テニスで起こった性別間の戦い /ビリー・ジーン・キングの挑戦

 1973年9月20日、ヒューストンのアストロドームには満員の観客が詰めかけ、全世界で9000万人の視聴者がテレビに釘付けになっていました。テニスコートには普段とは違う熱気が漂い、29歳のビリー・ジーン・キングはクレオパトラのような王座に座り、古代の奴隷スタイルの男性らに担がれてコートに登場しました。この時点で、キング夫人に期待をする観客はごく少数でした。多くの関係者はキング夫人に悲観的な予想をしていたのですが、本人は自信に満ちており、自分の勝利に多額の現金を賭けていました。こうして「性別間の戦い」Battle of the sexesと名付けられた女性対男性のテニスのシングルマッチが始まりました。


※本記事ではビリー・ジーン・キングの略称として「キング夫人」を使用します。これは私の記憶する限り、70年代から80年代にかけてメディアでは「キング夫人」と呼ばれていたからです。

ビリー・ジーン・キングとは

1943年にカリフォルニア州ロングビーチに生まれます。消防士の父はバスケットボールと野球が得意で、専業主婦の母は水泳が得意という家系で、弟はのちにサンフランシスコ・ジャイアンツの投手になっています。ジーンは野球とソフトボールが得意な子供でしたが、両親はもっと女の子らしいスポーツをして欲しいと望み、テニスを勧めました。お小遣いで8ドルを貯めてラケットを購入すると、学校の友達と一緒に無料のテニスレッスンに通いました。

そこからテニスにのめり込み、13歳の頃には世界一のテニス選手になると公言していました。高校でもテニスを続け、カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校に進学しますが、1964年にプロになるべく大学を中退しています。ちなみにこの大学で、後に結婚するラリー・キング(CNNで放送されていたラリー・キング・ライブのホストとは別人)と出会っており、65年に結婚してキング夫人になりました。


そこからはキング夫人の快進撃が始まります。66年と67年、68年はウィンブルドンで優勝し、67年は全米選手権(現在の全米オープン)、68年は全豪選手権(現在の全豪オープン)でシングルと混合ダブルスで優勝しています。そして四大大会にプロの出場も解禁になり、現在のオープンに変わっても強さは健在で、71年は全米オープン優勝、72年は全仏オープン、ウィンブルドン、全米オープンで優勝しました。キング夫人はプロ解禁と同時に自身もプロになり、トッププロとして君臨しました。

※マーガレット・コート

この頃のキング夫人の最大のライバルは、マーガレット・コート夫人でした。69年の全豪決勝では直接対決でコート夫人に軍配が上がり、70年はコート夫人が年間グランドスラムを達成しています。2人は女子ランキング1位を巡って戦い、また年間賞金ランキングでも激しく競いました。このように当時のキング夫人は紛れもなくトッププロであり、女子テニス最強の一角でした。

女子選手の不満

キング夫人やコート夫人だけでなく、多くの女子選手が男子に比べて賞金が著しく低いことが不満になっていました。時代は60年代から始まっていたウーマン・リブが吹き荒れており、男女同権が叫ばれる中で女子の賞金が男子の1/4や1/8という現状が問題視されるようになりました。

1970年にキング夫人らは全米テニス協会に対して、賞金の男女格差をなくすように求めました。しかし全米テニス協会はこれを拒否したため、キング夫人の夫のラリー・キングが、ワールドテニスマガジン創設者のグラディス・ヘルドマンやフィリップ・モリス会長のジョセフ・カルマンの財政支援を受けて、女性だけのテニストーナメントをテキサス州ヒューストンで開催しました。さらにキングは女子テニスのための団体作りに着手し、72年にタバコ銘柄のバージニアスリムをスポンサーに、女性だけのプロ選手権を開催します。バージニアスリム選手権と名付けられたこの大会は、1973年にフロリダ州で第一回大会を開催しました。

※バージニアスリム選手権を宣伝するキング夫人とコート夫人

この大会は現在のWTAファイナルズになり、またこの時のメンバーを中心に女子テニス協会(WTA)が設立されました。また9人の女性選手によるツアーを開始し、こちらもバージニアスリムがスポンサーになって、バージニアスリムサーキットと名付けられました。これが現在のWTAツアーになっていきます。キング夫人と夫のラリー・キングを中心に、女性テニス選手の地位向上は着実に進められていきました。

女性選手への批判

このような動きに対して、批判も多く集まりました。試合レベルの低い女子選手の試合で同額の賞金を出すのはおかしいという主張は多く、キング夫人の前に立ちはだかります。確かに女子テニスは男性に比べてスピードが遅く、パワフルさがなく、迫力に欠けました。一部には、賞金額を決めるのは競技の強さではなく集客力だという声もあったようですが、これは少数派だったようです。

