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はじめの一歩のボクシング技は本当に存在するのか?

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前からこの手の質問を受けることが多かったのですが、ブログに「はじめの一歩」のことを書いてから質問が増えました。そこで今回は作中に出てくる技はが実際にあるのか解説します。  実際に存在する技、作者の想像の技、名前は実在するけど描かれているのが創作の技など、さまざまなものがあります。 関連記事 なぜ「はじめの一歩」は現役ボクサーを虜にしたのか 亀田裁判と日本ボクシングコミッションの闇 フリッカージャブ   間柴了の得意技として出てきますが、これはボクシングで普通に使われています。真っ直ぐに突くジャブに対して、フリッカーはしならせて打つジャブです。  デトロイト・スタイルと呼ばれる左手を下げた構え(左利きの場合は右手を下げる)から、下げた左手をムチのようにしてジャブを打ちます。 ※間柴のフリッカージャブ デトロイトにあるクロンク・ジムに使う人が多く、特にトーマス・ハーンズという 5 階級チャンピオンのフリッカーが有名です。ハーンズは恐ろしく長いリーチからフリッカージャブを使って相手の動きを封じると、強力な右で相手を仕留めていました。対戦相手を失明させるほどの強打を持ち、ヒットマン(殺し屋)と呼ばれて対戦相手から恐れられていました。ハ ーンズの連打はヒットマンスタイルと呼ばれ、間柴のモデルになったボクサーです。   ※トーマス・ヒットマン・ハーンズ(右) デンプシーロール   主人公、 幕之内一歩 の必殺技として登場します。このデンプシーロールは作者の創作物で、元ヘビー級王者のジャック・デンプシーが使っていた本家本元のデンプシーロールとは完全に別物です。本家本元のデンプシーロールは、今日ではインファイトでさほど珍しい存在ではなくなっています。 ※デンプシーロール デンプシーが王座を獲得したのは 1919 年ですから、今では古典的な技術とすら言えます。小柄なデンプシーが、左フックを打った後に反撃をかわすためにウィービングし、再度左フックを打つので頭が 8 の字を描くように動いていました。   ※ジャック・デンプシー デンプシーは爆発的な強打でKOの山を築いた名チャンピオンで、「マナッサの殺し屋」の異名で知られていました。特に1919年に初めてヘビー級王座に挑戦した試合は

今ならセクハラになるだろう話 /新人Yとのやりとり

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15年ほど前のことになります。私が以前勤めていた不動産会社に、Yという女性が新卒で入ってきました。隣の部署で直接一緒に仕事をしたことはないのですが、人懐っこい女性で何かと話す機会がありました。長身の童顔で、やや天然ボケが入っているホンワカした女性です。そのYが入社し、初めて会話した時のことは明確に覚えています。 Yとの遭遇 朝礼で挨拶をしていたので、Yの顔と名前は知っていました。たまたまYの席の近くに寄った時に、Yはしゃがんでロッカーの書類を出そうとしていました。Yはしゃがんだまま「はじめまして」と言い、私は軽く挨拶して「気をつけろ、パンツ見えてるぞ」と言いました。Yは顔を真っ赤にして「申し訳ありません。以後気をつけます」と言いました。それで打ち解けたのか、Yはちょくちょく話しかけてきました。 Yの足癖の悪さ これ以降も全くYの足癖は治らず、何度か注意することになります。そのうち私が周囲に見えないように、しゃがんでいるYの前に背を向けて立つと「あれ?また見えてます?」と笑いだすありさまで、「見えてます?」「見えてるよ」というやり取りが普通になってしまいました。「足癖の悪さはどうにかならんのか?」と言うと「気をつけてるんですけど、気が緩んだ時に来るからですよ」と反省の様子はありませんでした。 Yの注文 昼休みに話していると、Yは「私がカワイイって言われる時って、バカにされていることが多いんですよ」と言い出しました。仕事ができないお嬢さん的なイメージで言われると言うのですが、Yは仕事ができないわけではありません。時々、強烈な天然ボケが炸裂するので、もしかすると仕事ができないと思っている人がいたかもしれません。 「カワイイがダメなら、なんて言われたらうれしいんだ?」 「えー、なんだろう・・・?」 「キレイとか?」 「あーー!!いいそれ!言って言って!」 もはや先輩と後輩の関係もあやふやな感じで、「いいから言って!」と耳に手を添えて催促します。会社の昼休みそんなことを言うのも恥ずかしいですが、あまりにしつこいので仕方なくYの耳に顔を近づけて「Yはキレイだよ」と言いました。 「ぎゃぁああああ!ささやかれたぁあああ!気持ち悪いーーー!!!」 と両手両足をバタつかせなが

