第2次バンドブームについて考える /BOOWYからイカ天まで

1980年代半ばから90年代前半にかけて起こったとされる第2次バンドブームですが、ウィキペディアの解説に違和感を持つ人が少なくないようで、掲示板やブログにさまざまな意見を見ることができます。私も80年代のバンドブームと、90年代のバンドブームは毛色が違い、同じ第2次バンドブームと語るのには抵抗があります。そこで、今回は第2次バンドブームについて考えてみたいと思います。



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60年代のエレキブームと終焉

60年代の日本では、空前のエレキブームが起こります。62年のベンチャーズの来日により、歌のないインスト曲でエレキギターを演奏するのがじわじわ人気になり、65年のベンチャーズの再来日でブームは頂点を迎えます。同じく65年には加山雄三主演の「エレキの若大将」が大ヒット、フジテレビの「勝ち抜きエレキ合戦」も人気番組へと成長していきます。しかしそんな加熱人気に、反対勢力が現れます。

1965年10月、栃木県足利市教育委員会は、小中学生のエレキギター購入や音楽イベントへの参加を禁止する、通称「エレキ追放令」「エレキ禁止令」を出したことから、新聞やテレビにも取り立たされて社会問題になりました。当時はデモを行ってゲバ棒で警官を襲うような学生もフォークギターで歌っていましたし、ロックミュージックそのものが反社会性を帯びていたので、エレキギターを使うと非行に走ると考えられたのです。評論家の細川隆元もエレキ亡国論を唱えるなど、全国でエレキギターを追放する動きが広まり、その動きが活発になっていきます。

しかしエレキ追放に呼応するように、今度はグループサウンズブームが訪れます。67年にデビューしたザ・タイガーズは高い人気を誇り、以前から活躍していたジャッキー吉川とブルーコメッツや、ザ・スパイダースなどが人気になりました。しかし上記のようにエレキ追放が加速していたため、グループサウンズのコンサートに行った学生を停学や退学処分にする学校が多くありました。このグループサウンズのブームは、60年代の終焉とともに終わりました。

バンドがアイドル化した80年代

この頃もロックバンドはアングラな存在で、大衆化とは相反するものでした。80年代にもスターリンや村八分など、過激すぎるパフォーマンスで話題のロックバンドは数多くありましたた。客席に放尿したり、ガソリンをまいたり、ステージで脱糞するなどを繰り返す彼らの過激なライブは、常に反社会的な雰囲気がありました。そのためいわゆる普通の学生や社会人には、ロックバンドは縁遠い存在でした。

※ステージで全裸になった遠藤ミチロウ(ザ・スターリン)

しかしサザンオールスターズのヒットなどから雰囲気が徐々に変わり、怖い存在だったバンドがアイドル化していきます。特にチェッカーズのヒットは、バンドのアイドル化を決定づけたと思います。84年に創刊された雑誌「PATI PATI」は、まさにアイドル化したロックバンドを紹介する媒体になっていきます。

85年から始まるバンドブーム

1985年にオリコンチャートに入り、人気ドラマの主題歌「フレンズ」で爆発的な人気を得たレベッカは、ヴォーカルのNOKKOのコケティッシュな可愛らしさとパワフルな声、「メイビー・トゥモロー」に代表される重厚なドラムのリフなど、バンドとしての魅力を十分に備えていました。

※レベッカ

さらに85年にリリースされたBOOWYのサードアルバム「BOOWY」がジワジワと人気を集めていき、86年には4thアルバム「JUST A HERO」が大ヒットして日本武道館でライブを行います。4人編成のシンプルなバンド構成で、メロディアスで耳に馴染みやすい曲調が多くの人を引きつけていきます。

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レベッカもBOOWYも重いギターリフなどは使わずポップな感覚のロックバンドで、歌謡曲ばかりを耳にしていた一般の人達にも強く支持されていきます。

メジャーレーベルのイロモノ

ソニーレコードは、メジャーレーベルながらイロモノバンドをデビューさせていきます。聖飢魔IIは、自らを悪魔と名乗るメタルバンドで、素顔がわからないほどメイクした顔にブラックメタル風の衣装で登場しました。コミカルな一面も見せる多芸さがあり、コミックバンドかネタバンドとして認知されていましたが、高い演奏力と歌唱力を備えていました。85年のデビューと同時に、その悪魔的な世界観で大人気になっていきます。

※聖飢魔II

爆風スランプは85年に「夜のヒットスタジオ」に出演すると、カメラを無視してスタジオを動き回ったり、カメラに乗ったり、火を放ったりとやりたい放題の振る舞いで、ユーモラスな歌詞をポップに歌うコミックバンドとして認知されます。しかし88年の「Runner」あたりから本格的なバンドとして認知され、客席にスイカを投げたり消火器をぶちまけなくても観客を盛り上げるバンドになっていきます。

※爆風スランプ

85年にデビューした米米クラブは、88年にアルバム「GO FUNK」をリリースすると、次々にヒット曲を連発しました。9人編成のバンドというのも異質なら、寸劇のようなステージやコントのような展開も多く見せる風変わりなもので、89年以降は爆発的な人気を誇りました。

