SHOW-YAとお友達だった人と80年代を語った

某メーカーで法人営業をしているTさんとお会いしたのは、オープンカフェでした。はちきれんばかりのお腹に首はアゴの肉によって埋没し、12月のオープンカフェで汗をかいていました。一見して強烈な印象を残すTさんですが、若い頃の写真がさらにインパクトがあります。頬骨が目立つ痩せぎすの格好良い風貌で、80年代に大人気だったSHOW-YAというバンドと一緒に写っているのです。


なんと若い頃は交流があり、何人かとは定期的に連絡したり会ったりしていたようです。そんなことから今日は80年代とSHOW-YAの話です。






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SHOW-YA(ショーヤ)とは

85年にデビューした女性だけのロックバンドで、当初はアイドルバンド的な売り出し方でしたが、途中から自分たちの好みであるハードロック路線になりました。

※デビュー当時のSHOW-YA

なかなか売れない時期が続きますが、89年に出したシングル「限界LOVERS」「私は嵐」などの大ヒットによって、一気にメジャーになります。91年にヴォーカルの寺田恵子が脱退し、喜屋武メリーやステファニー・ボージャスなどを迎えて活動しますが、失速感から抜けきれずに98年に解散しました。

80年代のバンドブーム

BOOWYの成功よりバンドブームが起こったと言われますが、80年代にもっともレコードやCDを売ったのはサザンオールスターズでした。BOOWYに憧れた少年たちが次々とバンドを結成し、サザンの成功でバンドは儲かると判断したレコード会社が新人バンドの発掘と売り出しをして、バンドがブームになります。

※3枚目のアルバムからブレイクしたBOOWY


84年にデビューしたレベッカとバービーボーイズは、女性ボーカルのバンドでも売れることを証明し、85年デビューの米米クラブはロックやポップスだけでなくファンクやニューウェーブまで手を広げつつ、ミリオンヒットを出しました。米米クラブはバンドというより、もはや楽団というか劇団のような大編成で、多種多様な内容が盛り込まれたコンサートを展開して新たなバンドの方向性を示しました。

※バービーボーイズ。男女のツインヴォーカルという珍しいスタイルでした。


86年デビューのプリンセス・プリンセスは、女性だけの編成で日本武道館をソルドアウトさせ、業界のイロモノだったガールズバンドの商品価値を一変させました。女性のバンドブームは、間違いなくプリプリから始まっています。

※女性ヴォーカルといえばパーソンズもいました。

87年にはザ・ブルーハーツは過去のものになっていたパンクをポップに歌って圧倒的な支持を得て行き、BUCK-TICK(バクチク)はビジュアル系と呼ばれるジャンルの先鞭となりました。89年にはTBSで「三宅裕司のいかすバンド天国」が始まり、この番組から多くのバンドがデビューしました。たま、ブランキー・ジェット・シティ、マルコシアス・バンプ、ジッタリンジンなどが、いか天出身のバンドです。


※いか天を見てバンドを始めた人も多くいました。




SHOW-YAの限界

85年にデビューしたSHOW-YAは、セールス的に苦戦が続きますが、作詞を外部に委託しだしてから売れ始めました。89年の「限界LOVERS」のヒット以降は、テレビ出演もライブ本数も飛躍的に増えていきます。同じガールズバンドのプリンセス・プリンセスにはメンバー5人それぞれにファンがいましたが、SHOW-YAはヴォーカルの寺田恵子に人気が集中していました。これが寺田恵子に大きな負担を与えたようです。

※男性のタイプは「チビ・デブ・ハゲ・ヒゲ」だそうです。

その一方で、バンドはアメリカ進出を目指していました。アメリカでコンサートも開き、好感触を得ています。この時の映像が一時期YouTubeに出ていたのですが、寺田恵子の英語の発音は聞き取りにくく、明らかに英語で歌うことに苦戦していました。後に英語だと感情を載せにくく、かなり苦しんだことを告白しています。日本ではSHOW-YAの人気は寺田恵子の人気とイコールでしたが、アメリカ進出を考えると寺田恵子がネックになっているのは誰の目にも明らかでした。

そんな中、寺田恵子はバンドの脱退を決意します。メンバーからは強く留意され、脱退を知ったファンには衝撃が走ります。当時はメンバーの確執とか、天狗になった寺田がソロになりたがったという話がまことしやかに報道されていましたが、ラストコンサートではメンバーが泣き出していますし、アメリカ進出のことを考えると、寺田は自分から身を引いたのだと思います。それに加えて寺田は過度なストレスから体調を崩していて、国内でやっていくことにも限界を感じていたようです。

※ステファニーがヴォーカルを務めた頃のSHOW-YA

寺田は一時期ソロとして活動をしますが、全ての仕事をやめてニートのようになった時期もあったそうです。精神的にかなり不安定だったのでしょう。後年、寺田はSHOW-YAを止めた理由を「飽きたから」と語り、ファンから批判を受けました。しかしこれは寺田なりのメンバーへの配慮なのだと思います。こうして寺田が脱退したSHOW-YAは失速し、解散に向かいます。ちなみに寺田が脱退した後、 SHOW-YAは北朝鮮に招かれてコンサートを開いています。ハードロックを始めて聴く北朝鮮の人達は、音の大きさに驚いて耳をふさいでいました。この時のヴォーカルはステファニーでした。

80年代の熱気

音楽の経験がなくても楽器を手にしてバンドを組めば、世界が変わるような幻想がありました。アメリカではMTVの放送が始まり、音楽とヴィジュアルを同時に流すことがブームになっていて、日本も刺激的な映像を音楽に乗せることが流行り、単に曲が良いだけでなく見た目の格好良さや面白さ、お洒落な雰囲気などが求められました。

※名曲が多いのに「グロリア」以外は知名度が低いZIGGY

その結果、多種多様なバンドがデビューして、玉石混交の様子になりました。ここに多くのバンドを挙げていますが、そのほとんどが90年代には解散していて、残っているのはサザンオールスターズだけになります。


90年代への布石

この激烈なバンドブームによって、レコード会社ではプロデューサーが不足してしまい、外部委託が頻繁に行われるようになります。レコード会社のプロデューサーの中には音楽家というよりサラリーマンの人も多く、プロの音楽家に任せた方が安価に良質なものができるということもわかってきました。これが90年代に小室哲哉や小林武といったプロデューサー全盛時代へとつながっていきます。またビーイングに代表される、バンドというより事務所主導のユニット編成で売り出す人たちも増えていき、一つの流れになっていきます。

音楽が死んだとさえ言われ、CDの売り上げた激減している現在からすると、80年代の熱気は異常なほど熱く、それを懐かしく思ってしまいます。


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