BOOWYとはなんだったのか /日本のロックは歌謡曲なのか?
二十代のバンドマンの知り合いが音楽を聴き込む中で、80年代に全盛期を迎えたストリート・スライダーズを知り、気に入ったそうです。そこで「ボウイとかはどう?」と尋ねると、「正直、何がいいのかよくわかりません。あれってロックというより歌謡曲ですよね」と言います。この言葉はBOOWYの核心を突いていると、関心してしまいました。そこで今回は伝説のバンド、ボウイについてあれこれ書いてみます。
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86年に発売したアルバム「ビート・エモーション」は、オリコンチャート1位となる大ヒットで、バンドは人気の絶頂を迎えます。しかし人気絶頂の87年の年末に突如解散を表明しました。解散コンサートとなったLAST GIGSのチケットが発売された88年3月5日は、公立高校の受験発表も重なって電話回線の通信量が激増してしまい、都内の回線がパンクしてニュースになっています。ギターリストの布袋寅泰は、解散理由を「墓場まで持っていく」と語っていましたが、ドラムの高橋まことは解散理由をサラッと自著に書いていたりするので、興味のある方はそちらを読んでみてください。
録音は歌と演奏の2つに分けられ、バンドサウンドとして録音されていません。歌も演奏も未熟で、曲はモダン歌謡といった感じです。この頃の布袋寅泰のギターはテクニックも迫力もなく、ドラムの木村マモルは布袋に聞こえるように「ギターが下手だ」と文句を言っていたそうです。さらにこの時期のボウイのサウンドはロックというより、モダン歌謡という感じがします。
後にB'zやZARDなど、ビーイング系と呼ばれる音楽を連発してヒットメーカーとして君臨するビーイングですが、当時はラウドネスを当てただけで実績はさほどありませんでした。そんな中、氷室京介は「スピニッジ・パワー」というバンドのボーカルを勤めていました。これはビーイングの中心的人物である織田哲郎がボーカルでしたが、織田が抜けた後に何回もボーカルが交代していて、そのうちの1人が氷室京介だったにすぎません。このバンドはロックというより歌謡曲が中心のバンドでした。
アルバム2枚を出したボウイはビーイングを離れ、ライブハウスを中心に活動することになります。ビーイングを離れた理由は諸説あり本当のところは分かりません。ビーイングにクビにされたのか、ここでは売り出してもらえないと考えてボウイ自身が申し出たのか、引き抜きにあったのか、さまざまな話が混在しています。
後に氷室京介は「佐久間さんのやることは、ワンランク上だった」と語っていますが、これは控えめな言い方で、ボウイにとってはじめての本格的なレコーディングになります。そして佐久間はボウイについて、このように語っています。
「ロックをやりたいと強く望むわりに、歌謡曲みたいな曲が多いという印象だった。当初は正直言ってヤバイなという感じ」
さらにこのレコーディングは、学校のようになっていきます。布袋寅泰はエンジニアからアレンジの仕方やプロデュース作業を学び、氷室京介は作詞家の松井五郎の指導を受けながら作詞を学び、松井常松は佐久間からベースの基本を叩き込まれます。作詞作曲、演奏、レコーディングの基礎を学びながらレコーディングは続けられました。
こうした中で、3枚目のアルバム「BOOWY」が完成します。佐久間正英は画一的な音作りをすると言われ、彼がプロデュースした曲はどれも同じような音になると言われます。しかしこれがボウイにピタリとハマったのでしょう。また佐久間は氷室の歌い方や声が歌謡曲のようで、ロックっぽくないと悩んでいたようです。しかしレコーディングが進むにつれて、氷室の歌い方がロックサウンドに面白く馴染むことに気がついたと語っています。この3枚目のアルバム「BOOWY」から、彼らの快進撃が始まりました。
歌謡曲テイストのロックは、この当時の多くのバンドが試みています。21世紀の現在でも、洋楽の本格的なロックの影響を前面に出した音楽は受け入れられにくいのですから、80年代当時のボウイが歌謡曲をロック風に歌う方向性は当然だと思います。そしてそんな時代に、本格的なハードロック/ヘヴィメタル路線でヒットを飛ばしたラウドネスの怪物性は際立ちます。そしてロック風の歌謡曲を多くのバンドが志向し、最初に最も大きな成功を収めたのがボウイだったのです。
今ではネットを通じて様々な音楽が自由に聴けますが、80年代はテレビやラジオの影響が絶大で、そこで流れる音楽しかメインストリームになれませんでした。ボウイは当時の時流に乗って、日本人に馴染みの深い歌謡曲のメロディをロックテイストのビートに乗せて当たりました。本格的なロックミュージックが好みの若い人には、かなり物足りないと感じるのは当然だと思います。
