尾崎豊は当時の若者の代弁者だったのか?

あるブログで歌手の尾崎豊のことが書かれて話題になったようです。「盗んだバイクで走り出す」「夜の校舎窓ガラス壊してまわった」などの詩は、床にこすりつけた鶏肉を揚げるカラオケ屋の行為と大して変わらず、主張するのは結構だけど一線を超えたら終わりだと手厳しく批判したようです。この意見について賛否が上がったのですが、尾崎豊についてはリアルタイム世代として違和感を覚えることが多いので、そのことを書いてみたいと思います。



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92年尾崎豊の死

尾崎豊の死はスポーツ新聞の記事で知りましたが、私を含めて周囲の反応は「そういえば尾崎豊っていたな」という感じで、当時はすっかり忘れていた歌手でした。確かに前年にはJR東海のCMにI Love Youが使われてヒットし、あちこちで流れてはいました。しかしこの曲は83年にリリースされた曲で懐メロでしたし、歌手としてはとっくに終わった人だと思われていたのです。

尾崎豊の死は、かつてちょっとしたヒットを飛ばした歌手のニュースであり、最近まで歌手活動をしていたこともさほど知られていませんでした。しかし死後に雨後の筍ように熱烈なファンが現れて、尾崎の死を悲しみ社会現象のようになっていきます。もちろん80年代には熱烈なファンがいましたが、こんなにファンっていたの?と目を丸くした覚えがあります。これは個人的な感覚ですが、亡くなったというニュースによって急にファンが出てきたような印象があります。

80年代の人気

83年にデビューし、アルバム「十七歳の地図」をリリースします。中学校の同級生の女の子が、兄の影響でファンになっていました。その子に「尾崎豊って知ってる?」と言われたのが、私が名前を知った最初だと思います。「十七歳の地図」は中上健次の小説「十九歳の地図」のパクリなのは明らかで、お笑い芸人なのかと思った覚えがあります。

※十七歳の地図

なにせ時は1983年です。小学生気分の抜けない中学生にとってはアニメ映画「幻魔大戦」を見に行くか「クラッシャー・ジョウ」を見に行くかの方が重要でしたし、テレビでは欽ちゃんの番組とわらべが歌う「めだかの兄弟」が大人気でしたし、ちょっとませた音楽好きの間ではYMOが「君に胸キュン」というわけのわからない歌を出した方が衝撃でした。今のように流行がどんどん移り変わるような目まぐるしさもなく、テレビの影響が圧倒的に強い時代です。ゴールデンタイムのテレビに出ない人が、世間的に騒がれることは滅多にない時代でした。

ですからこの頃の尾崎豊には、もちろんファンも多くいたでしょうが、一般的にはさほど人気があったわけでも話題になったわけでもなかったと思います。後にデビューと同時に瞬く間に人気者になったような記述が溢れるましたが、この時の尾崎豊のデビューシングル「15の夜」はリリース時にはあまりヒットせず、もう少し後になってからヒットします。

人気が頂点だった85年

1985年にシングル「卒業」がオリコンチャート20位になり、歌詞が話題になって尾崎豊の名前が知れ渡ります。その余波もあり、次のアルバム「回帰線」が大ヒットしました。朝日新聞も話題を取り上げ、「卒業」の過激な歌詞について触れています。夜の校舎で窓ガラスを壊して回る歌詞について、多くの識者がさまざまな意見を述べていました。この1985年というのは、内閣府が出している「青少年白書」に「いじめ」という言葉が初めて登場した年でもあり、少年非行の戦後第3のピークと呼ばれている時期です。そんな時代に、この歌詞が議論を呼ぶことになったのです。

しかし尾崎豊自身がテレビに出ない方針だったため、大衆的な話題になったわけではなく、アングラなイメージがありました。86年には1度だけの限定放送で「早すぎる伝説」というドキュメンタリーが放送され一部では話題になっていましたが、深夜枠での放送だったため、これも一般的な話題に上ることはあまりありませんでした。同じクラスに尾崎豊のファンの女の子がいて、その子が熱心に「早すぎる伝説」の内容を話していましたが、その子以外は尾崎豊の名前は知っているという程度でした。

ジャパニーズ・ロックの1つとして尾崎豊は認知されましたが、当時そのジャンルではチェッカーズが怒涛の人気を得ていました。85年は「ジュリアに傷心」「あの娘とスキャンダル」などを始め、何曲もヒット曲を出しています。86年もチェッカーズの勢いは衰えることなく「ソング・フォー・USA」などのヒットがあり、当時は不動の人気を獲得していました。そして85年はレベッカの「フレンズ」が、中山秀征主演のドラマ「ハーフポテトな俺たち」に起用されて大ヒットを飛ばしています。以降、レベッカは90年の解散まで怒涛の快進撃を続け、女性ボーカルのロックバンドとして後の音楽シーンに多大な影響を与えました。


そして85年の日本のロックシーンで忘れてはならないのは、BOOWYが3枚目のアルバム「BOOWY」をリリースした年だということです。このアルバムでBOOWYは人気を獲得し、バンドをやるような少年らに強い影響を与えていきます。もちろんBOOWYもあまりテレビに出ていなかったので、お茶の間で話題になるようなレベルではありませんでした。実際にBOOWYがお茶の間レベルの話題になるのは、88年の解散コンサートの騒動がニュースになってからです。しかし85年や86年頃にも、音楽に敏感な少年少女の間でBOOWYは何度も話題になっていました。

