DeNAによるベイスターズの再建 /暗黒時代の終わり

 前回はAクラスの常連で優勝も果たした横浜ベイスターズが、親会社がTBSになった途端に最下位の常連チームになってしまった話を書きました。TBS時代の10年間で最下位が8回というグダグダのチームは、モバイルゲームを運営するDeNAに買収されることになります。暗黒時代のベイスターズが、どうやって復活したのでしょうか。


前回記事:TBSが招いた暗黒時代の横浜ベイスターズ /チーム崩壊と赤坂の悪魔


球団名で揉めた買収劇

ベイスターズを買収したDeNAは、球団名に商品名のモバゲーを入れることを検討していました。しかしこれには他球団から反発が起こります。ジャイアンツの渡辺恒雄球団会長は野球協約に抵触すると発言し、「球団経営の努力をしないまま、売名行為のためにその球団を買おうとする場合、加盟を許さないということ」と、モバゲーを球団名に使うならプロ野球への参加ができなくなると説明しました。これには同意する他球団もあり、DeNAはベイスターズ買収と同時に迷走してしまいました。

打開策として渡辺恒雄氏は、DeNAが社名を「モバゲー」に変更し、保有企業と球団名を統一した上でオーナー会議で承認を求める手順を提案しましたが、株主総会の日程がプロ野球シーズン開幕後なので間に合いません。渡辺氏の発言は打開策と言いつつ事実上のNoを突きつけるもので、DeNAは球団名を横浜DeNAベイスターズとすることで決着しました。

DeNAが驚いたベイスターズの惨状

2010年、DeNAはベイスターズを買収した際に、TBSの社員から「我々と同じ失敗を繰り返さないでいただきたい」と言われたそうです。TBS内にもベイスターズを崩壊させたと感じていた人がいたようですが、その崩壊ぶりはDeNAの想像を超えていました。球団事務所を訪れたDeNA職員は、驚きを隠せませんでした。

球団事務所は田舎の学校の職員室のように何の設備もなく、球団職員のモチベーションは驚くほと低下していました。職員同士が互いのスケジュールを知らないので、誰がどこで何をしているのか誰も把握しておらず、パソコンは秋葉原のジャンクショップでしか見ないような旧式のデスクトップが1台あるだけでした。笑えることに、そのパソコンのスペックはDeNA社員が使っているスマートフォンより低スペックだったのです。

社内連絡は回覧板で行われ、幾つもの回覧板が滞って机の上に積み上げられ、意識の共有どころか情報の共有ができていませんでした。さらに事務所には会議室がなく、会議は全て事務所の机で行われていました。そこにメディア関係者が出入りするので、電話の内容も会議の内容もメディアに筒抜けになっていました。DeNAは、まず職場環境の整備から始めます。

しかしその過程で重大なことに気付きました。なんと選手のデータが存在しないのです。TBSがどうやって選手の年俸を査定し契約更改に挑んでいたのか不明ですが、データプロ野球チームの命とも言える選手データが、このチームには存在しませんでした。DeNAはデータの作成を急がなくてはなりませんでした。選手たちがどうやったら年俸が上がるかわからないと嘆いていたのも当然で、選手データなしに年俸が決められていたのです。これでは選手が球団に不信感を持つのも当然でした。

監督の人選と監督の苦悩

DeNAは監督として工藤公康と交渉を始めます。しかしコーチ全員を自分で選びたいと言う工藤と、監督に全権を委ねることに躊躇するDeNAの交渉は難航していました。そこでDeNAは、中畑清にも話を持ちかけます。中畑は監督を快諾し、工藤との交渉が決裂すると中畑に決まりました。弱冠35歳の球団社長の池田純は、中畑に対して可能な限りの取材を受けて、チームのメディア露出を要望します。これに対して中畑はプロは目立ってナンボと了承し、持ち前の元気キャラを活かしてメディアへの露出を増やしました。

※中畑清

新生ベイスターズは文字通りマイナスからのスタートでしたが、球団運営経験のないDeNAと、35歳の若社長、そして監督経験のない中畑清によって出発しました。ここからベイスターズは苦難の連続になります。中畑は毎夜ウイスキーをロックで流し込み、睡眠導入剤を使っても眠れない夜を過ごすことになったのです。

