異次元の強さを手にした井上尚弥/わずか264秒の惨劇
計量を一発でクリアしたノニト・ドネアは、写真撮影のためのフェイスオフ(互いの顔を近づけた睨み合い)の後、握手ではなくお辞儀をしました。親日家のドネアらしい紳士的な振る舞いではありますが、握手を拒否したとも言えます。ドネアの肌艶は良く、体調は万全のようでした。「最高の私が見られることを期待していい」とのコメントも、決して大袈裟には思えませんでした。ドネアは最高の仕上がりで、井上尚弥の前に現れたのです。2年7ヶ月に渡り、ドネアが追い続けた舞台は整いました。
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井上尚弥のパウンド・フォー・パウンドを考える
日本の至宝と呼ばれた井上尚弥
日本ボクシング史上最高の選手と言われていた井上尚弥が、ライトフライ級、スーパーフライ級の二冠王者としてバンタム級に進出したのは、2018年のことでした。減量から解放されたこともあり、WBA世界バンタム級王者のジェイミー・マクドネルを序盤から圧倒し、試合開始からわずか112秒で勝利しました。強烈な左のボディブローでダウンを奪うと、ダメージが抜け切らない王者を左右の連打で攻め立て、レフリーが割って入った瞬間に、マクドネルはキャンバスに崩れ落ちました。1階級上の王者をパワーで圧倒し、簡単にKOする姿は衝撃そのもので、この映像は海外のボクシングファンをも魅了しました。
圧倒的な強さで3階級を制覇した井上尚弥の元に、WBSSの招待状が届きます。4団体のバンタム級王者と、その挑戦者に相応しい強豪を集めたトーナメントです。4団体の王座統一という目標を掲げた井上尚弥は、WBSSの一回線でファン・カルロス・パヤノをわずか70秒でKOしました。閃光のようなワンツーでアゴを打ち抜かれたパヤノは、キャンバスに後頭部を打ち付けて立ち上がれませんでした。続く準決勝のエマヌエル・ロドリゲス戦では、2Rに3度のダウンを奪って完勝しました。
これでIBF王座も獲得し、井上尚弥の世界的評価は急上昇します。決勝のノニト・ドネア戦では、2Rに目の骨を折られながら戦い続け、11Rにダウンを奪って判定で勝利しました。判定という結果に物足りないという声もありましたが、相手が5階級を制覇したドネアであることに加え、負傷を隠しながら巧妙な技術戦を勝ち抜いたことで、さらに評価を上げることになりました。もはや4団体統一は既定路線であり、バンタム級最強であることに疑う者はいませんでした。
堕ちた井上尚弥と囁かれて
目の骨折が回復すると、残る2つの世界王座の獲得なら動き出した井上尚弥は、2020年1月にWBO世界のジョンリル・カシメロとの対戦を発表します。試合日は4月25日で、場所はラスベガスです。しかしここに思わぬ邪魔が入りました。新型コロナウイルスの世界的流行です。渡航制限のためアメリカに入国できなくなってしまったのです。
一旦は延期になり無観客試合が提案されましたが、ファイトマネーの低さにカシメロ陣営が納得せず、この試合は流れました。カシメロ戦の代わりに、WBO1位のジェイソン・マロニーとラスベガスで対戦しますが、大半の予想に反して7RKOという結果になりました。無観客試合という異様な環境で、なかなか強打が爆発しない展開にヤキモキさせられる展開でした。さらに試合中に足が攣るような様子が見られたため、減量による影響が心配されるようになります。
これ以降、コロナ禍により試合は不透明になり、ようやく試合ができたのは8ヶ月後の2021年6月でした。ブランクの影響が心配される中、IBF1位のマイケル・ダスマリナスから3度のダウンを奪って3RKOで完勝です。しかし初回からダウンを奪いながら、なかなか仕留められない井上尚弥の姿に、一抹の不安を覚える声が聞かれるようになります。また顔面へのクリーンヒットがなかったことを本人も反省しており、期待が高すぎるために苦しんでいるようにも見えました。
常に最強の相手と戦いたいと言い続けていた井上尚弥ですが、複雑なボクシングビジネスの事情と、コロナ禍により思ったような試合が組めなくなりました。半年後の2021年12月に試合を行いますが、相手のアラン・ディパエンはWBA8位の格下でした。しかし予想外のタフネスを見せたディパエンは強打を耐え抜き、結果は8RTKOで井上の勝利でした。
