ヤクザに堕ちた世界チャンプ /渡辺二郎の栄光と挫折

渡辺二郎は、日本のボクシング史に残る名チャンピオンあり、Jrバンタム級(現在のスーパーフライ級)の歴史を語るうえで重要なボクサーです。しかしいつしか山口組系暴力団の幹部として名を連ね、警察からもマークされるようになりました。日本中を興奮させ、Jrバンタム級の歴史を作った渡辺二郎は、なぜ逮捕が繰り返されるヤクザになってしまったのでしょうか。

圧倒的デビュー

22歳でボクシングを始め、24歳でプロデビューという遅いスタートを切ります。大学時代は日本拳法部に所属し、世界大会4位になっています。体重無差別で行われる渡辺二郎は、同じ体格なら誰にも負けないという自負がありました。そこでボクシングを始めることにしたのです。日本拳法で多くの試合を経験しているため舞台慣れしており、プロデビュー戦では新人離れした落ち着きと風格で圧勝し、デビュー戦を日本タイトルマッチにしても通用したと言われるほどでした。
※日本拳法はこんな感じの競技です。

デビュー数戦目の試合をテレビの解説席で見ていたガッツ石松氏は、インターバル中の渡辺がセコンドの話も上の空で、なにかを気にしていることに気がつきます。首を傾けている渡辺の視線を辿ると、ラウンドガールがロープをまたいでリングから降りるところで、渡辺はミニスカートの中が覗けないかと首を傾けていたわけです。

唖然とするガッツ石松氏の視線に気づいた渡辺は、照れ笑いを浮かべながら会釈しました。ガッツ石松氏自身も含めて、殆どのボクサーはデビューから数戦は恐怖や緊張、興奮のあまり周囲の声さえ聞こえないそうです。しかしデビューしたての渡辺は、対戦の恐怖ではなくラウンドガールのスカートの中が気になっていたのです。渡辺はまるでベテランのような太々しさとクレバーさ、そして強打を備えていました。

デビュー以来、圧倒的な強さで早いラウンドのKOで勝利を重ね、西日本新人王を獲得します。全日本新人王も獲得し、デビュー以来7試合連続KOで勝利しました。この7試合のうち、4試合が1RKOという圧倒的な強さでした。渡辺はパンチ力だけでなく、新人ではあり得ないほど冷静な試合運びで試合をコントロールしており、すでにベテランのような風格がありました。

ハングリーさがないという批判

圧倒的な強さを見せながら、渡辺二郎はボクシング関係者やメディアからの評価は低いままでした。その理由は大学を卒業していたからです。マンガ「あしたのジョー」的世界観が王道のボクシング界では、貧乏人でなければ戦えないと信じられていました。そんな中に大卒の渡辺は異質な存在で、どんなに勝っても「ハングリーさがない」と批判され続けます。「俺はタイトルに飢えている」と渡辺は事あるごとに口にしますが、メディアは辛辣な記事を多く掲載し続けました。

渡辺はこういった世界観を押し付けるボクシング関係者やメディアに、嫌気が差していきます。現在の自分の実力や実績を認めず、生まれ育ちで評価するボクシング界への反発心が膨らんでいきます。渡辺はこれまでの「あしたのジョー」のようなボクサーではなく、全く異なるタイプのボクサーになることを望むようになりました。

初の世界挑戦

デビュー2年目の11戦目にして、渡辺は敵地韓国に乗り込んで世界タイトルに挑戦します。これまで敵地で王座獲得に成功した日本人の例はなく、無謀な挑戦と言われていました。また渡辺を評価する関係者の間からも、もう少し経験を積ませてから世界挑戦をするべきだという声もありました。完全なアウェイでの試合で、観客全員が王者の金喆鎬を応援する中での試合でしたが、渡辺はかなり善戦します。しかし後半になるにつて手数を増やしてくる金喆鎬にポイントを奪われ、15Rの判定負けで王座獲得に失敗しました。

やはり大卒ボクサーの渡辺はダメだという声があがり、渡辺は失意の中で帰国します。ハングリーさがないから後半は手が出なかったと言われましたが、初の世界戦で韓国での挑戦という厳しい環境での試合でした。現在では果敢な挑戦だったとして評価されていますが、当時は攻めきれなかった渡辺の評価は決して良くありませんでした。それらに反発するように、渡辺は試合のスタイルを明確に変えていきます。ハングリーなスタイルと決別し、その正反対に向かおうとしたのです。

ニカラグアの貴公子に憧れて

渡辺はアレクシス・アルゲリョというニカラグアのボクサーに憧れていました。3階級を圧倒的な強さで制覇し、抜群のテクニックと強打を備えたアルゲリョの試合には優雅さがありました。アルゲリョに憧れた渡辺は、相手がダウンする寸前に追撃をせずに背中を見せてニュートラルコーナーに向かうようになります。倒し切れてなくて背中越しに反撃をもらうこともありましたが、かたくなにこのスタイルは続けました。

※アレクシス・アルゲリョ

さらに8割の力で勝てるとわかれば、8割の力しか出さないで勝つようになります。これらの渡邉の行為はボクシング界に不評でしたが、貧乏人のハングリーさを唯一絶対の価値としてとらえがちなボクシング界へのアンチテーゼだったと思われます。渡辺は闘争心剥き出しというより、クレバーさを前面に押し出したボクシングで世界タイトルを狙います。そして世界挑戦に失敗してから1年後、1982年4月にパナマのラファエル・ペドロサからWBAジュニアバンタム級(スーパーフライ級)のタイトルを奪取しました。プロ入り16戦目の試合でした。