中畑清の苦悩

中畑が初めてチームを訪れた時に、選手の元気のなさに驚かされます。そして最初に選手に出した指示は「俺が『おはよう』って言ったら『おはよう』って返せ」というものでした。挨拶すらできない選手が溢れたチームにプロ意識などはなく、中畑は次々とルールを決めていきます。「練習はスパイクを履いて参加すること」「ミーティング中は私語をしないこと」など、学生野球でもなかなか見られないほど低レベルなルールを決めなくてはならないほど、当時のチームの意識は低下していました。

さらに中畑は「ふざけた髪型」は許さないと、チームの風紀にも口を出していきます。ドレッドヘアやピンクに染めた選手には、すぐに髪を切るように指示しました。しかしリーゼントがトレードマークの「ハマの番長」こと三浦大輔が、自分も髪を切らなくてはダメかと質問してきた際には、練習も満足にせず大した結果も出さない選手には認めないがお前は違うと言って、リーゼントを認めています。プロは目立ってナンボだが、プロ意識がない選手がプレイ以外で目立っても仕方ないと考えていたのです。

※三浦大輔

そして競争意識が欠落していたチームに加えて選手データもないため、キャンプの練習メニューも手探りで作ることになりました。キャンプは選手を強化する場ではなく、選手の特徴を掴む時間になってしまいました。そして中畑は選手の意識を変えることに注力していきます。

中畑はレギュラーを固定しませんでした。調子が悪い選手を外すのはもちろん、練習中にやる気のないプレイをする選手や、遅刻をする選手、負けても悔しさを見せずに談笑しながらバスに乗る選手などは、次々にスタメンから降格させました。どうせ出番はないと高を括り、準備が不足している選手はベンチからも外しました。二軍落ちも積極的に行い、逆に二軍で好成績を収めている選手は一軍に登用し、チームに緊張感を与えていきます。

またファンサービスは、自身が手本を見せると同時に選手にも徹底させていきます。サイン欲しさに待っている子供を無視して帰ろうとした選手を激しく叱責し、どんなに好成績でもファンを蔑ろにする選手はいらないと宣言します。しかしこうした努力はなかなか実らず、シーズン開幕後は負けが先行することになり、初年度の2012年は最下位に終わりました。選手を激しく叱責する中畑でしたが、メディアの攻撃からは選手を守り、負けた責任は自分にあると言い続け、徐々に選手とファンから信頼を得るようになったのが、1年目の僅かな成果でした。

2013年も続く苦悩

大規模な補強が必要と感じたDeNAはソト、ソーサ、ブランコの外国人3人を加えました。さらに中畑は春季キャンプで、過酷なトレーニングを課してチームを叩き直すことにします。守備を重視していた中畑ですが、怠慢なプレイによる失策が目立っていたため、基礎体力を強化してチームの底上げを狙ったのです。このキャンプでは、中畑の期待に反してロールケーキを食べ過ぎてでっぷりと太って現れた国吉佑樹などは、徹底的にしごかれて体重を落とすことになりました。

オープン戦から中畑はチームを鼓舞し続け、ベースカバーに入らなかった梶谷隆幸や、主将でありながら反抗的な態度で円陣に加わろうとしない石川雄洋を二軍に降格させるなど、厳しい態度を見せていきます。そしてチームは上昇し始め、前半戦を3位で折り返すと、クライマックスシリーズ出場に向けてチームの雰囲気も良くなっていきました。しかし長年の練習不足に加え、連携の精度の低さから足で掻き回されると途端に脆さを見せるようになりました。

※梶谷隆幸(左)・石川雄洋(右)

また基礎体力の低さは後半に入ると疲れになって多くの選手を襲い、9月の阪神戦に負けるとクライマックスシリーズ出場の可能性が消えました。中畑は責任をとって退任を示唆しますが、球団が留意して続投になりました。この年は最終的に、6年ぶりの最下位脱出に成功しています。シーズン後半には負けが続くようになりますが、そんな中でも諦めずにプレイする選手が増えたのが、この年の収穫でした。徐々にですが、ベイスターズは確実に変わっていました。