WBSS以降の3試合で、井上尚弥は高まる期待を超える試合ができていませんでした。バンタム級で減量が限界なのではないか?コロナ禍による長期戦線離脱でモチベーションが低下しているのではないか?王座を巡る政治的駆け引きが続く中、焦燥しているのではないか?そんなネガティブな話題が出るようになります。3試合で3勝3KOというのは文句なしの結果のはずですが、桁外れの強さを期待するファンにとっては、物足りなかったのです。
歴史に名を刻んだノニト・ドネア
2007年にIBF世界フライ級王座を獲得したノニト・ドネアは、2014年までに5階級を制覇してその名を歴史に刻みました。しかし5階級目のフェザー級では体格差が顕著で、王座を獲得したものの苦戦が続きました。初防衛戦でジャマイカのニコラス・ウォータースに人生初のKO負けを喫し、限界を感じたドネアはスーパーバンタム級に階級を落とします。そこで世界王座を再び獲得すると再度フェザー級に上げますが、王座への返り咲きには失敗します。もうドネアの時代は終わったと思われていましたが、2018年にバンタム級に復帰することを宣言してWBSSに出場します。
WBSSの一回戦ではライアン・バーネットが途中棄権して勝利し、準決勝ではWBO王者ゾラニ・テテの代役として出場したステフォン・ヤングをKOして決勝に進みました。決勝では井上尚弥の右目の骨を砕く強打を見せ、これまで圧倒的な強さを見せてきた井上尚弥と12ラウンドをフルに戦い抜きます。なぜ痛めた右目を攻めなかったのかと後から言われるクリーンな試合展開で、ドネアの健在と復活を印象付けました。しかしドネアはこの敗北に奮起し、すぐにでも再戦したいと発言しています。もう一度戦えば、井上尚弥の必ず勝てると自信を深め、そのように発言してきました。ドネアにとって、井上尚弥との再戦はどうしても実現したいものになっていきます。
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ノニト・ドネアの執念
ドネアの再戦要望は井上尚弥の耳にも届き、再戦を期待するファンの声もありました。しかし4団体統一を目指す井上尚弥は、ドネアとの再戦には興味を示しませんでした。井上の興味はWBC王者のノルディーヌ・ウバーリであり、WBO王者のゾラニ・テテだったのです。タイトルを持たないから興味がないと言われたドネアは、タイトルを手にすれば再戦が可能だと考え、ウバーリの持つWBCタイトルへの挑戦に漕ぎ着けました。しかしウバーリが新型コロナウイルスに感染するなどのトラブルが続き、ドネアはエマニュエル・ロドリゲスとWBC王座を賭けて対戦することになります。
しかし今度はドネアが新型コロナウイルスに感染してしまい、この試合も流れてしまいます。こうした紆余曲折を経て、2021年5月にドネアはウバーリとWBC王座を賭けて対戦し、4R KOでWBC世界王座に返り咲きました。しかし世間は井上尚弥を嘲笑し、罵倒し続けるWBO世界王者のジョンリル・カシメロに注目が集まっていました。カシメロは2021年4月の井上尚弥との対戦がコロナ禍で流れてしまってから、激しいトラッシュトークを展開していました。そのあまりの無礼さに井上尚弥も怒りを見せており、対戦が期待されていたのです。WBC王者になったのにカシメロに井上尚弥との対戦を奪われることを危惧したドネアは、カシメロとの王座統一戦に動き出します。WBC・WBO統一王者になってしまえば、井上尚弥は自分と対戦せざるを得なくなると考えたわけです。
しかしこの試合も流れてしまいます。カシメロ陣営がドーピングテストの書類を提出期限までに出さなかったり、ドネアのレイチェル夫人への酷い暴言などが重なり、ドネア陣営がキャンセルすることになったのです。その結果、井上尚弥の次の対戦相手としてカシメロがさらにクローズアップされることになり、カシメロが指名試合に勝てば井上尚弥との対戦が決まるだろうと言われていました。しかしカシメロは指名試合の計量に体調不良を理由に現れず、さらに次の試合では減量の違反(サウナを利用した減量)を行ったため、王座を剥奪されてしまいます。
一方、ドネアはレイマート・ガバリョとの指名試合で文句なしのKO勝利を収め、バンタム級で高い存在感を示しました。カシメロの自滅とドネアが圧倒的な強さを見せたことで、井上尚弥との再戦が決定しました。WBSSの決勝戦以降、ドネアが追い続けて2年7ヶ月ぶりに再戦が決定したのです。井上尚弥との再選を追い求めた、ドネアの執念の成果でした。
戦前の予想