日本テニス協会が変わった日 /改革の英断と次の飛躍へ

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世界ランキング4位という輝かしい実績を残した伊達公子は、引退と同時に子供テニススクールの重要性を痛感していました。海外の強豪のほとんどは、幼年期に才能を見出されて英才教育を受けています。日本では子供がテニスに触れる機会が少なく、才能を発掘する場がありません。「カモン・キッズテニス」は、伊達にとって日本テニスの未来を見据えた重要な企画でした。しかし日本テニス協会は、協力を求める伊達にあっさりとノーを突きつけました。 ※日本テニス協会名誉会長の眞子内親王 日本テニス協会の役割 1922年に「日本庭球協会」として発足したテニス協会は、日本のテニス大会を統括してきました。テニスが貴族のスポーツだったことから、皇室関係者にもテニスに熱心な方が多く、日本テニス協会と古くから親交がありました。 ※ウインブルドンでベスト4に入った日本人、清水善造 伊達の子供向けテニス教室の提案を聞いたある役員は、伊達にこう言い放ったといいます。我々の仕事は宮家の方々のお相手であり、子供に教えることではない。伊達は深く失望し、単独でスポンサーを募りながら全国を回って小学生以下の子供を中心にテニスを教えて全国を巡ります。 テニスブームの終焉 1990年代前半は、テニスブームともいえる状態でした。チケットが売り切れる大会が多くあり、会場はファンの熱気で覆われていました。しかし伊達公子や松岡修造といった人気選手が引退すると、ファンの足は急速に遠のいていきました。 ※96年ウインブルドン準決勝に挑む伊達とグラフ ※ウインブルドンベスト8に進出した松岡修造 特に男子は深刻でした。女子は伊達公子に続いて杉山愛や遠藤愛(まな)などが台頭してきていましたが、男子は松岡修造に続く選手が現れていませんでした。日本テニス協会は、テニスブームが起こったのではなく、松岡や伊達などワールドクラスで戦う選手のブームだったと痛感します。かつて数万人が炎天下の中で熱狂した東レ・パンパシフィックオープン、伊達がグラフを下して会場が破裂せんばかりの興奮に満ちたフェド杯でも、閑古鳥が鳴く有様でした。 改革の決断 改革が難しいのは、改革によって利益を得る人が見えにくいのに対し、不利益を被る人はハッキリしていることです。ワールドクラスの選手を育てるため

