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8月, 2019の投稿を表示しています

コールドスチール /登山からゾンビの襲来まで備えるメーカー

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1980年にリン・トンプソンによって設立された刃物メーカーの コールドスチール は、本格的なアウトドアに使えるものからゾンビが襲来した時にしか使えそうにないものまで作っている変なメーカーです。パフォーマンス大好きな名物社長の存在もあり、いかにもアメリカの企業といった感じです。今回は、コールドスチールの一風変わった商品を紹介したいと思います。 ナイフ関連記事 ガーバー社のナイフの世界 /使い勝手と安さで人気 スパイダルコのナイフを紹介 /機能性を追求したナイフ モキナイフの美しさ /グローリーの紹介  オピネルのナイフ入門 リン・トンプソン とにかく目立ちたがり屋で、テレビやwebに顔を出してはパフォーマンスをしています。さらにあちこちのイベントにも出没し、愛嬌のある笑顔とメタボ気味の体型でマスコット的な存在にもなっているようです。肉やロープや人体模型を自社の刃物でバッサバッサと切り刻み、どや顔で自社製品の素晴らしさを語る様は中二病をこじらせたまま大人になったオッサンそのもので、これだけ見ると痛いメーカーのように見えます。 ※この人が社長です。 ところがリン・トンプソンは、中二病をこじらせただけのオッサンではなく、アメリカの大自然でアウトドアを楽しむ人々からも支持を得る製品をいくつも作り出していることから、アウトドアメーカーとしても一定の地位を確立しています。真面目な人がふざけているのか、ふざけた人に凄い才能があったのかわかりませんが、トンプソンの作る製品にはアウトドアユーザーに支持されているのです。 ちなみに日本が好きなようで、手裏剣の猛練習をして今では名人級らしく、商品名にはタントー(短刀)、サンマイ(三枚)など日本語が多く見られるのも特徴です。 ゾンビ用?中二病こじらせ系? トレンチホーク 第一次世界大戦では、トレンチ(塹壕)戦が行われました。その際にトレンチ内で白兵戦になる場合があり、斧は道具兼武器として用いられています。その後、斧はベトナム戦争で支給された記録がありますが、それから廃れていきます。しかし21世紀に入り、アフガン戦争などではドアを壊して住宅内に入ることが増え、再び斧が兵士に支給されるようになりました。 Cold Steel/コールド

高橋尚子バッシング /金メダリストを襲った不運

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2000年のシドニー五輪で、日本陸上競技として64年ぶり、日本の女子陸上としては初の金メダルを獲得した 高橋尚子 は、人気の絶頂にいました。Qちゃんの愛称とともに連日のようにテレビ取材に追われ、イベントに呼ばれる毎日を送ります。国民栄誉賞を受賞すると報道はさらに過熱し、テレビで見ない日はないと言われるほどでした。そこに女性週刊誌が「高橋尚子って何様?」と批判記事を載せました。高橋尚子バッシングの始まりです。 以前書いたフィギュアスケートの安藤美姫のバッシングとは違い、大会で好成績を出している中での突然のバッシングだったことが高橋尚子バッシングの特徴でした。そしてバッシングは日に日に大きくなっていくのですが、その内容はこじつけのような話ばかりでした。 関連記事: 安藤美姫 /翻弄され嫌われ続けた女王 批判を展開するメディア 週刊誌とテレビのワイドショーを中心に展開されたバッシングは、私の覚えている限りでは以下のような内容でした。 1.シドニー五輪のレース中に、スポンサーロゴが入ったサングラスを投げ捨てる不遜な態度。スポンサーに失礼。 2.人気が出たことでいい気になり、太りすぎてもう走れなくなっている。 3.全身をブランド物で固めている。 4.テレビに出るのを控えるように注意する小出監督に反発している。 他にもありましたが、こんな話が中心だったと思います。そしてこれらの批判は、事実とは全く異なるものでした。 事実は以下の通りです。 1.サングラスはスポンサーの提供ではなく私物で、小出監督からゴールの時にお客さんに顔が見えるように、途中で投げるように指示されていた。家族に拾ってもらうように事前に話しており、家族に向かって投げたが先導車に当たってしまった。 2.オフの間に好きなものを食べて太るのは、これまでにも繰り返してきたこと。ストレスを解消し、次のシーズンに向けて体を作るために、シーズン中のような節制をやめただけ。 3.そもそも社会人が、自分の給料で何を買って着るかは自由。公の場に出ることが増えたため、普段より奮発して少し高い服を着ていた。 4.加熱する取材により、高橋尚子がオフの間に十分に休めないのではないかと小出監督は心配していた。高橋がテレビに出ることよりも、どこに行ってもカメラがついてくることを懸念していた。

