井上尚弥は逃げたのか? /アンチの言い分を聞いてみる

歴代の日本人世界王者が絶賛し、世界的にも高い評価を得ている井上尚弥ですが、これだけ絶賛されると一定数のアンチが出てきます。彼らは井上尚弥は強豪から逃げ回っていて、弱い相手を選んで試合をしていると主張しています。その中には笑ってしまうほど見当違いのものもありますし、なんとも微妙なものもあります。そこで今回は、井上尚弥が逃げたと言われている選手に関して書いていきたいと思います。


そもそも対戦相手から逃げるとは

古くから世界王者が強い挑戦者を回避して、王座を保持し続けることがありました。そこで指名試合という制度が生まれ、世界王者は一定期間内に最上位の世界ランカーと試合することが義務付けられました。しかしなんだかんだと理由をつけて逃げ回る世界王者がいるのも事実で、たびたびその行為が議論になります。もちろん指名試合は行わなければなりませんが、ボクシングの試合は興行でもあり、ビジネスとして成立しなければ試合が組まれないこともあるのです。

五輪で2度の金メダルに輝いたギレルモ・リゴンドウはプロでも世界王者になりますが、試合が面白くないと言われ続けて興行の利益は厳しいものでした。さらにリゴンドウのマネジメント会社がペーパーカンパニーだとわかると、彼の背後にいる怪しい人物達が噂され、なかなか試合が組まれなくなりました。リゴンドウの実力は間違いないのですが、興行として厳しいとファイトマネーは下がりますし、最悪の場合は試合が組まれなくなってしまいます。

※ギレルモ・リゴンドウ

複雑なビジネスの中にボクシングは存在し、両者が試合を望んでも簡単には実現しないことがあるのです。そのためファンが望んでも試合が実現しないことは珍しくありません。ネットに「○○は□□から逃げている」と書かれていることの何割かは、単にファンが望んでいる試合が実現しないから逃げていると言っているだけだったりします。逃げているのと、試合が組まれないのは全く意味が異なるのです。

ローマン・ゴンザレスから逃げた?

ローマン・ゴンザレス(以下、ロマゴン)は、ミニマム級からライトフライ級までの4階級を制覇し、リング誌のパウンド・フォー・パウンドにも選ばれた名王者です。井上がロマゴンから逃げたと言われるのは2回あり、1度目はロマゴンがフライ級王者だった時です。井上尚弥はライトフライ級王者でしたが、ロマゴンの名前を口にしていました。しかし井上はフライ級を飛ばしてスーパーフライ級に転向したため、ロマゴンから逃げたと言われているのです。


当時の井上尚弥はライトフライ級まで体重を落とすのに苦労しており、階級を上げるのは必然になっていました。そこでWBAフライ級王者のファン・カルロス・レベコに挑戦してフライ級に上げる準備をしていました。しかしレベコが左腕上腕の筋肉を裂傷するトラブルがあり、しばらく試合ができなくなってしまいました。怪我が治ってもレベコは延期になったWBA暫定王者のヨーッモンコン・ウォー・センテープと対戦しなくてはならず、井上尚弥との試合はいつになるかわからない状況になってしまいます。そこでレベコ側のプロモーターは、その穴埋めとしてWBOスーパーフライ級王者のオマール・ナルバエスとの試合をオファーしてきました。


この流れに加えて、フライ級でもかなり体重が厳しかった井上尚弥はスーパーフライ級に上げることを決めて、ナルバエスと対戦してWBOスーパーフライ級王座に就くことになります。対戦相手の都合でスーパーフライ級に上げたわけですが、不幸にもこの試合で拳を骨折した井上尚弥は約1年間も試合ができなくなってしまいました。

2度目はロマゴンがスーパーフライ級に上げて、WBCスーパーフライ級王者だった頃です。井上尚弥はWBOスーパーフライ級王者だったため、統一戦が期待されました。しかし結果的に実現しなかったため、井上尚弥がロマゴンから逃げたと言う人がいます。実際には試合に向けて交渉は何度も行われていて、大橋ジムも交渉が進まないもどかしさを口にしたこともあります。なかなか話がまとまらない中、井上尚弥自身の体が大きくなりウエイトコントロールが厳しくなってしまいました。そんな時に、ロマゴンがまさかの番狂わせで王座陥落してしまいます。この試合でゲスト解説をしていた井上尚弥は、呆然として「言葉が見つからない」と言っていました。さらにロマゴンはダイレクトリマッチでKO負けしてしまい、ロマゴンの商品価値が急落してしまいました。

当時の井上は全勝街道を走り続けるロマゴンを倒して、世界的な注目を集めてアメリカデビューすることを目指していました。しかしロマゴンの敗戦によりこのシナリオは大幅に変更する必要が出てきて、バンタム級に上げることになりました。井上尚弥がロマゴンから逃げて階級を上げたというより、ロマゴンがコケてしまったのです。対戦を希望されファンもその対戦を熱望するカードが、さまざまな事情で流れてしまうことはボクシングでは珍しくありません。ロマゴンと井上尚弥のケースもそういったケースの一つだと言えるでしょう。

ジョンリル・カシメロから逃げた?