2014年・2015年シーズン

2014年は正捕手の鶴岡の放出、ブランコの怪我に加えて、中村紀洋を懲罰降格させたことで、チームは得点源を失います。相変わらず守備の失策が多く、失点を得点でカバーしてきたベイスターズにとって、得点力不足は致命的でした。しかし若手の投手が徐々に力をつけてきており、最終的には前年同様の5位ですが、確実に復調の兆しが見えていました。この頃には罵声しか聞こえなかった横浜スタジアムには応援の声が溢れるようになり、TBS時代とは全く異なる雰囲気になっていました。


そして2015年シーズンは、故障が多いながらも中畑が我慢強く使い続けた筒香嘉智らの打線が好調で、シーズン序盤の4月9日とはいえ、2007年5月3日以来約8年、2898日ぶりの単独首位となりました。そこから12連敗などもありますが、前半戦最後のカードとなるジャイアンツ戦に3連勝し、前半戦を首位で折り返すことが出来ました。数年前には想像すらできなかったベイスターズの姿が、そこにはあったのです。

ベイスターズの快進撃に横浜スタジアムのチケットは入手困難になり、ファンの大歓声を受けて戦うチームへと変貌しました。中畑体制になってから4年目で、ようやくチームはプロ集団へと変貌をとげようとしていました。しかし後半に入ると筒香ら主力の怪我が重なり、守備の失策が減っていないため、得点力を失ったベイスターズは徐々に順位を落としていきました。シーズンを終えると再び最下位で終わってしまいますが、ファンは確実に変化しているベイスターズに期待を寄せるようになりました。

中畑は最下位の責任をとって辞意を表明します。球団側は留意し、ファンも中畑続投を求めましたが、最下位の責任は誰かが取らなくてはいけないしケジメも必要だと中畑は譲りませんでした。後任監督はラミレスとなり、ベイスターズは新たな門出となりました。

社長 池田純の戦い


選手ミーティングへの出席

弱冠35歳で球団社長に就任した池田は、TBS時代の失敗はチームとフロントの軋轢にあったことを理解していました。そのためチームとの溝を埋めるべく、選手ミーティングには自ら出席して選手の声を聞くようにしました。中畑監督やコーチ陣にも社長の出席に難色を示されますが、ミーティングには口を出さないことを約束して、それを守り続けました。

当初は社長が側にいることで選手らの口も重くなりがちでしたが、社長がいるのが当たり前になってくると、失策の責任など重い話で選手が口々に発言するようになります。見ている側には単純な捕球ミスに見えても、ベースカバーの遅さが送球を迷わせるようになっていたことや、グランド内で発生していた選手しか知らない予想外の出来事などを口にする選手が増えていきました。やがてミーティングは活発に発言する選手が増え、池田はミーティングの重石になっていきました。

ベイスターズのブランディング戦略

TBS時代のグダグダ運営により、横浜スタジアムはガラガラの客席に罵声が飛び交うスタジアムのイメージが定着していました。さらにパチスロの音楽をテーマ曲にする選手や、ラッパーのようなヘアスタイルの選手など、当時のベイスターズは野暮ったいイメージがありました。そんな状態では家族連れの観客を呼び込めませんし、ファンクラブの増員も見込めませんでした。そこで池田は徹底したイメージ戦略を行います。

池田が狙ったのは、アクティブなサラリーマンとその家族でした。横浜スタジアムを仲間や家族と過ごすエンターテーメント空間にするため、チームカラーを海を表す鮮やかな青に変え、日本初の鉄道路線(新橋〜横浜)の歴史を表す列車の汽笛をスタジアムに流しました。このように池田は横浜の地域性と歴史を全面に押し出し、地域交流に力を入れていきます。ベイスターズの選手やコーチは、保育園、幼稚園、小学校に積極的に出向き、野球の魅力を伝える活動を展開させました。

池田は横浜市との連携を深めていき、子供の体力向上や地域活性化などの行政課題に協力する体制を構築しつつ、学校給食にベイスターズの選手寮と同じカレーライスを提供するなど、チームの売り込みも欠かしませんでした。こうしてベイスターズは徐々に、横浜市民との距離を縮めていき、ファンを増やすことに成功していきます。

