セイコーのお家騒動とグランドセイコー /栄光と暗黒の歴史
1881年に東京で創業したセイコーは、波瀾に満ちた歴史を辿り現在に続いています。そのため転機になる出来事は数多くあるのですが、現在のセイコーに大きな影響を与えたと思われる1998年のグランドセイコーの復活と、2010年の経営陣が起こした社内クーデターまでを中心に書いていきたいと思います。
服部時計店の創業
幼い頃から自分の店を持ちたいと考えていた服部金太郎が、1881年に東京都中央区の京橋に、中古時計の買取と販売を行う服部時計店を創業したのがセイコーの始まりです。その商売は上手くいき、11年後の1892年には置き時計を製造する工場である精工舎を設立しました。やがて精工舎は懐中時計、そして腕時計の製造も行うようになります。
世の中の主流が腕時計になると、1937年に腕時計の製造部門を独立させた新工場の第二精工舎を東京の亀戸に設立しました。これが今日のセイコーインスツル(株)になります。ところが1941年に始まった太平洋戦争で東京の工場は爆撃の目標になりやすいため、第二精工舎は長野県諏訪市に疎開しました。ここは諏訪工場と呼ばれ、現在のセイコーエプソン(株)になります。戦争が終わると第二精工舎(通称、亀戸)と諏訪精工舎(通称、諏訪)はライバル関係になり、開発競争を行うことになります。
※第二精工舎 |
また終戦後の1947年、服部時計店は小売部門を独立させて(株)和光を設立しました。こうして現在のセイコーを構成する主な部門が戦後に出来上がりました。
天文台コンクールの快挙
東京でのオリンピック開催が決まると、諏訪は世界に挑戦する最高級の腕時計を作るという理念を掲げ、1960年にグランドセイコーのブランド名で高級腕時計に進出します。この頃の日本の時計業界の目標は、世界最高峰のスイス時計に少しでも近づくことでした。そのため諏訪はスイスの天文台コンクールに出品する計画を立てました。これを聞いた亀戸は、自分達も参加を検討し始めました。こうして1963年に諏訪が、翌年の64年からは亀戸もニューシャテル天文台コンクールに参加しました。これは時計の精度を競うもので、さまざまな姿勢に置かれた時計の狂いを測定するコンクールです。
ここから諏訪と亀戸は互いにしのぎを削り、67年には亀戸が2位に入賞しました。これら日本勢の猛攻に、67年に優勝したオメガは68年にはクォーツ式時計を投入しました。しかし諏訪が製造した時計はオメガのスコアを大幅に上回り、ついに優勝を勝ち取ります。これに亀戸は奮起し、次は自分達が優勝すると意気込みました。しかし69年の天文台コンクールは中止が宣言されました。優勝を奪われたスイス時計業界は、勝てないなら大会を無くしてしまおうと考えたわけです。
しかし諏訪は手を緩めることなく、この天文台コンクールで優勝した時計を市販品として販売を開始します。コンクール出品の時計は車に例えるならF1カーのようなものです。専門の技術者がデリケートなセッティングをギリギリまで突き詰めたスペシャルメイドで、F1カーが通勤に使えないようにコンクール用の時計は普段使いはできないのが常識でした。しかし諏訪の時計は世界最高の精度を持つだけでなく、普段使いに耐えうる堅牢性を持っていたのです。こうして「最高の普通」と呼ばれるセイコーの時計、その品質を世界に知らしめることになります。
クォーツショックによるスイス時計業界の崩壊
1969年12月に、諏訪は世界初のアナログクォーツ時計のアストロン35SQを発売します。その精度は月差3秒という驚異的なもので、大卒初任給が31,000円という時代に45万円の価格で発売されました。このアストロンは世界的にも大きな衝撃を与えました。当然ながら亀戸は遅れをとったことに奮起し、設計師の久保田浩司を中心とするチームが開発を急ぎました。そして久保田は世界最高のクォーツ時計を製造するには、自社で水晶振動子やIC、電池などの電子部品の全てを製造することが必要だと考えました。
※久保田浩司 |