井上尚弥がジョンリル・カシメロから逃げていると本気で思っている人がいて驚いたのですが、逃げるも何も両者は試合が組まれていました。2020年4月25日にラスベガスで両者の試合が行うことが発表されましたが、世界的なコロナ禍によって延期になっています。カシメロは早くからアメリカ入りしており、井上尚弥は日本で調整してアメリカに入る予定でした。ところがコロナ禍によってアメリカでは入国制限が始まり、さらに感染拡大の危惧から大会場でのイベントが問題視されて延期が決定しました。


その後、この試合は無観客で行うことが検討されました。しかし無観客では入場料が取れないため、両者のファイトマネーは大幅な減額を要請されます。元からファイトマネーが低いカシメロ陣営は経費倒れを心配したのか、そのファイトマネーには納得せずに試合をキャンセルしました。そしてこの後からカシメロの過激なトラッシュトークが始まり、「井上は俺から逃げている」と言うようになりました。井上尚弥がカシメロから逃げていると思っている人は、カシメロの発言を真に受けているのだと思います。

その後のカシメロは、ノニト・ドネアと対戦する予定でしたがドーピング検査の書類提出が遅れたうえにドネアのマネージャーでもあるレイチェル夫人を屈辱したとして、ドネアから試合をキャンセルされています。ギレルモ・リゴンドウ戦に勝利した後、ポール・バトラーとの防衛戦の前日軽量を胃腸炎だとしてドタキャンして試合が延期され、フィリピンでは17歳少女に性的虐待を加えたとして告発され、延期されたポール・バトラーとの試合は直前にサウナを使って医療ガイドライン基準違反で中止されました。相次ぐトラブルでWBOはカシメロの王座を剥奪しています。こんな状態のカシメロと戦うメリットが井上尚弥には全くなく、今も試合をしないのは当然だと言えるでしょう。

BOXING NEWS 24の見解

ボクシングの専門サイトBOXING NEWS 24内のコラムでは、井上尚弥がバンタム級タイトル戦でゾラニ・テテやライアン・バーネットではなく、バンタム級王者の中で最も弱いジェイミー・マクドネルを選んだことを皮肉っていましたし、スーパーフライ級時代には強豪との対戦から逃げた書いていました。確かにスーパーフライ級時代は強豪との対戦がなく、対戦レコードを見ても物足りなさを感じます。ただしファン・フランシスコ・エストラーダやシーサケット・ソールンビサイらと対戦していないのを、井上尚弥が逃げたというのはちょっと違うのではないかと思います。

※ジェイミー・マクドネル戦

先にも書いたように、井上尚弥が狙っていたのはスーパーフライ級最強だったロマゴンで、ロマゴンに勝利することで世界的な地位を手に入れて、アメリカデビューを目論んでいました。エストラーダやシーサケットに勝利してもインパクトは小さいので、彼らとの試合の交渉はしていなかったと思います。

特に減量がキツくなってからは強豪と立て続けに試合をするのはハイリスクなので、ロマゴン以外との試合は全く考えていなかったでしょう。カルロス・クアドラスとすら試合をしなかったため、あらゆる強豪を避けて弱い選手とばかり試合をしていると言われても仕方ない面があるのはわかりますが、井上陣営の事情を考えると「逃げた」と書くのはフェアではないと思います。

強豪と対戦せずにバンタム級に上げ、ジェイミー・マクドネルと対戦した井上尚弥に深い失望を書いていたBOXING NEWS 24ですが、WBSSに参戦して優勝すると、こういった論調は消えました。さらにドネアとの連戦には高い評価を与えており、現在のBOXING NEWS 24は独自ランキングでバンタム級王者に井上尚弥を選んでいます。

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望めば対戦できるわけではない

ファンとしては痺れる対戦カードを見たいところですが、さまざまな事情や思惑が交錯して簡単には実現しないカードが沢山あります。それを全て「逃げた」と言い出したら、井上尚弥に限らず多くの世界王者が逃げたことになってしまいます。プレステのゲームみたいに、対戦させたいと思ったらすぐに対戦が決まるわけではありません。

また「日本人ボクサーは国内でしか試合をしない」という批判が出ることもありますが、アメリカのボクサーも試合会場がラスベガスかニューヨークかでの綱引きはありますし、その他にもマイアミやリノ、フィラデルフィアの2300アリーナなどで開催されることがあります。会場での綱引きもビジネスベースの話で、軽量級のボクシングは日本で行うのが最も高いファイトマネーが設定できるケースが多いので、多くの試合が日本で行われるのです。しかし試合会場で揉めるケースも多く、互いに対戦を希望していても会場が決まらず試合が流れることも珍しくありません。

まとめ

井上尚弥が逃げたというのは、ほとんどが誤解だと思います。ファンが望んでいる試合であっても、さまざまな権利やタイミングの問題が重なって、実現できない試合はたくさんあります。それを逃げたと言い出せば、多くの選手が対戦相手から逃げていることになります。全盛期のマイク・タイソンでさえ、イベンダー・ホリィフィールドから逃げていると言う人もいました。実際には既に先の数試合が決まっていたため、ホリィフィールドとの試合が決まらなかっただけなのです。このように「逃げた」と言われるのは、多くの勘違いが生んでいます。ましてや井上尚弥は、強い相手と戦うことを大橋ジムとの契約条件に入れたほどの選手です。それほどの選手が逃げたなんて考える方が、ナンセンスだと思います。


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