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BOOWYとは
1982年にビーイングからデビューした6人編成(後に2人が脱退)のロックバンドで、83年頃からライブハウスで人気を得ます。85年のサードアルバム「BOOWY」がオリコンチャートに入り、シングルカットされたデビューシングル「ホンキー・トンキー・クレイジー」が61位にまで上ると、テレビには出ないなどの強気のメディア戦略も話題になりました。テレビで演奏する姿を見られないため、ライブチケットはプラチナになりコンサートは常に満員になっていきました。86年に発売したアルバム「ビート・エモーション」は、オリコンチャート1位となる大ヒットで、バンドは人気の絶頂を迎えます。しかし人気絶頂の87年の年末に突如解散を表明しました。解散コンサートとなったLAST GIGSのチケットが発売された88年3月5日は、公立高校の受験発表も重なって電話回線の通信量が激増してしまい、都内の回線がパンクしてニュースになっています。ギターリストの布袋寅泰は、解散理由を「墓場まで持っていく」と語っていましたが、ドラムの高橋まことは解散理由をサラッと自著に書いていたりするので、興味のある方はそちらを読んでみてください。
BOOWYのプロモーション
ボウイの伝説には所属事務所やレコード会社によるプロモーションが多分に含まれていて、事実とは異なることも多く、何が本当かわからなくなっています。例えば「テレビには出ない」という話も、実際には「太陽にほえろ!」のゲスト出演をはじめ、「いきなりフライデーナイト」などのバラエティ番組にも出演しているため、出たかったけど出られる機会が少なかったのではないかと思われます。また所属事務所に反発したという話はボウイに限らず当時のほとんどのバンドの常套文句ですが、新人バンドが事務所に反発などできるはずもありません。むしろ事務所の指示に従わないバンドはプロモーションしてもらえず、売り出すこともままならなくなってしまいます。※渡辺徹、山田邦子らと「いきなりフライデーナイト」で談笑するBOOWY |
売れなかった時代
最初の2枚のアルバムは、全く売れませんでした。オリコンチャートも圏外で、メンバー2人の脱退もあって苦しい時期だったはずです。地方の祭りのゲストで出たらギャラが野菜だったという話も、この頃のものです。売れなかった理由は聴いてみるとすぐにわかりますが、アルバムの出来が良くないのです。※ファーストアルバムの「モラル」 |
録音は歌と演奏の2つに分けられ、バンドサウンドとして録音されていません。歌も演奏も未熟で、曲はモダン歌謡といった感じです。この頃の布袋寅泰のギターはテクニックも迫力もなく、ドラムの木村マモルは布袋に聞こえるように「ギターが下手だ」と文句を言っていたそうです。さらにこの時期のボウイのサウンドはロックというより、モダン歌謡という感じがします。
当時のビーイング
78年に設立したビーイングは、芸能事務所というよりイベント屋に近い存在でした。しかし81年末にラウドネスをデビューさせ、一気にメジャーな存在に変貌しました。ラウドネスの高崎晃はデビュー前から音楽業界が注目していたギターリストで、さらに日本ではメタルは売れないというのが定説でした。その定説を覆してラウドネスは大ヒットし、ビーイングは一気に注目される事務所になったのです。当時のビーイングはラウドネスを中心に動き、ボウイはその他大勢のバンドの1つに過ぎませんでした。そのボウイのファーストアルバム「モラル」は、ラウドネスのデビューから1ヶ月ほど遅れて発売されました。※ラウドネス |
後にB'zやZARDなど、ビーイング系と呼ばれる音楽を連発してヒットメーカーとして君臨するビーイングですが、当時はラウドネスを当てただけで実績はさほどありませんでした。そんな中、氷室京介は「スピニッジ・パワー」というバンドのボーカルを勤めていました。これはビーイングの中心的人物である織田哲郎がボーカルでしたが、織田が抜けた後に何回もボーカルが交代していて、そのうちの1人が氷室京介だったにすぎません。このバンドはロックというより歌謡曲が中心のバンドでした。
アルバム2枚を出したボウイはビーイングを離れ、ライブハウスを中心に活動することになります。ビーイングを離れた理由は諸説あり本当のところは分かりません。ビーイングにクビにされたのか、ここでは売り出してもらえないと考えてボウイ自身が申し出たのか、引き抜きにあったのか、さまざまな話が混在しています。
事実上の再デビュー