当時の半導体メーカーの最大顧客は、計算機メーカーでした。そのため時計用に最適化されていない電子部品では、世界最高峰のクォーツ時計を作れないと考えたのです。当初は経営陣に猛反対されますが、久保田の粘り強い説得により亀戸は半導体工場の建設を決めます。これによりクォーツ時計の精度は飛躍的に向上し、さらに低価化も進みました。そして世界を震撼させたのは、クォーツ技術の特許を公開したことです。これにより全世界でクォーツ時計の製造に乗り出す会社が急増し、スイス時計業界は瀕死の状態に追い込まれていきました。60年代に機械式時計で世界最高峰になったセイコーは、70年代にはクォーツでも世界最高になったのです。
セイコーの暗雲
1983年、創業者である服部金太郎の孫の服部謙太郎が社長を退任して会長職となり、謙太郎の弟である服部禮次郎(れいじろう)が社長に就任しました。そして1987年5月に亀戸(当時の社名はセイコー電子工業、現セイコーインスツル(株))と諏訪(現在のセイコーエプソン)の社長を兼任していた服部一郎が亡くなり、続いて9月に服部謙太郎が相次いで亡くなりました。
※服部禮次郎 |
この相次ぐ訃報により禮次郎は会長に就任し、創業者一族ではない吉村司郎が社長に就任しました。この体制は、禮次郎に社内の権力が集中することになります。さらに禮次郎は、秘書室に勤務していた鵜浦(うのうら)典子を取締役に登用します。秘書の一人が取締役になるのは異例中の異例の大抜擢で、この露骨なエコひいき人事はセイコーに暗雲を漂わせることになりました。ここから禮次郎と鵜浦は会社を私物化していき、特に鵜浦はセイコーの女帝と呼ばれて独裁的な振る舞いをするようになります。
禮次郎は社員の声に耳を傾けることなく、鶴の一声で全ての企画を進めていきます。しかしそのほとんどは利益を生むことはなく、負債となって積み上がっていきました。鵜浦は自分に批判的な社員を次々に左遷し、虎の威を借る狐ならぬ禮次郎の威を借る狐となっていきます。当初は苦言する役員もいたようですが、鵜浦が禮次郎に告げ口するとその役員は追い出されていきました。
この頃、セイコーを支えていたのは諏訪(セイコーエプソン)のプリンター事業でした。本社の影響下にある事業が赤字を出し、本社から遠く離れているために本社の声が届きにくい諏訪が利益を出している状況は、誰の目にも問題があるのは明らかでした。しかし社内で絶対的権力を握った禮次郎には誰も歯向かえず、さらに禮次郎を後ろ盾に暴君となった鵜浦に誰も逆らえませんでした。
赤字が続く中で、主力事業だった腕時計はセール品として叩き売られるようになり、もはやセイコーは銀行からも問題視されるようになります。しかしこういった中でも、セイコーの新たな芽は生まれていました。1988年にセイコー電子工業デザイン室の田中淳は、スイスのバーゼルで開かれる時計見本市にいました。クォーツ時計をこよなく愛していた田中は、バーゼルで機械式時計が復活していることを目の当たりにします。そして自分が心血注いで完成したクォーツ時計が、1年も経たずに投げ売りされている現場に嫌気がさしていました。ここからセイコーは新たな方向に舵を切ることになっていきます。
機械式時計の復活へ
デザイン室の田中淳がスイスのバーゼルで見たのは、スイスの各メーカーが出品していた機械式時計の数々でした。当時の日本の腕時計は1万円台の価格帯を中心に、数千円から数万円で売られていました。安価なので消費者はシチュエーションに合わせて複数の時計を持つことができますし、数年おきに買い換える人もいます。それが会社の利益になるのですが、何年も考え抜いて出来上がった時計がすぐに投げ売りされ、数年で使い捨てられる現状に不満もありました。
※田中淳 |
しかしバーゼルに展示されている機械式腕時計は数十万円から数百万円の高級品ばかりで、多くの注目を集めていました。さらに来場者の腕に高級機械式時計を見かけることも多く、機械式時計の復活は明らかでした。それまで時計は薄く軽いことがトレンドでしたが、カシオのGショックの人気により分厚くて大きな時計が許容されるようになっていました。そのため機械式時計が受け入れられる下地が出来上がっており、トレンドの変化を田中は感じて帰国します。