ノニト・ドネア /井上尚弥の対戦相手はどのくらい強いのか

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WBSSバンタム級の決勝戦は、11月7日に埼玉スーパーアリーナで行われることが決定しました。井上尚弥とノニト・ドネアの決勝戦は、もう井上尚弥の勝利が決まっているような雰囲気で、井上尚弥の次の対戦が予想される有様です。しかし井上尚弥が圧勝すると予想する人の中に、ドネアの試合を見たことある人がどれだけいるのか疑問です。ドネアは楽に勝てる相手ではありません。これまで井上尚弥が戦ってきた相手の中では、間違いなく最強のボクサーです。 関連記事 ・ 井上尚弥が参戦するWBSSとはなにか ・ 衝撃のKO劇 /井上尚弥の強さとは ・ 井上尚弥のパウンド・フォー・パウンドを考える ・ 井上尚弥は何が凄いのか改めて整理する ・ 亀田裁判と日本ボクシングコミッションの闇 フィリピンの閃光 フィリピンのスーパースター、マニー・パッキャオの弟分のように言われることの多いドネアは、これまでにフライ級からフェザー級までの5階級で世界王者になり、主要4団体のチャンピオンベルトを11本も持っています。このようなベルトコレクターは、可能な限り弱い相手を見つけてタイトルマッチを繰り返すことが多いのですが、ドネアは兄貴分のパッキャオと同様に強い相手を求めてきました。 特にフライ級王座を奪ったビック・ダルチニアン戦では、ラスベガスの賭け率が7:1という圧倒的に不利と思われた試合でした。この試合でドネアは強打で王者を圧倒し、TKOで王座を手にしています。フィリピンの閃光と呼ばれるスピードに加え、爆発力のある強打を持つのが特徴で、何人ものボクサーを倒してきました。井上尚弥と同様に強打が持ち味で、しつこいボクシングをすることでも有名です。とにかく速く、軽量級離れしたパンチ力を武器に、王座を次々と獲得してきました。 日本が大好き 日本のマンガが好きで「スラムダンク」「はじめの一歩」「ドラゴンボール」などをお気に入りに挙げています。特に「はじめの一歩」は熱心なファンで、作者の森川ジョージを訪問したこともあります。主人公の幕の内一歩が使うデンプシーロールを研究しているなど、熱く語っていたこともあります。 ※森川ジョージとの2ショット そもそも日本に興味を持ったきっかけは、アニメ映画の「獣兵衛忍風帖」だったそうで、そのためかサムライに強い関心を示しています

