竹原慎二 /日本最強のミドル級チャンピオン

初めて見た竹原慎二の試合は、日本王座の防衛戦でした。リング中央でケンカのように相手を睨みつけ、試合では巧みに上下に打ち分けてKOする竹原の試合は、日本最重量級のミドル級というのを差し引いても、迫力がありました。竹原の試合はスリリングで、多くがKOで幕を閉じました。




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竹原慎二とは

1972年に広島県安芸郡で生まれた元プロボクサーです。中学時代は郡大会で優勝するなど柔道に打ち込んでいましたが、素行不良で暴走族に入っていたそうです。その粗暴ぶりは近所でも評判だったそうで、高校受験は全て失敗して働き始めます。しかし仕事も長続きせずに転々としており、見かねた父親が自身が経営するボクシングジムに入れています。

16歳の頃に父親の勧めで上京し、沖ジムに入門します。仕事も世話をしてもらい、内装業者で働きながらボクシングの練習を行いました。重いプラスターボードを担いで仕事をこなし、クタクタになってからボクシングジムでトレーニングする毎日を繰り返し、17歳でプロデビューを果たしました。デビュー戦を4RKOで勝利すると、東日本新人王トーナメントに出場します。東日本新人王を獲得すると、西日本新人王との対戦にも勝利して1989年の新人王に輝きました。

11戦目には日本ミドル級王座の奪取に成功し、16戦目には東洋太平洋チャンピオンになります。ハードパンチャーでほとんどの試合をKOで勝利し、東洋太平洋王座を6度防衛した後に世界挑戦が決まりました。この試合に勝利し、日本人初の世界ミドル級王者になり、歴史に名を刻みました。

怖かったと語る竹原

独特の広島弁で話し、まるでケンカのように相手を睨みつける竹原は、常に喧嘩上等のイメージで語られていました。暴走族に所属した過去に、ケンカに明け暮れて「広島の粗大ゴミ」と言われた少年時代のエピソードは、竹原をケンカ番長のイメージを定着させました。

※広島で不良時代の竹原

しかし試合はコンビネーションを活かした正統派で、試合後の振る舞いは紳士的でした。そして相手を睨みつけ、凄まじい殺気を出していた当時を振り返り、竹原は「怖かった」と語っています。人に迷惑をかけながらしか過ごせなかった少年時代があり、ボクシングを始めて大勢の人に認められるようになるのですが、負けたら全てが終わると感じていたそうです。

今応援してくれている人達は、自分が負けたら去ってしまうかもしれない。負けるのが怖かった竹原は断崖絶壁を背負ったような気持ちでトレーニングに励み、試合では命がけで相手を倒すという気迫に満ちていました。そのためリングに上がると相手を睨みつけ、何がなんでも勝つという気迫に満ちていたのです。

竹原の強さ

シンプルに上手い選手でした。特に攻撃に入った時の上手さが際立ち、強烈なボディブローでガードを下げさせて頭を狙う、セオリー通りの展開を基本にしていました。ボディブローは左右のどちらも強烈で、相手からするとわかっていてもガードが下がってしまう威力を持っていました。

さらに勝利への執着心も強く、強い相手に打たれ続けても、粘り強く相手のボディを叩いて動きを止める我慢強さがありました。東洋太平洋タイトルを6度防衛しますが、どれも圧巻の強さでした。特に6度目の防衛戦で韓国の李成天との試合では、激しい打撃戦を展開して8Rにダブルノックダウンという珍しいことも起こりました。両者はすぐに立ち上がって打撃戦を再開し、竹原が判定で勝利しています。当時私は竹原を見ながら、これほど強いミドル級ボクサーが日本にいたのだと驚いた記憶があります。

ミドル級という厚い層

竹原の強さは本物でした。メデイアが作り上げたケンカ番長のイメージとは違い、純粋にボクサーとしての才能が豊かで、スキルやパワーも高い水準にありました。だからなぜミドル級なのかと私は歯がゆい思いをしながら見ていました。せめて1階級下なら、まだ世界タイトルを狙えるチャンスもあるのに、ミドル級では世界王者になれないのです。

日本人でミドル級王座に就いたボクサーはいませんでした。約70kgの階級は欧米では選手層が厚く、世界挑戦すら難しいのです。そして当時のミドル級には怪物が何人もいました。竹原が東洋太平洋タイトルを守り続けている頃、WBCミドル級王座にはジェラルド・マクレランが君臨していました。

※ジェラルド・マクレラン

マクレランは左のボディ1発で相手をKOする爆発的なパワーを持ち、デビューから世界戦までほとんどの試合を1RKOで終わらせてきました。どんなに竹原のボディが強烈でも、マクレランの左ボディは次元が違いました。もし竹原がマクレランに挑戦しても、竹原は2R開始のゴングは聞けなかったでしょう。