男性と同じ条件を求めるフェミニズムと、男性と同じ賞金額を出すのはお門違いという意見は真っ向から対立していきます。こうした中で、1940年代に活躍した男子選手のボビー・リッグスが声高に批判を始めます。女子選手のレベルは低く、55歳の自分でも女子のトップ選手に勝てると宣言しました。リッグスは170cmと男子選手の中でも背が低く、ボールコントロールとスピードでウインブルドンを制した選手です。55歳になってスピードは失われていましたが、それでも女子選手相手には十分だと自負していました。

※ボビー・リッグス

リッグスは女性テニス選手の活動に中心的な人物であるキング夫人に電話し、試合を申し出ました。しかしあまりに馬鹿げた提案にキング夫人は却下します。30歳も年上で現役を引退して20年にもなる選手との試合は、あまりに非現実的に思われたのです。しかし諦めないリッグスは、コート夫人に電話して挑戦を申し出ます。この申し出をコート夫人は受けました。こうして女子選手と男子選手の戦いというエキシビションが開催されることになります。

コート夫人の戦い

1973年5月13日、カリフォルニア州ラモーナのテニスコートに5000人のファンが詰めかけました。母の日にちなんで、リッグスはコート夫人に花束を贈りました。コート夫人はそれをお辞儀して受け取り、穏やかな雰囲気でエキシビションは開催されます。しかし試合は一方的な展開になり、リッグスはドロップショットとロブを多用してコート夫人を圧倒しました。6-2、6-1のストレートでリッグスは勝利し、この試合は母の日の虐殺と呼ばれて報じられました。タイム誌とスポーツ・イラストレイテッドはこの試合写真を表紙に使っています。後にコート夫人は「リッグスを軽蔑して扱い、どんな相手に対しても敬意を払わなかったのは大失敗だった」と認めています。

※コート夫人とリッグス

全米から注目を集めることになったリッグスは、テレビカメラの前で女子選手のレベルの低さをアピールします。それは罵倒に近いものになっていき、リッグスが口汚く罵れば罵るほど注目が集まっていました。そんな中で、リッグスは再びキング夫人に電話をします。リッグスにフェミニストと呼ばれたコート夫人は、私はテニス選手でたまたま女に生まれただけだとリッグスの挑戦を受けました。試合びは1973年9月20日、場所はテキサス州ヒューストンのアストロドームでした。

キング夫人は同じ週にバージニアスリム選手権があり、疲れが心配されました。対するリッグスは現役を引退しているため、この試合だけに集中することができます。そして4ヶ月前にリッグスがストレートで倒したコート夫人はキング夫人の最大のライバルでもありました。そのためキング夫人の勝ち目はほとんどないと思われました。一部にはリッグスがキング夫人をコートでいたぶる虐殺ショーと揶揄する者もいて、ラスベガスのオッズもリッグスに大きく傾いていました。しかしキング夫人は、大金を自分の勝利に賭けました。彼女には大きな自信があったのです。

勝利を確信しているリッグスの元には、キング夫人に勝った後の試合の話も来ていました。相手はバージニアスリム選手権で優勝したクリス・エバートで、多額の賞金もオファーされていました。ギャンブル好きのリッグスには借金があり、これはとても魅力的なオファーでした。対するキング夫人は、この試合が女子テニスの未来を変える可能性があると感じていましたし、女性解放運動にも影響すると思っていました。後に彼女は「あの試合に勝てなかったら、50 年は後戻りするだろうと思った。それは女性のツアーを台無しにし、すべての女性の自尊心に影響を与えただろう」と語っています。

バトル・オブ・ザ・セクシーズ Battle of the Sexes

※クレオパトラのように入場するキング夫人


クレオパトラのようにコートに入ってきたキング夫人に対し、リッグスは大勢のモデルを引き連れて人力車に乗って登場しました。キャンディ会社をスポンサーに巨大なロリポップをプレゼントしたリッグスは、余裕を持って試合に入ります。アストロドームに集まった3万人の観衆の前で、試合は始まります。そして試合はリッグスが主導権を握りました。しかし2-3に追い詰められてから、キング夫人の逆襲が始まります。この試合を見た70年代の女王マルチナ・ナブラチロワは「キング夫人は、相手が打ちたくないボールを打たせる方法を知っていた」と語っています。リッグスはバックハンドが強くなかったのです。