前回の対戦では、1Rは井上尚弥が優位に試合を展開していました。井上本人も、これなら行けるという感触があったそうで、その緩みが2Rの致命的な被弾に繋がり、右目の骨を骨折してしまいました。この時のパンチはドネアが最も得意とする左フックで、かつてフェルナンド・モンティエルという選手はドネアの左フック一発でKOされただけでなく、水に打ち上げられた魚のように痙攣し、側頭部が陥没していました。生命を奪いかねない威力を持ったドネアの左フックは、井上尚弥にとって最大の脅威となるはずです。
そして1戦目の展開を見ると、中間距離での打ち合いは井上尚弥が優位に進めていました。しかしドネアが中に入り、クロスレンジからショートレンジの近距離になってから得意の左フックを炸裂させています。さらにこの試合で、井上本人も反省していたのですが、クリンチが下手でした。インサイドワークに井上尚弥の弱点があるとすれば、ここをドネアは徹底的に突いてくるのは間違いありません。ミドルレンジ(中間距離)なら井上尚弥、ショートレンジならドネアという展開になると多くの専門家が予想していました。
そして試合結果については意見が分かれました。ここ3試合、ピリッとしない試合が続いた井上尚弥と、ウバーリ戦・ガバリョ戦で無類の強さを見せたドネアなので、混戦が予想されたのです。最終的に井上尚弥が勝つだろうという意見が多かったのですが、井上にとって苦しい展開になると予想する人は少なくありませんでした。もう40歳になるドネアは誤魔化しながら戦うしかないと予想していた人達も、ドネアのウバーリ戦やガバリョ戦を見ると黙るしかありませんでした。それほど最近のドネアは力強く、そしてスピードも若い頃を彷彿させる鋭い試合展開をしていました。
ドネアとスパーリングをした亀田和毅は、ドネアのステップの鋭さやパワーに驚いたようで、若い頃と何ら変わらないと言っていました。こうして多くの専門家、元ボクサーなどの間でも意見が分かれ、概ね厳しい展開になると予想していました。ドネア勝利を予想する人はほとんどいませんでしたが、井上尚弥圧勝を予想する人も少数派だったのです。
ドラマ・イン・サイタマ2
予想通りに始まった1ラウンド
井上尚弥の希望で布袋寅泰の生演奏が入場曲になるなど、ド派手ではありませんが凝った演出で両者がリングインしました。両者の表情は落ち着いていて、国家演奏の際にも緊張などは感じられません。互いの肉体は引き締まり、かなり良いコンディションで本番を迎えたことがわかります。ジミー・レノン・ジュニアのリングコールがあり、いよいよ1Rのゴングが鳴りました。
先にパンチを放ったのはドネアで、予想通り前へ前へと出てきます。ドネアが距離を詰めると、井上尚弥はバックステップで距離をとり、中間距離での攻防が始まります。左ジャブの差し合いは五分五分でしょうか。若干、ドネアの方が先に当てているようにも見えます。しかし距離を詰めたいドネアと、それを止めたい井上尚弥の展開なので、ドネアが攻めているような印象になるのは仕方ないと思います。互いの左ジャブは鋭く、これぞ世界戦というハイレベルな探り合いが展開されていきました。
両者は左を中心に打ち合い、井上尚弥は左ジャブに鋭い左フックを混ぜます。単発の左フックを放つのは明らかに布石を打ちにきているのですが、無視することができない鋭さです。一方、ドネアはさまざまな角度から侵入を試みようとしているようで、ステップの鋭さとパンチのキレは明らかにトップコンディションに見えます。そして両者の高い集中力と気迫が伝わってくる、左の差し合いは徐々に展開が変わっていきます。
1分半を過ぎた頃から、井上尚弥が右ストレートを放つようになります。ドネアの距離を測り、イメージの修正が終わったということなのでしょう。右の強打をドネアに放ち、それはガードの上からでも強い衝撃を与えているようでした。ドネアは常に頭の位置を変えるので、右ストレートは簡単にヒットしません。それどころか右ストレートの打ち終わりに、中に入ってこようと鋭いステップを見せます。近距離での打ち合いも互角だったと思います。ややドネアの方が巧さを感じましたが、決定的な差はありません。しかし1Rの終了間際に、左のフェイントから放った井上尚弥の右ストレートが、ドネアのこめかみを打ち抜きました。
前がかりに出てきたところに、カウンターのようなショートの右ストレートで、ドネアは尻餅をつきました。カウントが進む中、井上尚弥はニュートラルコーナーから出てきて、すぐに襲い掛かれるようにしています。千載一遇のチャンスで、時間がほとんどないことがわかっていたのでしょう。しかし立ち上がった直後にゴングが鳴り、ドネアは救われました。ドネアはダウンの記憶がなく、気がつくとセコンドのレイチェル夫人がファイティングポーズをとらなければ試合が終わってしまうと叫んでいて、慌ててポーズをとったと試合後に語っています。