このマクレランにジュニアミドル級(現在のスーパーウェルター級)でKOの山を築いたジュリアン・ジャクソンが挑戦して、激しい打撃戦の末にマクレランが勝利します。ミドル級に対戦相手がいなくなったマクレランは王座を返上してスーパーミドル級に行き、そこで不運なリング禍が起こって半身不随になってしまいました。そしてマクラレンが返上したミドル級王座の王座決定戦が行われ、ジュリアン・ジャクソンがミドル級王者になります。

しかしそのジャクソンは、初防衛戦でクインシー・テイラーにKO負けするという波乱が起こっています。このようにWBCではビッグファイトと波乱が続いていて、日本人が立ち入る隙間がないように思えました。

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そしてWBAにはホルヘ・カストロという曲者が君臨していました。30戦未満で引退する選手が大半という時代に100戦以上ものキャリアを持つ大ベテランで、ロイ・ジョーンズJrと戦って判定まで持ち込ませた試合巧者です。負けたとはいえ、デビュー以来17試合連続KO勝ちのジョーンズのKO記録を止めたことで、只者ではないことを証明していました。

当時、日本はWBAとWBCしか認定していませんでしたが、仮にIBFに挑戦できたとしても王者はロイ・ジョーンズJrでした。後にヘビー級王者にもなるジョーンズは、超人並みのフィジカルとスキルで異次元の強さを発揮していて、誰も彼に勝てるとは思えませんでした。

※ロイ・ジョーンズ・ジュニア

日本に素晴らしいミドル級の逸材が現れたというのに、世界王座はあまりにも遠く竹原がそこに届くことはありえないと思われていました。

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竹原の世界挑戦

しかしホルヘ・カストロの持つWBA世界王座への挑戦が決まります。東洋太平洋タイトルを6度も守り、コツコツと世界ランキングを上げてきた結果でした。しかしこの発表に盛り上がる人は皆無でした。多くの人が「どうせ負ける」と思っており、日本人がミドル級王座に就くなど夢物語だと考えられていたのです。

※ホルヘ・カストロ

竹原の世界挑戦は全国放送されることなく、関東ローカルで深夜に行われました。意気込む竹原の熱意に反比例するように、世間はこの試合に興味を示しませんでした。確かにカストロに勝てる可能性が低いのは事実です。それでもほとんど報じられないのは、なんとも気の毒に思えました。世界的なスターでもないカストロを日本に招き、誰も期待していない世界戦にメディアや世間は冷淡でした。

カストロは竹原を舐めていました。日本人のミドル級は雑魚だと思っていたとしても、それが当時の標準的な価値観でした。そして竹原は最初で最後のチャンスだと考えていました。だから一か八かの勝負に賭けるのではなく、いつも以上に我慢強く試合を進めます。どれほど打たれても我慢強くボディを叩き、カストロの体力を奪いながらダメージを蓄積させていきました。

3Rに竹原が得意の左ボディブローがカストロの腹に突き刺さると、我慢できずにカストロはダウンしました。104戦を戦いダウンしたことがない王者が、竹原のボディブローで倒れたのです。カストロはわざとマウスピースを吐き出して時間を稼ぐほど追い詰められ、予想を覆す番狂わせで会場は大興奮になっていきます。しかしベテランのカストロはダウンを奪われたことで従来の緊張感を取り戻し、老獪な試合運びで竹原の追撃から逃げ切ります。

会場中に竹原コールが起こる中、最後はどちらも譲らぬ打撃戦を展開して、判定で竹原が勝利しました。誰もが予想しなかった日本人初のミドル級王座に竹原が就きました。しかしこの時に、竹原は大きな代償を払っていました。

賑わう周囲と竹原の孤独

カストロ戦の直後から目に違和感を覚えていた竹原は、一人で焦っていたそうです。世間は日本人初のミドル級世界王者誕生に祝賀ムードに溢れていましたが、目にちらつく虫のようなものは次第に存在感を大きくしていて、距離感をつかむのにも苦労するようになります。

かつて広島の粗大ゴミと呼ばれ、人に迷惑しかかけてこなかった竹原を誰もが祝福してくれる中、選手生命の危機に一人震え、防衛戦で負けたら全てを失うという恐怖と戦います。そして世間の評価に冷めた目線も持っていました。当時のことを、こんな風に語っていたことがあります。