84年の末にユイ音楽工房と契約し、新しいアルバムの制作が決まります。ボウイはプロデューサーに佐久間正英を希望しますが、佐久間は難色を示しました。どうも佐久間はボウイなど若いバンドの扱いに手を焼いていたようで、すぐに逃げ出すのではないかと考えていたようです。そこで逃げ出そうにも土地勘がなく、言葉も通じないベルリンのハンザスタジオで行うことを条件に受け入れ、3枚目のアルバム「BOOWY」の制作が始まりました。※佐久間正英 |
後に氷室京介は「佐久間さんのやることは、ワンランク上だった」と語っていますが、これは控えめな言い方で、ボウイにとってはじめての本格的なレコーディングになります。そして佐久間はボウイについて、このように語っています。
※ハンザスタジオ |
「ロックをやりたいと強く望むわりに、歌謡曲みたいな曲が多いという印象だった。当初は正直言ってヤバイなという感じ」
さらにこのレコーディングは、学校のようになっていきます。布袋寅泰はエンジニアからアレンジの仕方やプロデュース作業を学び、氷室京介は作詞家の松井五郎の指導を受けながら作詞を学び、松井常松は佐久間からベースの基本を叩き込まれます。作詞作曲、演奏、レコーディングの基礎を学びながらレコーディングは続けられました。
こうした中で、3枚目のアルバム「BOOWY」が完成します。佐久間正英は画一的な音作りをすると言われ、彼がプロデュースした曲はどれも同じような音になると言われます。しかしこれがボウイにピタリとハマったのでしょう。また佐久間は氷室の歌い方や声が歌謡曲のようで、ロックっぽくないと悩んでいたようです。しかしレコーディングが進むにつれて、氷室の歌い方がロックサウンドに面白く馴染むことに気がついたと語っています。この3枚目のアルバム「BOOWY」から、彼らの快進撃が始まりました。
80年代初頭の音楽シーン
70年代のはっぴいえんどやサディスティック・ミカ・バンドを経て、雨後の筍のようにロックバンドが出てきたのが80年代です。その中でも本格的なロックを目指したルースターズやストリート・スライダーズは、マニアックな人気を得ましたが、一般的な人気は今ひとつでした。一方で、レベッカやボウイなど歌謡曲テイストの強いロックが大衆の人気を得ました。※ストリートスライダーズ |
歌謡曲テイストのロックは、この当時の多くのバンドが試みています。21世紀の現在でも、洋楽の本格的なロックの影響を前面に出した音楽は受け入れられにくいのですから、80年代当時のボウイが歌謡曲をロック風に歌う方向性は当然だと思います。そしてそんな時代に、本格的なハードロック/ヘヴィメタル路線でヒットを飛ばしたラウドネスの怪物性は際立ちます。そしてロック風の歌謡曲を多くのバンドが志向し、最初に最も大きな成功を収めたのがボウイだったのです。
今の世代にはピンとこないかも
現在の二十代の若者がボウイの歌謡曲性の強さに違和感を覚えるのは当然のことで、今とは時代背景が違いすぎます。さらに彼らは凄腕のギターリストと言われている布袋寅泰のボウイ時代の演奏に、拍子抜けもするでしょう。彼のギターは3枚目の「BOOWY」から急速に進歩を遂げますが、突出したギターリストではありませんでした。布袋寅泰の才能が開花するのは、ボウイの後期から解散後にかけてです。特にリードプレイは、長い間不得手にしていました。ボウイの演奏で聴かれる布袋のプレイは、ほとんどがありきたりのギターリストのもので、特に取り上げるほどのものではありませんでした。今ではネットを通じて様々な音楽が自由に聴けますが、80年代はテレビやラジオの影響が絶大で、そこで流れる音楽しかメインストリームになれませんでした。ボウイは当時の時流に乗って、日本人に馴染みの深い歌謡曲のメロディをロックテイストのビートに乗せて当たりました。本格的なロックミュージックが好みの若い人には、かなり物足りないと感じるのは当然だと思います。
まとめ
あれこれ書きましたが、私の世代には強烈なインパクトを残したバンドです。ボウイのヒットにより、雨後の竹の子のように日本の音楽シーンにロックバンドが登場して一つの時代を作りました。そのロックバンドブームが落ち着くとイカ天ブームが始まり、格好良くロックを演奏するだけでなく、バラエティ豊かなバンドが次々と登場するようになります。今日の日本の音楽シーンを考えると、ボウイのヒットは一つの分岐点のように思います。関連記事
第2次バンドブームについて考える /BOOWYからイカ天まで
尾崎豊は当時の若者の代弁者だったのか?
SHOW-YAとお友達だった人と80年代を語った
プリンセス・プリンセスを聴きながら楽器の上手さを考えた
プリンセス・プリンセスの楽器パート /再び友人と語ってみた
野村義男との遭遇 /たのきんトリオのよっちゃんと気づかなかった
今更ながらビル・ローレンス /森高千里モデルのギター
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