衝撃的な2ラウンド
再び中間距離に立った両者ですが、今度は井上尚弥がプレッシャーをかける展開になります。ドネアのダメージは完全に回復していないのかもしれません。開始30秒にも満たない時点で、井上尚弥の左フックがドネアのテンプルをとらえ、ドネアは一瞬ですが腰を落とします。そこから距離は一気に縮まり、井上尚弥はショートレンジで打撃戦に挑みます。ドネアは鋭い左フックを返しますが、それをスウェイで避けるとコンパクトに連打を叩き込みます。
リングサイドでドネアのレイチェル夫人が必死の形相で声を掛け続けていますが、無情にも井上尚弥はロープ側に追い詰めて連打を繰り出しました。ドネアも鋭いパンチを返していき、体を密着させて強打を放ちます。クロスレンジでの打ち合いは、危険だと判断したのでしょう。しかしチャンスを迎えた時の井上尚弥は、恐ろしく冷静で残酷です。ここから一気に畳み掛けます。
井上はボディブローを織り交ぜてパンチを上下に散らすと、左フックでドネアを吹き飛ばしました。よろけながらダウンを拒むドネアに井上は再び上下にパンチを散らせ、右ストレートでコーナーに追い込むと、左フックでダウンを奪いました。レフリーはカウントすることなく試合を止め、井上尚弥の勝利が決まりました。圧巻の圧倒的な勝利で、ほぼ一方的な展開でドネアが沈んだのです。
井上尚弥の凄み
なぜ井上尚弥はこれほどの圧勝をすることができたのでしょうか。技術的なことは多くのボクシング関係者が、YouTubeなどのネット媒体を通じて話しているので、そちらを参考にしてもらった方が良いと思います。多くの関係者がため息をつくほどの内容でしたが、その中でも私が特に言及したいのは、1Rのダウンシーンです。
早い段階から井上尚弥は左ジャブに左フックを織り交ぜていて、この左フックが外側に意識を向けさせる伏線になっていたと思います。このダウンシーンの直前にも左フックを強振しており、豪快な空振りに終わっています。これはドネアの意識を右側に向けるのに十分だったはずです。次に左ジャブのフェイントを入れました。ドネアは前がかりになってこれに反応し、パンチを放とうとした瞬間に井上の右ストレートを被弾しています。
ドネアの意識が右側に向いている時に井上の右ストレート、つまりドネアは左のテンプルに被弾したので、何が起こったのかわからなかったでしょう。ドネアがカウンターを放とうとするタイミングに合わせてカウンターを合わせる高等技術であり、まだ体が温まっていない1Rにドネアという超一流に行える勇気があり、そんな中でも全く力まない完璧なショートブローを放った精神的な強さが光ました。
もちろん2Rにも井上尚弥の凄みが何度も見えました。ドネアがダメージを受けても焦らず冷静に攻め込み、ドネアがフラついてチャンスになっても、パンチを打ちながら頭を動かすことを止めませんでした。世界王者クラスのボクサーであっても、決定的な場面ではパンチを放つことに夢中になって頭の位置が変わらないことは多くあります。しかし常に頭を動かし、ポジションも変えながら強打を放ったことで、ドネアに反撃の隙を与えませんでした。
4団体統一に向けて
バンタム級のWBA・WBC・IBF三団体統一王者になった井上尚弥が狙うのは、WBOのタイトルです。イギリスのポール・バトラーが現在のチャンピオンで、ジョンリル・カシメロとすったもんだの末に対戦しないままタイトルを手に入れました。井上尚弥は年内にバトラーとの対戦を希望し、それが無理ならスーパーバンタム級に階級を上げると語っています。バトラーも井上尚弥との対戦を希望するコメントを出していて、このまま対戦の交渉が行われると思います。
まとめ
あまりにも一方的な展開で、ほとんどの人の期待を大きく上回る結果を出したので、今後の展開に大きく期待が膨らみます。このままいけばスーパーバンタム級での王座獲得は確実のように思いますし、フェザー級まで行けるのではないかという声さえ出ています。今回のドネア戦のような圧倒的な結果を見せられると、このように期待の声が出てくるのも当然でしょう。今後、スーパーバンタム級に上げるにしても、4団体統一を目指すにしても、見るものをワクワクさせてくれるのは間違いないと思います。
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