田中は機械式時計の復活を画策し、社内にシンパを集めることにしました。しかしそこには過酷な現実がありました。かつて第二精工舎は世界トップクラスの機械式時計メーカーでしたが、すでに当時の関係者の多くは定年などで退職しており、残っている人達も今や機械式とはなんら関係ない部署にいました。制作機械も多くが紛失しており、倉庫の中に一部が眠っているだけです。当時の部品なども倉庫の隅に埃を被っていました。
田中は中途採用で第二精工舎に入社しました。田中が憧れた第二は世界を席巻する技術力を持ち、腕時計業界のトップに立つ企業でしたが、いつの間にか腕時計の安売りが中心の企業になりつつあります。今やらなければ、セイコーは二度と作れないのではなないか?そんな気持ちから社内に機械式シンパを増やしていきました。そして田中は機械式時計の復活を経営陣に話しますが、あっさり却下されました。
かつて第二は機械式からクォーツに軸足を移す際に、設計士の久保田浩司の提案によって半導体の自社工場を建設しました。莫大な借金を作ってクォーツを製造し、ようやく利益が出ているのになんで機械式に戻るのかという訳です。しかし1991年にセイコー創立110周年記念モデルの発売が決まると、田中はここに機械式時計をねじ込みました。セイコーの歴史を表現するために、機械式とクォーツの2種類を発売するべきだと主張し、経営陣に認めさせたのです。ここからセイコーの機械式復活が始まります。
創立110周年モデルの成功
田中は社内に残っている部品、工作機械、図面を集めていきます。そして当時の職人に声を掛けました。機械式の復活を喜んでくれる人は多くいましたが、実際に残っている部品のほとんどは錆びていて使えず、図面も一部はCAD化されていたものの青焼きが薄くなっていて読めないものもありました。新たに図面を引き直し、全ての部品を作り直し、さらに組み立てのための工具も揃える必要がありました。
※創立110周年記念モデル |
このように難題続きになってしまいますが、それらの困難を乗り越えてセイコー創立110周年記念モデルが完成しました。それぞれ110本ずつ生産される限定品ですが、機械式時計に人気が集中してあっという間に予約でいっぱいになりました。田中の目論見通り、機械式は世間に求められていたのです。そこで田中は機械式モデルの展開を提案しますが、経営陣に却下されてしまいました。ここから1年以上かけて、機械式モデルの実現に向けて動き続けることになります。そして110周年記念モデルが発売された91年に、セイコー電子工業(第二精工舎)の時計設計部に新入社員が加わりました。
グランドセイコーの復刻へ
91年に時計設計部に入社した重城(じゅうじょう)幸一郎は、古い図面をトレースしてCADデータにする仕事を命じられました。最新式の時計をデザインしたかった重城は、古臭い機械式の設計図を延々と写し続ける作業に気が進みませんでした。しかし続けていく中で、さまざまなことに気がつきます。パッと見ると非効率的に見える構造でも、組み立てやすさやメンテナンス性が考慮されていたりするなど、長い歴史をかけた先人たちの創意工夫が図面に詰まっていたのです。
※重城幸一郎 |
さらに手書きの図面をCADに落とす際に、どうしても合わない部分が出てきました。手書きだとなんとなく揃っていた線が、寸法通りに表記されるCADだとズレてしまうのです。そこで重城は実際に製作する際には、どのようにして作られていたのかを想像し、実際に動くように図面を工夫しなくてはなりませんでした。田中が機械式時計の製造に動き続けている傍らで、新入社員の重城は数年かけて機械式時計の設計ノウハウを吸収していきました。