サッカーの西野朗監督は今もハンティングワールドのボストンバッグを使っているのだろうか

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サッカー日本代表監督に就任した西野朗氏は、ハンティングワールドのボストンバッグをいつも持っていました。柏レイソルの監督時代も、ボロボロになったボストンバッグを持ち歩き、ガンバ大阪時代には新調して新しくなったようです。西野朗氏のげん担ぎで、重要な試合にはハンティングワールドのボストンがそばにありました。 関連記事 日本サッカーが完全燃焼した97年を振り返る サッカー日本代表の歴史と事件簿 希望が消えたサッカー日本代表 /転換期を迎える日本 ジョホールバルの歓喜の裏側で 2002年 イタリア対韓国の憎悪 /世紀の大誤審と呼ばれた試合 監督の話題が多いロシアW杯 /代表監督の不遇 忘れてはならない中村俊輔の足跡 五輪代表監督就任 Jリーグブームが続く90年代に、西野朗氏はアトランタ五輪を目指す五輪代表監督に就任しました。当時は五輪出場など夢のまた夢という状態で、代表になにかを期待する人は少数でした。どうせアジア予選で終わると誰もが思う中でのスタートです。 全く期待されていないので、西野朗氏は自由にチームを作ることができ、協会の横やりなどは全くありませんでした。しかし協会からサポートを受けることもできませんでした。役員に電話しても繋がらず、何でもかんでも自前で行わなければならないストレスを溜め込んでいきます。 28年ぶりの五輪出場決定 サウジに勝てば五輪出場が決まるという局面に至っても、「どうせ負ける」という機運は変わりませんでした。テレビ中継もなくメディアの取材もありませんでした。Jリーグのチームは取材陣がついて回る中、日本代表は孤独な出発をします。 レフティモンスターと呼ばれたエースの小倉が怪我で戦線を離脱し、代わってキャプテンを務める前園も怪我を引きずっていました。満身創痍のチームは応援が全くないスタジアムで孤独なスタジアムで戦い、前園の2発で勝利を決めました。痛みで歩くのも苦しい中、スライディングタックルで敵の攻撃を防ぐ前園の姿に、キーパーの川口能活は涙が出そうだったと言います。 ※オリンピック代表の前園真聖と中田英寿 選手全員が泥臭いサッカーを行い、死に物狂いで五輪の切符を手にしたのです。 手のひらを返す人たち 28年ぶりの五輪出場が決まると、メディアも協会も手のひらを返したように

相撲は女人禁制という伝統は本当か

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4月4日に京都府で巡業中の大相撲の土俵上で市長が倒れ、心臓マッサージを始めた女性(救命士という話と一般客という話があります)に対し、女性は土俵から降りるようにアナウンスがあったようです。これを巡り、相撲の女人禁制に関して議論が起こりました。現場では土俵に女性がいると指摘した観客、場違いなアナウンスだと感じた観客の双方がいたようで、受け取り方は人それぞれのようです。 関連記事 相撲のかわいがりと米軍がシゴキを禁じている理由 貴乃花親方の改革に足りないのは宣伝力ではないか 日馬富士の暴行事件におもう 古代から女性は土俵に上がっていた 相撲の歴史は古く日本書紀にも登場しますが、ここでは女性が相撲をとっている様子が描かれています。また江戸時代には女相撲が流行し、特に盲目の男性と女性が行う相撲は大正時代まで行われていたようです。つまり土俵の上に女性が立ってはいけないというのは、かなり近年になってから決まったのです。一方で、江戸時代には女性が相撲を見に行くことが禁じられていたようですが、これは贔屓の力士が勝った負けたで観客同士のケンカが頻発していたため、安全性を考えて女性の観戦を禁止したという説もあります。 ※鎌倉山女相撲 ちなみに男女相撲が禁止になったのは、警察による取り締まりであり、相撲界が自ら禁止したわけではなさそうです。公衆の面前で裸の男女(当時の女性力士はまわしだけで裸だった)が抱き合う様子を見世物にするのは、「醜態ヲ見セ物ニ出ス者」として軽犯罪法による摘発が行われました。つまり裸の女性を見ることができて、それに男性が抱きつく姿をワイワイ騒ぎ立てながら見るという性風俗の商売だったと想像できます。その後、女相撲は着衣で行うことによって摘発されることはなく、しばらくの間続いています。 ※昭和11年の女相撲。服を着て行っているようです。 相撲は神事か見世物か? 明治3年に東京で出された「裸体禁止令」により、東京の力士はむち打ちなどの罰をうけています。さらに明治10年に大久保利通は、寺社仏閣の境内で見世物を行うことを禁じます。これにより東京都墨田区の回向院(えこういん)で相撲ができなくなりました。回向院は相撲の聖地であり、18世紀から相撲が行われてきました。大久保利通にとって、当時の相撲は神事でも祭事