統一戦の実現

渡辺は6度の王座防衛に成功し、そのうち5試合をKOで勝利しています。強敵を次々に撃破していくと強敵がいなくなってしまいまい、さらなる強敵を求めてWBC王者との統一選を望みます。パヤオ・プーンタラット(タイ)は、当時のJrバンタム級最強と目されていて、渡辺は自身が最強であることを証明するために対戦を熱望しました。しかし当時のWBAは15回戦なのに対し、WBCは12回戦というルールの違いがありました。パヤオ戦のリングに上がった瞬間に、渡辺のタイトルを剥奪するというWBAの勧告を無視して渡辺はパヤオとの対戦に挑みました。負ければ全てを失う試合です。

「足がのうなったら、どつきあいや!」

戦前に渡辺は珍しく熱くなっていました。そして大観衆が見守る中、苦しみながらパヤオに判定で勝利します。さらにダイレクト・リマッチが組まれ、パヤオを11ラウンドにKOすると、誰もが渡辺二郎を最強のJrバンタム級王者と認めるようになりました。ハングリーではないと不当な評価を受けていた渡辺が、自らの拳で世間に認めさせたのです。もう渡辺を大卒だからダメだと言う人はいません。批判派も手のひらを返して渡辺を称賛しました。



王座陥落

1986年、渡辺の通算12回目の防衛線の相手はヒルベルト・ローマン(メキシコ)でした。技巧派同士の静かな展開でスコアが読みにくく、僅差の展開が続きました。10ラウンドが終了した時点で、渡辺はセコンドにポイント差を確認します。セコンドに「2ポイントは勝ってる」と言われた渡辺は、残りのラウンドを流して試合を終えました。いつも通り、8割りの力で勝てる相手には8割りの力で勝つスタイルです。

「勝者、ローマン」

リングアナウンサーが告げた時、会場は静まり返りました。リング上では渡辺とセコンドが揉めています。渡辺は余力を残して負けました。「ポイントで負けているとわかっていれば、残りのラウンドは倒しにいけた」という渡辺と、ポイントを気にせず全力で行けば勝ててたと主張するジム側との間に深刻な亀裂が生まれます。

転落の始まり

渡辺には悔いが残り、さらに全力で戦わなかったことへの批判が渦巻きました。渡辺の王座統一によって沈黙していたかつての批判派は、再び手のひらを返してここぞとばかりに渡辺を批判しました。ジムとも仲たがいし、孤独な日々を送ることになります。そんな時に渡辺を支えてくれたのが、その筋の人達だったようです。全てを失い、大学を卒業したというだけで軽く見られ、ヤケになった時期に最も親身になって相談してくれる人の話に耳を傾けるのは当然でしょう。しかし渡辺自身にも、そちらの世界の資質があったのかもしれません。


※逮捕される渡辺二郎

ボクシングを諦めきれなかった渡辺は5年間も引退を宣言しませんでした。ジムに通って汗を流しますが、ジムは引退を勧めて試合を組むことはありませんでした。しかしジムに入門してきた中学を卒業してきたばかりの少年とスパーリングし、圧倒されたことで自分の時代が終わったことを実感します。以前から「ボクシングは負けた選手に冷たすぎる世界。最初からジムの選手を圧倒できるくらいの素質がなければプロを目指すのは考え直した方がいい」と言っていましたが、まさにそういう逸材に出会ったことで引退を決意したのです。

その少年は、一時はジムから逃げ出して放浪生活をしたりとトラブルがあるものの、89年にプロデビューする際には日本ランカーらも対戦を拒否するなど強さが際立っており、プロ入り4戦目で日本王座を奪取すると、8戦目で世界王座を獲得しました。その少年、辰吉丈一郎と初めてスパーリングをした時、渡辺は自分が圧倒されたこと以上にその才能を見抜いていて、時代が次に移ったと感じたそうです。

91年に引退を表明するとタレント活動を始めますが、95年に恐喝で逮捕、99年には自動小銃の売買に絡んで銃刀法違反で逮捕され実刑判決を受けます。この頃には大阪府警は渡辺二郎は暴力団の構成員と見ていたそうです。2007年には再び脅迫罪、そしてタレントの羽賀研二の詐欺事件に絡んで逮捕されています。2012年にも詐欺容疑で逮捕されています。今では暴力団の構成員として立派な顔になっていて、ボクサーだった頃の面影はありません。

まとめ

ヤクザになった経緯には本人の資質もあったでしょう。しかし渡辺二郎が不当に低い評価をされていたのも事実で、全力を出し切らないスタイルも不当な評価がなければ違ったスタイルになっていたでしょう。クレバーすぎて盛り上がりに欠ける試合が多かったですが、パヤオとの2連戦は本当に痺れる試合でした。渡辺が剥奪されたWBAタイトルの王者決定戦で勝利したのが、19回も王座を防衛して歴史に名を刻んだカオサイ・ギャラクシー(タイ)でした。カオサイは、渡辺と試合ができなかったことが心残りと繰り返し、後にエキシビションマッチで対戦が実現します。

あまりに残念な転身で、あまりに大きな損失のように感じます。現在の渡辺二郎は反社会的な人物であり、許されない行為を繰り返しています。一方でボクサーとして逆境の中でも真摯にボクシングに取り組み、大きな足跡を残した人物として私の記憶には残り続けています。


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