正教だったため、ニコライ堂で葬儀が行われ、700人もの人が参列しました。

川村カオリの曲紹介

金色のライオン
新宿にたむろする若者を歌った、川村カオリの実体験のような歌です。少しずつ大人になっていくのを自覚しながら、少年少女だった頃を懐かしむ歌詞になっています。アルバム「ヒッピーズ」に収録されています。



キースの胸で眠りたい
キースとはザ・ローリング・ストーンズのギターリスト、キース・リチャーズのことです。学校の友達や親との間で揺れ動く少女の心情を歌っていて、この曲のイメージが川村カオリのイメージそのものでした。ファンの間でも名曲と言われています。



僕たちの国境
ロック調のナンバーで、ストレートな歌詞になっています。初期の川村カオリを代表する曲の一つで、ライブでも定番だったようです。



真っ白な月
大人になって忘れてしまいそうな少年少女時代の気持ちを歌っています。真っ白だった頃を忘れないでいて欲しいとの想いが全編にあり、重くダークな曲調なのに爽やかな印象を残す、川村カオリらしさが出ている曲だと思います。



神様が降りてくる夜
自身も出演していた「邦ちゃんのやまだかつてないテレビ」の挿入歌だったので、多くの人に知られているヒット曲です。明るいポップな曲調で、気さくに神様に語り掛ける内容になっています。



ZOO
デビュー曲でもあり、エコーズや菅野美穂のカバーでも知られています。さまざまな動物を歌っているようで、人が見せるさまざまな面を動物に例えて歌っています。こちらもポップな曲調です。



批判の声もあった

娘の川村るちあのことを最優先に考えたいと言いつつ、ライブを強行したりアルバム制作を優先するライフスタイルに批判もありました。娘が大事なら少しでも一緒にいてあげればいいのに、という声には一理あるとも思います。一方で、当時の彼女は売れていませんでした。治療費を捻出し、娘のために少しでもお金を残しておきたい母心として、仕事を優先するのも納得できると思います。



現在、川村るちあがどのように過ごしているかは知りません。しかし周囲はきっと「お前のお母さんは、最高に格好良かったよ」と言っているのではないでしょうか。母親が必死に残した最後のステージでの姿や、最後のアルバムはかけがえのない思い出になっているのではないでしょうか。彼女を支え続けた吉川晃司は、訃報に触れてこんなことを言っていました。

あんな病状でアルバムを完成させ、もっとも苦しい中で渋公ライブもやり遂げた。歌いたい事が山ほど増えた!まだ歌えるんだ!娘に見せるんだ!って、反則だよそれ。撃ち抜かれちゃって、木っ端微塵よ。本当は怖かったろうに、痛かったろうに。止めてやれれば、まだ近くに居たかもしれない。デッカいステージだって、造ってやれなくてゴメン。

これほど愛された人が、最高の瞬間を死期を間近にして迎えられたことは、稀有な出来事だったと思うのです。

まとめ

当時、川村カオリのブログをよく読んでいました。病状を赤裸々に綴り、何をしたいかを明確に訴え、強い意志が伝わってくるブログで胸が熱くなったのを覚えています。途中から更新が減り、本人による記載もほとんどできなくなっていました。消えゆく命を見ているようで、胸が詰まりました。

長々と書きましたが、私は川村カオリの魅力を正確に伝えられません。何か気になる存在でしたが、的確な言葉が思いつかないのです。ただ思うのは、川村かおりとしてCMやバラエティ番組に出ていた頃より、川村カオリとしてインディーズで曲を出し、仲の良いファッションモデルと組んでイベントを立ち上げたりしている頃の方が、彼女らしかったように思います。メジャーシーンにはそぐわない、共感してくれる人のためだけに存在するという彼女の姿勢は、格好良かったと思うのです。


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※死の半年前に行われたライブ映像です。

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