ドクターマーチンを履いた有名人達
ドクターマーチンのブーツが、ここ何年か復活してきています。街で見かけることも増えましたね。売れてきたせいか、エアクッションソールのため歩きやすいとか疲れにくいという宣伝文句に反して、かなり重くて疲れてやすいなんて声も聞こえるようになりましたが、もともとがワークブーツなので、スニーカーみたいに気楽に履ける靴ではないと思います。今回はドクターマーチンの紹介というより、これまで履いてきた有名人を紹介したいと思います。
マーチンはゴムを使い、空気が入ったエアクッションソールを作ると、それを使ってプロトタイプの靴を完成させました。第二次世界大戦が終わると、マーチンはその靴を製造して販売しますが、そのビジネスはあまり成功しなかったようです。しかし同級生だった機械技術者のハーバート・フランクに見せると、2人はビジネスパートナーになりました。2人が軍の廃材や余剰物資を利用して1947年に生産を始めると、主婦や年配の女性の間でクッション性の高い靴は人気になっていきました。最初のドクターマーチンの主な顧客は、40歳以上の女性だったのです。
2人はビジネスを拡大するため、ヨーロッパ中に宣伝しようと画策します。エアウェアと名付けられたマーチンとフランクの靴が、各国で宣伝されるようになると、イギリスのグリッグ社がその広告を目にします。グリッグ社はノーザンプトンシャーに1901年に設立された靴会社で、頑丈なワークブーツを作る家族経営の会社です。
グリッグ社はエアウェアのライセンスを取得すると、かかとを調整してフィット感を向上させ、特徴的な黄色いステッチを導入しました。さらにエアクッションソールにエアウェアの名前を刻むと、靴のブランド名を変更しました。この画期的な発明を行ったマーチンに敬意を込めて、ドクターマーチンと名付けます。1960年にドクターマーチンの1460が販売されました。
※1460
1460は8アイレットの編み上げブーツで、1年後には3アイレットの1461を製造します。ドクターマーチンは、工場労働者、郵便配達員、警察官などに強く支持されるようになると、スキンヘッズなどのサブカルチャー文化にも受け入れられるようになります。イギリスのミュージシャンも愛用し、70年代にはパンクのファッションアイテムになっていきました。ドクターマーチンは、イギリスの労働者階級のシンボルになっていきます。
※1461
またザ・フーのアルバム「トミー」を映画化した際には、エルトン・ジョンがピンボールのチャンピオンを演じ、巨大なドクターマーチンを履いて「ピンボールの魔術師」を歌いました。映画の中でも印象的なシークエンスとなり、ドクターマーチンが労働者階級のシンボルであることを再認識させられました。
ドクターマーチンの歴史
ドイツ軍の兵士だったクラウス・マーチンは、1945年の休暇中にスキーで足を骨折してしまいました。治療とリハビリを重ねる中で、マーチンは軍が支給する靴は怪我をした足には全く向かないことに気づきます。当時の靴は革底が主流で、硬い靴底が怪我をした足には辛かったのです。マーチンはゴムを使い、空気が入ったエアクッションソールを作ると、それを使ってプロトタイプの靴を完成させました。第二次世界大戦が終わると、マーチンはその靴を製造して販売しますが、そのビジネスはあまり成功しなかったようです。しかし同級生だった機械技術者のハーバート・フランクに見せると、2人はビジネスパートナーになりました。2人が軍の廃材や余剰物資を利用して1947年に生産を始めると、主婦や年配の女性の間でクッション性の高い靴は人気になっていきました。最初のドクターマーチンの主な顧客は、40歳以上の女性だったのです。
※ハーバート・フランク(左)とクラウス・マーチン |
2人はビジネスを拡大するため、ヨーロッパ中に宣伝しようと画策します。エアウェアと名付けられたマーチンとフランクの靴が、各国で宣伝されるようになると、イギリスのグリッグ社がその広告を目にします。グリッグ社はノーザンプトンシャーに1901年に設立された靴会社で、頑丈なワークブーツを作る家族経営の会社です。
グリッグ社はエアウェアのライセンスを取得すると、かかとを調整してフィット感を向上させ、特徴的な黄色いステッチを導入しました。さらにエアクッションソールにエアウェアの名前を刻むと、靴のブランド名を変更しました。この画期的な発明を行ったマーチンに敬意を込めて、ドクターマーチンと名付けます。1960年にドクターマーチンの1460が販売されました。
※1460
1460は8アイレットの編み上げブーツで、1年後には3アイレットの1461を製造します。ドクターマーチンは、工場労働者、郵便配達員、警察官などに強く支持されるようになると、スキンヘッズなどのサブカルチャー文化にも受け入れられるようになります。イギリスのミュージシャンも愛用し、70年代にはパンクのファッションアイテムになっていきました。ドクターマーチンは、イギリスの労働者階級のシンボルになっていきます。
※スキンヘッズ |
※1461
ピート・タウンゼント
1965年にデビューしたイギリスのロックバンド、ザ・フーのギターリスト、ピート・タウンゼントは、早くからドクターマーチンをステージで履いていました。1967年に最初に手にして以来、多くのステージでピートの足元にドクターマーチンを見ることができます。70年代には多くのパンクミュージシャンがドクターマーチンを愛用しますが、ピート・タウンゼントの影響が強かったと思われます。多くのパンクバンドが既存のロックバンドを嫌ったのに対して、過激なサウンドとパフォーマンスを続けるザ・フーだけはパンクバンドにも好まれたからです。またザ・フーのアルバム「トミー」を映画化した際には、エルトン・ジョンがピンボールのチャンピオンを演じ、巨大なドクターマーチンを履いて「ピンボールの魔術師」を歌いました。映画の中でも印象的なシークエンスとなり、ドクターマーチンが労働者階級のシンボルであることを再認識させられました。
※映画「トミー」のエルトン・ジョン |
シド・ヴィシャス
シド・ヴィシャスは、マルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウエストウッドが経営するブティックの常連で、途中からパンクバンドのセックス・ピストルズのベーシストとして加入しました。ベースはほとんど弾けず、ラリった状態でステージに上がると観客を挑発して血まみれになって殴り合うシドはピストルズのアイコンとなっていきます。特にアメリカツアーでドラッグが入手できず、上半身裸の胸にカミソリでヤクを一発くれと書いたパフォーマンスは強烈な印象を与えました。ピストルズのファッションはマルコムとヴィヴィアンによって作られていきましたが、シドにとってドクターマーチンは切り離せないシンボルになっていきます。ピストルズのファッションはエドワーディアンから始まり、やがてヴィヴィアンが好んだ破れたTシャツを安全ピンで留めるスタイルへと移行していきますが、服が変わってもシドの足元はドクターマーチンのケースが多かったようです。
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※シド・ヴィシャス(左から2人目) |
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