以前、リング禍が起こった悲劇的なボクシングの試合として、ジェラルド・マクレラン対ナイジェル・ベンの話を書きましたが、レイ・マンシーニ対金得九(キム・ドゥック)の試合はリアルタイムではなく、数年後に見ました。しかし結果を知らずに見たので、これほど悲劇的な結末を迎えるとは思いませんでした。後味が悪い試合で、ボクシングの世界戦が15ラウンド制から12ラウンド制に移行するきっかけになった試合です。
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レイ・ブンブン・マンシーニ
1961年にオハイオ州で生まれたアメリカのボクサーです。79年にプロデビューし、81年にライト級世界王者のアレクシス・アルゲリョに挑戦するも、14回負けで王座獲得に失敗します。82年にプロ24戦目でWBA世界ライト級王座を獲得し、出入りが激しくパワフルな戦い方から「ブンブン」(旋風などの音を意味する)と呼ばれ、その陽気なキャラクターもあって人気のボクサーでした。
金得九
1955年に韓国で生まれたプロボクサーで、幼いころに父を亡くし母親が再婚を繰り返す影響で、学校にも満足に行けない少年時代を過ごしました。78年にプロデビューすると、80年に韓国ライト級王座を獲得し、82年には東洋太平洋タイトルを獲得しました。東洋太平洋タイトルは3度防衛し、マンシーニの持つ世界タイトルに挑戦しました。
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※計量を行う金と覗き込むマンシーニ(右) |
魔の13ラウンド
12ラウンドが始まる時、金のグローブのテーピングが剥がれていたため、レフリーは巻くようにセコンドに指示します。露骨な時間稼ぎが必要なほど、金は体力的に尽きていました。13ラウンドではマンシーニはニックネームのブンブンの通り、スピーディな回転力を活かした打撃で金を追い詰めていきます。金は立っているのがやっとというほど疲れ果てますが、それでも終盤には反撃を見せ、勝利への強い執念を見せます。金の盛り返しは見事ですし、その執念には驚かされました。
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※13Rにダウンした金 |
しかし13ラウンドの打撃戦で、金は力尽きていました。14ラウンド開始早々に、マンシーニの右ストレートが金を捕らえ、後ろに倒れました。金はロープの最下段で後頭部を打ち、さらにキャンバスに後頭部を打ちつけました。しかし執念で金は立ち上がり、なんとかガッツポーズをとりますが、レフリーは試合をストップしました。がっくりうなだれる金の横で、歓喜するマンシーニは観客の声援にこたえていました。コーナーに戻った金は意識を失い、医者が治療を施しますが、すぐに救急車が呼ばれました。金は意識を失ったまま、タンカでリングを降りました。
悲劇の連鎖
金は脳内出血が激しく、緊急手術もむなしく植物状態になりました。病院で号泣する母親の姿をメディアが大きく取り上げ、悲惨なリング禍に対して管理責任を問う声も出てきました。回復の見込みがなく、医者の勧めもあり、母親は金の生命維持装置を外すことを選択し、金得九は亡くなりました。母親は泣き崩れ、多くの人の悲しみを誘いました。しかし悲劇はここで終わりませんでした。
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※担架で搬送される金 |
3か月後に母親が身を投げて息子の後を追いました。韓国は悲しみに包まれ、アメリカにも衝撃が広がりました。リング禍だけでも十分悲惨すぎる出来事ですが、母親の後追いにボクシング界は揺れます。そして批判はレフリーに向かいました。レフリーを務めていたリチャード・グリーネは、試合を止めるのが遅すぎたという批判にさらされ苦悩します。深く傷つき大きな責任を感じたグリーネは、自身の命を絶ってしまいました。この異常事態にボクシング界は大きな悲しみに包まれ、改革を行う必要性に迫られました。試合はWBAの王座をかけて行われましたが、先にWBCが動きました。
世界戦の12ラウンド制へ
WBCは死亡事故が13ラウンド以降に起こることが多いというデータを元に、世界戦を12ラウンドにすることを発表しました。しかしWBAは12ラウンドにすることの科学的根拠が乏しいと反論し、これ以降は世界戦が15ラウンドのWBAと12ラウンドのWBCが行われるようになります。確かに「魔の13ラウンド」と呼ばれるように、13ラウンド以降に逆転劇が多く起こります。しかし今日までのボクシングを振り返ると、12ラウンド制にしたことでどれほど安全面で効果があったかは疑問が残ります。
それでもいち早く安全面に対応策を打ち出す必要があり、レフリーによる早めのストップを推奨する以上にラウンド数を減らすというのは誰の目にも明らかな変革なので、世間にアピールする意味では大きかったのでしょう。
その後のマンシーニ
勝ったマンシーニも深い傷を受けました。韓国からは批判の声が届き、なにか罪滅ぼしができないか考えたマンシーニは、金の母親の婚約者と称する男に会います。自分にできることはないかと言うマンシーニに、男は車が欲しいと言いました。韓国では数台しか走っていない数千万円もする高級車で、マンシーニはその車を贈りました。その後、男とは連絡が取れなくなりました。車を売って金に換え、そのまま姿をくらましたのです。
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※リビングストン・ブランブル戦 |
こうしたゴタゴタが続く中、マンシーニのパフォーマンスは明らかに落ちていきました。以前のようにパワフルな打撃戦が身を潜め、迫力のない試合展開になってしまいました。5度目の防衛線でリビングストン・ブランブルに14ラウンドKO負けで王座を失うと、再戦でも負けて引退しました。4年後にJrウェルター級(現在のスーパーライト級)で復活し、ヘクター・カマチョと対戦しますが、かつての輝きはありませんでした。
リング禍の原因
試合が行われた場所はラスベガスで、砂漠に中にある街です。昼間は暑く夜は凍えるように寒い砂漠の気候で、試合はまだ日中に行われました。両者は体力を削り取られ、続く打撃戦に耐力を消耗していました。絶え間なく打ち合う両者にダメージが蓄積していき、特に金のダメージはラウンドが進むごとに蓄積しているのがわかります。
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※危険なダウンした金。既に脳内出血を起こしていました。 |
今日の基準なら途中で止められていると思いますが、金は連打をもらうと打ち返すのでレフリーとしては止めにくい状況でした。金は何度もダウン寸前まで追い詰められ、その度に勝利への執念を見せて打ち返していました。金の驚異的な粘り強さが、事故の原因の1つになってしまったと言えるでしょう。
まとめ
試合はとても面白く、金の驚異的なタフネスと執念が光りました。しかし強打者でキャリアのピークにあったマンシーニとの実力差は大きく、途中からほとんど勝ち目がなくなっていたのは誰の目にも明らかでした。レフリーは試合を止めなかったことを責められましたが、強打を連打されても金は打ち返しているので止めるタイミングが難しかったのも事実です。それに加えて、レフリーのリチャード・グリーネは以前からストップするのが遅いタイプでした。この試合はボクシングが危険だという世間のイメージを決定的にした悲劇でした。
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