利益追求の悲劇 /ホテル・ニュージャパン火災は人災だった

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赤坂の一等地に構えたホテル・ニュージャパンは豪華な雰囲気が人気のホテルでした。1982年2月に火災を起こし、33人の犠牲者を出しました。この火災は利益ばかりを追求した経営者による人災であり、被害を最小限にとどめるべき経営者が被害を最大化させた痛ましい事件でした。今回はこのホテル・ニュージャパン火災を振り返りたいと思います。 関連記事 実在のタワーリング・インフェルノの記憶 /大洋デパート火災のトラウマ 火災の発生 938号室に宿泊していたイギリス人男性が、酔っぱらって寝タバコをしていました。そのタバコが布団に着火し、ぼやが発生しました。焦げ臭い臭いに起きたイギリス人男性は、慌てて毛布で火を消火します。完全に消火したと思い再び寝てしまいますが、火種は残っており毛布から出火しました。このイギリス人男性は焼死しています。 従業員が9階に行くと、焦げ臭い臭いがしました。ノックをしても返事がないため鍵を使って中に入ると、ベッドや壁が炎に包まれていて火災が発生していました。従業員は慌てて消火活動を行いますが、消防への通報も館内放送もしませんでした。ぼやが発生したことで、社長の逆鱗に触れることを恐れたのです。ホテルの従業員は誰一人消防に通報しませんでした。 ホテル・ニュージャパンの歴史 元は日本料亭があった場所で、戦争による爆撃で料亭はなくなっていました。土地を取得した藤山コンツェルンは、高級アパートメント(今のマンション)を建設する予定でしたが、東京オリンピック開催が決まると宿泊施設が足りなくなり、急遽ホテルに変更されました。この急な変更により、ホテルとしては複雑なつくりのため宿泊客が迷子になりやすいホテルになっていました。 1960年にホテル・ニュージャパンは開業しますが、軟弱な地盤の地盤改良に費用がかかり、当初から赤字経営でした。さらに藤山コンツェルンは食品会社が母体であり、ホテル経営のノウハウがありませんでした。そのためホテル・ニューオータニやホテル・オークラ東京など同時期に開業したホテルより、経営的に苦戦を強いられます。赤字で始まり赤字が続くホテル・ニュージャパンは、東洋郵船の横井英樹が経営することになり、横井は徹底した財務改善を行います。 利益最優先の経営手法 横井はギリギリまで人件費を削ったため、ホテルは慢性的な

ジェラルド・ゴルドーは凶暴なのか紳士なのか

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先日、お会いした方から ジェラルド・ゴルドー の名前が出てきて、懐かしく思いました。空手家でキックボクサーで、日本ではプロレスラーとしても知られるゴルドーは、その凶暴さで悪名を轟かせました。そのゴルドーは実際に会うと紳士的で、空手着姿を着た小学生の息子さんにちょっかいを出して笑う無邪気なおじさんだったそうです。今回は198cm 100kgの巨体で、反則を犯しまくって悪名を轟かせたオランダ人の話です。 関連記事 UFCでの日本人の成績はどうなのか エメリヤーエンコ・ヒョードル /UFCと契約しなかった最強の王者 総合格闘技でもっとも稼いだ男 /コナー・マクレガーのカリスマ性 時給1500円の世界王者 /スティーペ・ミオシッチが愛される理由 ジョン・ジョーンズというダメ男 /転落が生んだ喪失感 寝技最強の男ハビブ・ヌルマゴメドフはどうなるのか? フリースタイルは最強なのか? /マックス・ホロウェイ 堀口恭司の苦悩 /UFC世界王者に最も近づいた日本人 世界最強のオタクはナイスガイ /ジョシュ・バーネットは殴れない? PRIDE神話の終焉 /ホドリゴ・ノゲイラはなぜ負けたのか ヴァンダレイ・シウバはどれくらい強かったのか なぜミルコ・クロコップはアメリカで勝てなかったのか アリスター・オーフレイム /薬物疑惑を超えて マーク・ハント /愉快で勇敢なサモアン UFCの動乱 /ミオシッチ対コーミエ戦の衝撃 総合格闘技に最適なバックボーンは? /UFCを見ながら考えてみた UFC王者がボクシング王者に挑戦する 高田延彦がヒクソン・グレーシーに負けた日 オランダの母子家庭育ち 1956年のオランダに6人兄弟という子沢山の家庭で育ち、11歳の時に父を亡くしたゴルドーの家庭は貧乏だったそうで、12歳の頃から肉体労働をして家計を助けていました。学校にはあまり行かずアルバイトを中心に生活し、路上で恐喝などもしていました。全ては生きるためだったと本人は語ります。 やがてアジア系の友人を通じて空手に出会い、道場に通うことになります。そこで日本人に2回挑んで2回とも負けてしまったことで、ゴルドーは真剣に稽古をするようになりました。従来の運動神経の良さも手伝い、そこからメキメキと腕を上げていきました。1984年には、極真会館の第3回世界大会で来日