そしてこの頃は、なんといっても世間ではアイドルの勢いが圧倒的でした。この頃、松田聖子は新曲を出せばオリコンチャート1位が定位置で、しかも新曲を3〜4ヶ月程度の間隔で出していました。さらに85年の松田聖子は郷ひろみとの破局と神田正輝との結婚という話題があり、芸能界のニュースを席巻した年でもあります。また85年は中森明菜も快進撃を続けていました。シングル「ミ・アモーレ」は85年の年間チャート2位の大ヒットナンバー(ちなみに1位はチェッカーズの「ジュリアに傷心』)となり、前年の「飾りじゃないのよ涙は」に続くモンスターヒットになっています。さらに85年は尾崎豊と同じく「卒業」という歌が発売されて大ヒットになっています。菊池桃子の4枚目のシングルが「卒業」で、こちらは85年の年間チャート11位に入っています。

こういった事情のため、85年に「卒業っていい歌だね」なんて話そうなら、ほとんどの人は菊池桃子の方を連想していた訳で、そういう時代に尾崎豊の「卒業」がオリコン週刊チャートで20位まで上り詰めたのは、大善戦だったと言えるでしょう。ただ忘れてはならないのは、85年に開催した尾崎豊のコンサートは3万人もの集客に成功していたという事実です。世間一般のニュースは松田聖子であり、中森明菜やチェッカーズが大人気でしたが、熱烈なファンを尾崎豊が生んでいたというのも紛れもない事実なのです。そして尾崎豊は86年には活動停止を宣言して、ニューヨークに渡っています。

その後

この後で話題になるのは、覚醒剤で逮捕されたことと斉藤由貴との不倫ぐらいでした。88年の結婚が話題になった記憶もありませんし、コンサートや新譜の発売も話題にはならなかったと思います。ところが91年にJR東海のファイトエクスプレスのCMに「十七歳の地図」に収録された「I Love You」が起用され、シングルカットされると大ヒットしました。

91年はストレートなラブソングがヒットする傾向にありました。小田和正の「ラブストーリーは突然に」、チャゲ&飛鳥の「セイ・イエス」、KANの「愛は勝つ」、槇原敬之の「どんなときも」などが年間チャートの上位にいます。こうした流れの中で、シンプルでストレートな「I Love You」が受け入れられる下地があったのかもしれません。

死の余波

不可解な死に方だったこともあり、事件か事故か自殺かと騒がれます。この話題に乗じて新譜や追悼板が次々とリリースされ、大ヒットになりました。私の記憶では85年の人気絶頂期よりも、はるかに死後の方が話題になっていました。追悼式には3万人以上が集まり、号泣するファンの姿が話題になります。思い入れの強いファンが攻撃的になり、軽い気持ちで「尾崎豊ってさあ」と語れない空気もありました。そしてこれでもかと関連商品が売り出され、追悼ビジネスが巻き起こりました。おそらく追悼ビジネスのスタイルが、この頃に出来上がったのではないでしょうか。

当時の私の感覚では、死んだら突然ファンが湧いてきたという感じでした。もちろん熱心なファンはいましたし、そういった人達が死を悲しむのもわかります。しかし社会現象になるほどの熱狂は生前にはなく、亡くなったことでうなされるようにファンを自称する人が出てきたように感じていました。

不良が尾崎豊を聴いていたという誤解

歌詞の過激さから、不良が好んで聴いていたという記事を目にすることがありますが、当時の不良は甘く繊細な尾崎豊を好んだわけではありません。もちろん好きな人もいたでしょうが、不良と呼ばれる少年少女の間でメジャーではありませんでした。少なくとも私の周囲で、学ランを改造したりリーゼントにしたり、学校内でタバコを吸って教師と追いかけっこをするような学生に尾崎豊のファンはいませんでした。喧嘩上等のヤンキー文化と繊細な心の揺れを歌う尾崎豊の歌詞は、相性が悪かったのです。

85年頃の不良の大定番は、なんと言っても中山美穂です。映画「ビー・バップ・ハイスクール」が85年に公開されると不良少年少女のハートを捉え、ヒロインで主題歌も歌った中山美穂はヤンキーのアイドルになります。そして暴走族に好まれたのは中森明菜でした。オートバイを改造してラジカセを載せ、明菜を大音量で流す光景があちこちで見られました。ファッションではチェッカーズの髪型を真似する人も多く、これらの人達が不良の人気を集めていました。

※ビー・バップ・ハイスクールの中山美穂

では尾崎豊を聴いていた人はどんな人達かというと、今とは比べものにならないくらい強い学校管理が行われていた時代に、反発心はあるものの反発しきれない人や、閉塞感を覚えて息苦しく感じでいた人達だったと思います。タバコを咥えてケンカをするような、苛立ちを爆発させるようなタイプではなく、もっと繊細で苛立ちを表現できないタイプの人達が、尾崎豊の詩に共感していたと思います。つまり不良少年とは正反対の人達で、今なら陰キャと呼ばれるような人達でした。

まとめ

尾崎豊は生存時よりも亡くなってからの方が、大きな話題になったように思います。そのため80年代の若者の教祖といった比喩には違和感を覚えます。尾崎豊が売れたのは85年前後の短い期間でしたし、熱狂的なファンがいたのは事実ですが、社会現象になったわけではありません。社会現象になったのは死後のことです。また不良が好んで聴いていたといった言質には、強烈な違和感を覚えます。

今も尾崎豊の歌が支持されているのは、十代特有の鬱屈した想いや苛立ちを捉えていて、琴線に触れる人がいるからだと思います。決して万人に支持されるものではないとは思いますが、歌詞の力を感じることもできます。そうであるがゆえに、歌詞の一部を切り取って不謹慎と騒ぐ昨今の風潮もどうかと思います。本でも行間を読めない人が増えたと言いますから、これは仕方のないことなんでしょうかね。


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