俺が世界チャンピオンだった頃、けっこうオンナが寄ってきたよ。分かりやすい肩書きだからね。で、オンナ達はみんな俺に「がんばって」って言うのさ。ま、そのまま世界チャンピオンでいてね、ってことだよな。でも、1人だけ「ボクシングなんか早く辞めて」っていうオンナがいたんだ。純粋に俺の身体を心配して。結果的にそれが今の女房なんだけどな。

竹原は目に爆弾を抱えつつ、それを誰にもいうことなく初防衛戦に向けて準備を始めました。目のことを打ち明ければ引退を迫られタイトルを失う、負ければタイトルを失うと思いつめ、黙って勝利するしかないと考えたのです。

初防衛戦

挑戦者のウィリアム・ジョッピーは、強豪でした。ジョッピーをプロモートするとドン・キングも来日し、竹原はレナードやバーンズといったスーパースターから激励のメッセージをもらいます。これまで日本人ボクサーとは無縁の世界だった世界的スーパースターが竹原の名前を呼ぶ姿は、竹原が日本人にとって前人未到の領域に踏み込んだことを示していました。

ジョッピーは黒人特有のバネと、独特のリズムで攻め立てる巧者でした。竹原の体調が万全でも苦戦は必至の相手です。そして竹原は、いつになく焦っていました。我慢強く相手のミスを誘ったり、わずかな隙を逃さずに連打を仕掛けるのではなく、強引に打ちに行って被弾します。

※ウィリアム・ジョッピー

視野が狭く、距離感が怪しくなっていた竹原は、得意のミドルレンジからクロスレンジでの戦いを捨てて、ジョッピーに体をくっつけようと無理な飛び込みを繰り返します。ジョッピーは冷静に竹原の突進をかわし、連打を叩き込むことを繰り返します。そして9Rに連打を浴びてフラフラになったところでレフリーは試合を止めました。竹原は王座を陥落しました。試合後に網膜剥離が発覚し、そのまま引退になりました。

引退後

引退会見では明るく「今後は芸能界の仕事をしたい」と語っていましたが、テレビからのオファーが来ることはなく、日焼けサロンでアルバイトをしながら生計を立てていました。すると1年ぐらい経った時に、テレビのオファーが来るようになります。「真面目に頑張っていたら、見てくれている人は必ずいる」と、今でも竹原は強く語ります。

一時期はK-1からのオファーなどもあり、かなり悩んだそうですが、自身の健康と家族のことを考えて拒否していました。そうして念願のテレビの仕事を得たわけです。TBSのバラエティ「ガチンコ ファイトクラブ」で人気を得た竹原は、番組で共演した畑山隆則と共同でボクシングジムを開設し、健康器具の会社、レストランなどを経営しながらテレビへの出演もこなしています。膀胱癌で一時は心配されましたが見事な復帰を遂げて、今も会社経営と芸能界の仕事をしています。

※美人ボクサーの伊藤沙月を前にデレデレの竹原

竹原の評価

ウィリアム・ジョッピー戦は、竹原にとって初の全国中継だったにも関わらず、視力を奪われていたため試合内容としては悪く、しかも負けたために「竹原は大して強くない」という印象を持った人が多数いました。また目が見えにくいので、あえて打たせて相手を呼び込んだことで打たれる場面が多く、ボクシングが下手と思っている人もいます。これはとんでもない誤解で、とても残念なことです。

広島の喧嘩屋的なイメージが強いのですが、巧みなコンビネーションを持ち、我慢強く、チャンスを逃さずに攻め込める集中力があり、極めて純度の高いボクサーでした。気が遠くなるほどの量を走り込み、何万回何十万回とパンチの反復練習しなければ、これほどの戦い方はできないと断言できる、鍛え上げられたボクサーです。

竹原に勝利したウィリアム・ジョッピーは、後にフェリックス・トリニダードやバーナード・ホプキンスといったスーパースターと対戦し、ミドル級王座を3回獲得します。その中で最もパンチが重かったのが竹原だと言っていました。竹原は世界的な強豪と渡り合えるかもしれないポテンシャルを秘めていたのです。

まとめ

村田諒太がミドル級世界王座に就いた時、日本人として2人目のミドル級王者と紹介されていましたが、異を唱える人もいました。村田が獲った王座はWBA正規のミドル級王座でしたが、その上にはスーパーチャンピオンのゲンナジー・ゴロフキン がいたからです。しかし竹原の時代は、WBAミドル級王者は1人しかいませんでした。ベルトの重みが違うというのです。

その議論はともかく、日本人がミドル級王座に就くなどマンガの世界でしかありえなかったことを実現し、日本のボクシングに新たな道を切り開いた功績は大きいと思います。現在は、その功績よりもテレビで愛想の良いタレントのように思っている人が多いのが、少し残念です。


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