※米米クラブ

このようにバンドブームは、メジャーレーベルからもイロモノと呼ばれるバンドを輩出し、バラエティ豊かな音楽シーンを作っていきました。

ガールズバンドの台頭

88年にスポーツ用品店ヴィクトリアのCMに「MY WILL」が使われたことから人気がではじめたプリンセス・プリンセスは、タイアップを中心に爆発的な人気を得ていきます。89年には日本武道館での単独公演を成功させると、ガールズバンドの代表格としてバンドブームを支えていきます。



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89年には昭和シェル石油のCMにSHOW-YAの「限界LOVERS」が起用されると大ヒットし、続いて「私は嵐」も大ヒットしました。SHOW-YAはプリプリに続いてガールズバンドのブームを牽引していきます。この人気は多くのガールズバンドを輩出しました。



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88年にはGO-BANG’S(ゴーバンズ)がデビューします。「チキチキバンバン」の主題歌を日本語で歌いヒットすると、「あいにきてI NEED YOU」がCMのタイアップで大ヒットします。「ガールズバンドはリズムセクションが弱いのでヒットしない」というこれまでの定説を覆し、ガールズバンドは一大勢力になっていきます。このブームは、87年から「NAONのYAON(ナオンのヤオン)」という、出演者やスタッフが全て女性というイベントが日比谷野外音楽堂で開催されるに至ります。

※ゴーバンズ

バンドブームから距離があったバンド

天才ギターリストの高崎晃を中心に結成されたラウドネスは、日本でメタルは売れないという定説を覆し、81年のデビューから快進撃を続けます。85年にはアルバム「サンダー・イン・ジ・イースト」をリリースし、全米アルバムチャートベスト100に入る快挙を達成しました。以降、アメリカで活動の時間の多くを費やし、日本のバンドがアメリカでも通用することを示しました。

※ラウドネス

83年にデビューしたストリート・スライダーズは、ライブハウスを中心にじわじわと人気を高めていき、87年には日本武道館でライブを実現します。第2期のローリングストーンズを彷彿させるツインギターを中心にしたシンプルなサウンドで、硬派なバンドとして熱狂的なファンを獲得していました。

※ストリート・スライダーズ

これらのバンドは、バンドブームに多くみられる歌謡曲テイストを8ビートに乗せるのではなく、本格的なサウンドを追求したため大衆人気は獲得できませんでした。ヒットするのは、日本人の耳に馴染んだ歌謡曲をロック風にしたものだったのです。しかしこの時期には、このようにヒットを意識しない本格志向のバンドも多く出現していました。

バンドブームの頂点

84年にデビューしたBARBEE BOYS(バービーボーイズ)は、87年には三ツ矢サイダーのCMにタイアップされると、90年頃までヒットを連発します。男女のツインボーカルという独特のスタイルで、歌詞が男女の掛け合いになるオリジナリティに溢れていました。

※バービーボーイズ

THE BLUE HEARTS(ザ・ブルーハーツ)は85年にデビューすると、すぐに熱狂的なファンを掴みました。ドラマのタイアップで全国的人気を得ると88年には海外ツアーも敢行し、90年にはアルバムもシングルもチャートで1位を獲得し、その人気はピークになります。3コードを主体とした8ビートの曲が多く、ギター初心者でも弾ける曲が多かったため、中高生のコピーバンドが大量に現れました。

※ザ・ブルーハーツ

84年にデビューしたTM NETWORK(ティーエム・ネットワーク)は、多くの歌手に楽曲を提供するものの自身のヒットとは無縁でした。しかし87年リリースした「Get Wild」が大ヒットし、瞬く間に人気を得ていきます。彼らはバンドというよりユニットという柔軟な姿勢で、ゲストミュージシャンをふんだんに取り込んでいきます。また当初はライブをやらないというコンセプトで活動しており、バンドブームの中に入れて良いか微妙な存在です。

イカ天ブーム

イカ天に関しては別に書いているので、そちらをご覧下さい。

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80年代と90年代のバンドブームの違い

80年代のバンドブームは、レベッカやBOOWYによって盛り上がったバンドブームによってメジャーレーベル主導のバンドブームだったと思います。もちろんこれらは90年代になっても続き、ユニコーンやThe BOOM、JUN SKY WALKER(S)などのブレイクに繋がります。

一方でイカ天ブームにより、従来のメジャーレーベルが発掘したバンドをレーベルが育てて味付けしてデビューさせるスタイルから、テレビ番組で人気者になったアマチュアバンドがそのままデビューするスタイルが出てきました。BEGINやJITTERIN'JINN、BLANKEY JET CITYなどはアマチュアとしてテレビに出て、そのままプロデビューすることになります。

このような違いがあるため、私は第2次バンドブームと言われても全く異なる派閥のように見えてしまうのです。

まとめ

80年代半ばから90年代前半にかけて、さまざまなバンドが出現して人気になりました。ここには書いていませんが、ビジュアル系もこの頃に始まっていて、まさに多種多様のバンドが存在しました。多様性は音楽のジャンルに限らず、売れることを目的に活動するバンドだけでなく、売れ筋からかけ離れたバンドまで存在する幅広さでした。

たまのメンバーは「自分たちの音楽が商業ベースに乗るとは思わなかった」と語っています。こうして商業ベースから離れた、好きな音楽を表現するという人達が出てきたのもこの時代の特徴です。その反対に音楽が好きというより目立つことが好きな人達が、音楽を人気者になる手段として積極的に利用する人達も出てきました。

第2次バンドブームは、日本のポップミュージックの多様性が花開いた時代だったと思うのですが、いかがでしょうか。


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