横浜スタジアムのTOB

そして池田には、ベイスターズの黒字化という難事業がありました。ベイスターズは慢性的な赤字体質で、その大きな要因は横浜スタジアムの使用料の高さでした。使用料は年間8億円を超え、加えてチケット収入の25%を渡す必要があり、さらにスタジアム内ではグッズも売れませんでした。球場の広告収入はスタジアムのもので、ベイスターズはスタジアムに支払う一方で得るものがほとんどなかったのです。そこで池田は、使用料の値下げ交渉を行います。


そこにスタジアム運営会社の会長である藤生幸夫が待ったをかけます。「ベイスターズは横浜から出て行け。ベイスターズがいなくても何も困らない」とメディアに発言して、ベイスターズと横浜スタジアムの溝が浮き彫りになりました。池田は横浜スタジアム株主を集めてTOB(株式公開買付)の説明会を開催しました。しかしまだまだTOBに馴染みがなかったことに加えて、TBSによってベイスターズがメチャクチャにされた後遺症、DeNAという新興企業に対する信頼感の不足などが重なり、説明会では池田を糾弾する場になってしまいます。

しかし池田はコツコツと説明会を続けることで、TOBの意味と狙いを説明して徐々に信頼を得ていきます。さらに中畑監督を中心に、チームがボロボロになってもなんとか勝利を目指して戦う姿と、それを根気強くサポートし続けるDeNAの姿勢を見て、株主らの態度も軟化していきました。そして前半戦だけなら単独首位だった2015年は超満員が続き、観客動員数は181万人、座席稼働率は90%という大盛況に終わりました。しかし球団は3億円の赤字という結果になり、これがスタジアムの株主達に衝撃を与えます。

ここにきて株主達は、池田が訴え続けてきたことの意味を理解したのです。このままではどんなに満員にしてもベイスターズの維持が不可能になり、ベイスターズが横浜から離れなくてはならなくなる日が来るのは確実でした。株主達はベイスターズを横浜に残すために、ベイスターズをDeNAに任せた方が良いと考えるようになり、TOBが一気に進みました。横浜スタジアムを買収したベイスターズは黒字化に成功し、チームを盛り上げれば利益が出る健全な経営体制に変貌しました。

ラミレス監督体制での成功

ラミレスは広告塔として積極的にパフォーマンスを行った中畑清と異なり「監督が選手より有名ではいけない。選手が注目されるべき」と、目立った言動を控えていました。そしてチーム内のコミュニケーションを重視し、選手をやる気にさせることを大事にしていきました。体たらくのチームにまず喝を入れる監督を入れ、チームがまとまってきたら自主性を重んじる監督を登用したわけです。

ラミレス体制の2016年は、出だしこそ不調ながら怪我で戦線離脱していた主力が復帰すると調子を取り戻し、さらに投手陣が好投するようになると見違えるような強さを見せ始めました。シーズンを終わってみれば3位で、11年ぶりのAクラス入りと初のクライマックスシリーズ出場を果たしました。セカンドステージで広島に敗退するも、DeNA体制になってから最高成績にチームもファンも盛り上がりました。

2017年は前年からの勢いそのままで、早い時点から上位争いに加わります。8月の広島戦では2-5の劣勢で9回裏を迎え、筒香・ロペス・宮崎の三者連続本塁打でサヨナラと、プロ野球初の記録を打ち立てました。この広島3連戦は全てサヨナラ勝ちで、ファンを大いに盛り上げていきました。さらに3位を確定させるとクライマックスシリーズに進出して、セカンドステージを勝ち抜き日本シリーズに出場しました。DeNA体制になってから6年で、チームは劇的に復活したのです。

まとめ

どん底に落ち、最下位が定位置で罵声ばかりが響くスタジアムに、挨拶すらまともにできず、自己管理もできず練習もまともにしない選手しかいないチームが横浜ベイスターズでした。そこから6年かけてベイスターズは日本シリーズを戦うチームに変化しました。この劇的な復活は、プロ野球史に残る戦いだと思いますし、もっと語り継がれて良いと思います。


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