田中の行動はセイコーを動かし、機械式時計の製造に向けて徐々に動き出しました。重城も機械式時計の設計に参加し、機械式の経験を詰みました。そして1995年にグランドセイコーの復刻が決まり、設計は重城に任されました。セイコーの最高峰の時計として重城はこれまでにない最高の精度を求めて高い基準を決めました。これが後に重城を苦しめることになります。
グランドセイコー設計の苦難
グランドセイコーの発売は1998年11月と決まり、それがアナウンスされると大きな話題を集めました。しかし重城は自ら課した精度基準をクリアできず、会社に泊まり込んで何度も何度も設計をやり直すことになります。1998年に入ると設計が終わっていないことに工場が焦り出し、重城にはとてつもないプレッシャーがかかります。重城は何度もベテラン調整士の大平晃の元に通い、アドバイスをもらっては図面を書き直していました。
夏になり、重城が持ち込んだ図面を元に時計を組み立てた大平は、このままでは11月の販売に間に合わないと思いました。そこで大平は重城を連れて上司の元に行き、深々と頭を下げて時計の中心的部品である「ひげぜんまい」に、重りをつけて検査させて欲しいと言いました。これはかつて大平がスイスのクロノメーター試験をパスするために使った苦肉の策で、熟練の調整士にしかできない技でした。何も聞かされていなかった重城は大平が反則技のような提案をしたことに驚きつつ、賛成しようとする部長に待ったをかけました。
「それだけは絶対にダメです」と言う重城に、上司は「なんともならないから、大平さんが手を尽くしてくれてるんですよ」となだめますが、重城は「なんとかします」と言って譲りません。およそ3ヶ月後にはグランドセイコーを予約した人の手に届けなくてはならないのに、まだ設計すら終わっていないのは大問題だと重城はわかっていました。そして重城が設定した精度を出すには、ひげぜんまいの長さや重さ、厚さに加えて他の部品との間隔など無限に近い組み合わせの中から最適解を探す必要があることもわかっていました。
しかし重城はこれまで何度も何度も試した中で、確実な手応えを感じていました。それは論理的なものではなく技術屋の直感のようなものでした。入社7年目の若手の重城が自分の直感だと言っても信じてもらえるはずがなく、「なんとかします」の一点張りでなんとかその場を乗り切りました。重城は不眠不休で最適解を追い続け、そこから約1ヶ月で見つけ出しました。大平によって精度が確認されると、工場はフル稼働で生産を開始します。
完成したグランドセイコーが、各店舗に出荷されたのは発売日の朝でした。間一髪のところで発売延期を免れ、グランドセイコーはセイコーの名前に恥じない最高精度の時計として購入者の元に届けられました。これによりセイコーは伝統技術の復活を宣言し、新たなブランドイメージを手に入れることができました。セイコーは安価な時計を大量に販売する時計メーカーではなく、「最高の普通」を届ける世界的にも稀有なメーカーへとなっていきます。
傾き続けるセイコー
グランドセイコーの成功により、セイコーブランドのイメージは向上してセイコーへの関心が高まっていました。しかし2000年代に入ってもセイコーの赤字は膨れ続けていました。服部禮次郎は絶対的な権力でセイコーに君臨し、虎の威を借る狐と化した鵜浦専務の暴走は加速していました。ある年は鵜浦の逆鱗に触れた結果、本社の総務部長が1年間に7回も変わることがありました。また長年勤めてきた営業部長が鵜浦の逆鱗に触れ、平社員に降格されたうえに翌日には地方の田舎の倉庫番の辞令が出たこともあったようです。
鵜浦はたびたびヒステリーを起こし、社員を呼びつけては立たせたまま5時間以上も怒鳴り続けたことが何度もあったようです。そのためノイローゼになったり鬱病になる社員が後を絶たず、本社では休職者が増加していました。これらの事態に社長の村野晃一は、無力でした。そして負債が増え続けるセイコーは、メインバンクのみずほコーポレート銀行にとっても頭痛の種でした。返済もままならぬ状態で、鵜浦は銀座和光を数億円かけて模様替えしています。なんら戦略がなく、単に自分の城を模様替えするために大金を使ったのです。