※マルチナ・ナブラチロワ

キング夫人はリッグスのロブを研究していて、完璧に近い対策ができていました。そしてキング夫人は足腰の強化に取り組み、スピードとスタミナに絶対的な自信を持って挑んでいました。リッグスは左右に振り回され、55歳のスピードの無さが露呈していきます。キング夫人は日頃から「ボールが何をすべきか教えてくれる」と語っていましたが、彼女は高度な戦略家でもありました。リッグスは完全に封じ込められて1セットを4-6で落としました。

第2セットのリッグスはトップスピンが上手くかからず、速いボールを打ち返せなくなりました。キング夫人は優位なポジションで試合を続け、リッグスは立て直しができないままずるずるとゲームを落とすことが増えていきます。第2セットをラブゲームで締めると6-3でキング夫人が奪取しました。後がなくなったリッグスは第3セットに入るとサーブ&ボレーを多用しはじめます。ここでようやくリッグスはキング夫人のフォアハンドが弱いと気づき、あえてフォアで打たせる方が良いと判断しました。しかしそれは遅すぎました。


4-2でキング夫人がリードした時、リッグスの手は痙攣しはじめました。思うようにラケットが握れず、リッグスは治療のために負傷タイムアウトを要求します。しかしキング夫人の体も限界が近づいていました。足に痛みが出始め、腕に痙攣が出ていました。彼女はそれを隠し、痛みに耐えながらリッグスを追い詰めます。ついにマッチポイントに追い詰めますが、リッグスも意地を見せて粘ります。3回目のマッチポイントでキング夫人が勝利し、ついに女性と男性の戦いが終了しました。キング夫人の勝利でバトル・オブ・ザ・セクシーズは終わったのです。

試合結果への批判

男性優位主義者は、この試合結果を認めずに批判を始めました。彼らは男性が女性に負けたことが、悔しくて仕方なかったのでさまざまな言い訳を考え出しました。一部で真剣に言われたのは、リッグスはギャンブルを返済するために自分の負けに多額の金を賭けていたというものです。しかし先に書いたように、リッグスは勝利すればクリス・エバートとの試合が予定されており、その試合はキング夫人よりも多額の賞金が掛けられる予定でした。リッグス自身も、多くの人がキング夫人を過小評価していると、疑惑を完全否定しています。

しかしニュートラルに試合を見ていた人の多くは、キング夫人の巧みな戦術と試合運びに感銘を受けました。彼女はグランドストロークで何度もリズムを変化させ、リッグスをコーナーからコーナーに走らせました。またリッグスのバックハンドが弱いと知ると、リッグスに絶えずバックハンドを打たせ、試合を支配していきました。テニスでは高度な戦略で、パワーに勝る相手を痛めつけることができると証明したのです。この試合は、そういった意味でも価値があるものになりました。

その後のキング夫人

73年にキング夫人はウインブルドンを制しました。この年はコート夫人がリッグスに負けた鬱憤を晴らすように、全米・全仏・全豪の三冠に輝いています。キング夫人は74年には全米オープン、75年にはウィンブルドンを制して、その後も第一線で戦い続けました。途中から散発的な参戦になりましたが、1990年頃までコートに立ち続けています。またWTAの発展にも尽力しましたが、その中でトランスジェンダーのレニー・リチャーズの参加を巡って批判されるなど、何度も波紋を起こしています。


晩年に彼女は「私はテニスコートの外で色々とやりすぎた。もっとテニスに集中していればよかった」と語っていますが、現在のWTAの人気や女子テニス選手の地位を上げることに彼女が貢献したことは間違いありません。現在、アスリートが何十億円も稼ぎたいと思うなら、男性には沢山の選択肢があります。野球、バスケットボール、サッカー、ボクシングなどでは、男性は成功すればビッグマネーを稼ぐことができます。しかし女性アスリートが何十億も稼ぎたければ、ゴルフとテニスぐらいしかありません。キング夫人がリッグスを打ち負かし、女性スポーツの価値を高めた貢献は他の選手にはないものだと思います。

まとめ

キング夫人は賞金の男女差に不満を唱え、男性優位が当たり前だったテニス界に一石を投じました。男女の戦いという非常識とも取れる戦いに見事勝利し、それまでの常識を覆して見せました。その後、男性から女性に性転換した選手が女子ツアーに参加するのを拒否したため、物議を醸し出すことにもなりましたが、この問題はまさに今日まで繋がる大きなテーマだっただけに、当時は批判されたキング夫人が一概に悪いとも言えません。本人はもっとテニスに集中したかったと語っていますが、彼女がいなければ、現在の女子テニスはもっと違ったものになっていたように思います。


コメント

  1. 失礼します。ホテルニュージャパンの記事にコメントさせて頂いたものです。至急該当記事のコメントを見ていただけないでしょうか。

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    1. コメントを見落としていました。失礼しました。先ほど返事を書いておきました。

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