銀行としてもこのまま共倒れになることを恐れ、みずほコーポレート銀行は社外取締役や社外監査役と相談を重ねて対応を協議していきます。そして副社長で創業一族の服部真二にも協力を要請しました。しかし真二は禮次郎を追い出すようなことを嫌がり、何度も話し合いが持たれました。この時点でみずほコーポレート銀行が考えていたのは、禮次郎と吉村司郎社長の退任です。退任した後には真二が社長になってもらう他はなく、真二の協力は必要不可欠だったのです。しかし真二は二の足を踏んでいました。
セイコーのクーデター勃発
煮え切らない態度の真二でしたが、社外取締役の原田明夫らから衝撃の事実を告げられました。警察による捜査が既に始まっており、近い将来に鵜浦が逮捕される可能性があるとのことでした。労働組合は度が過ぎる鵜浦専務のパワハラを訴える準備を進めると同時に、警察へも相談していました。鬱病などを発症した社員が50人を超える異常事態に、警察も動かざる事態になっていたのです。
※服部真二 |
直接殴ったり蹴ったりして怪我を負わせたならともかく、叱責や異動などのパワハラで逮捕という前例は真二も聞いたことがありませんでした。しかし似たような例はありました。2004年10月にプロ野球球団、福岡ダイエーホークスの社長で、福岡ドームやホークスタウンの経営責任者だった高塚猛が、社員へのセクハラを理由に強制わいせつ罪で逮捕されました。当初、警察はセクハラでの捜査に躊躇しましたが、あまりに多くの女性社員が警察に相談に来たため、本格的な捜査が始まっています。セイコーがその二の舞になる可能性は否定できません。
このままでは現役の役員から逮捕者が出る可能性があり、その前に鵜浦専務を解任する必要がありました。しかしそれは禮次郎が許さないのは明らかで、鵜浦を解任するには禮次郎も解任しなくてはなりません。真二は重い腰を上げてクーデターに協力することになりました。クーデターの実行は2010年4月30日、場所は銀座和光5階会議室です。この日行われる定例役員会議で実施されることになりました。この日の出席者は村野晃一会長兼社長、服部真二副社長、中村吉伸専務、山村勝美取締役、鵜浦典子取締役、原田明夫社外取締役の取締役6名と、近藤克彦社外監査をはじめとした監査役でした。
14:30に村野晃一会長が開会を宣言すると、間髪入れず原田社外取締役が緊急動議を求めました。「コーポレートカバナンス上、不適切な部分があるため、村野社長の解任を求めます」すかさず真二副社長が議長となり採決が行われました。山村取締役と鵜浦取締役が反対しますが、真二副社長、中村専務、原田社外取締役が賛成し、3-2で村野晃一会長兼社長の解任が決まりました。すかさず原田社外取締役が真二副社長を社長に推薦する動議を出して可決し、さらに鵜浦取締役の解任動議が出されて可決しました。
さらに臨時株主総会の開催が提案され、和光の服部禮次郎会長兼社長と鵜浦専務の解任を決議しました。開始からわずか数分の電撃的なクーデターで、これで長年に渡りセイコーを私物化してきた禮次郎とセイコーの女帝と呼ばれた鵜浦の失脚が決定しました。その後、和光では管理職以上の50人が集まり、新経営陣が謝罪を行っています。セイコーの新社長になった真二社長も頭を下げて、休職に追い込まれた人達は必ず復職させると約束しました。まだまだ不安を残してはいましたが、10年以上に渡る独裁は終焉し、セイコーは再出発となりました。
まとめ
セイコーは世界最高峰の技術を手にしながら、80年代に入るとその技術を活かすことができませんでした。放漫経営とも言える会社を私物化した経営により、会社はガタガタになっていきますが、そんな中でも黙々と新たな技術を磨いてきた技術者が新たな歴史を開きました。すでにグランドセイコーの復活から20年以上が過ぎ、新たな展開が必要な時期に来ているようにも思います。日本のモノづくりを代表する企業であるセイコーは、今度はどんな発展を届けるのでしょうか。
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