豊田章男という異端児 /現地現物主義とカイゼン
以前、トヨタの社員に「豊田章男社長は社内でどう見られているのか?」と尋ねたところ、「熱狂的に支持している人と徹底的に嫌っている人がいますね。まあ、大半の社員は社長だからついていきますって感じですが」と言っていました。なぜ社内で好き嫌いがはっきり分かれてしまうのか、それは豊田章男氏の足跡を追うと見えてきます。そこで今回は「トヨタ自動車の突然変異」とも言われる、豊田章男氏について見ていきたいと思います。以下、敬称略です。
創業者一族の御曹司として生まれて
豊田章男は1956年に名古屋で生まれました。父はトヨタ自動車の4代目社長で経団連会長でもあった豊田章一郎です。トヨタ自動車創業者の一族であり、社長の章一郎の長男として生まれた章男は、幼少期から特別視されていました。しかし幼い頃は、そんな視線を意識することなく元気に走り回っていたそうです。子供の頃の夢はタクシー運転手で、父を毎日送り迎えする運転手の姿に憧れたからだと語っています。
※豊田章一郎 |
やがて小学校、中学校へと進むにつれて、自分が周囲とは異なる目で見られていることに気づきます。愛知県でトヨタは絶対的な存在です。そこの御曹司なのですから、周囲は常に章男を特別視しました。やがてその視線は息苦しさを伴うようになり、章男を苦しめるようになります。頑張って勉強してテストで良い点をとっても「さすがトヨタの御曹司」と言われ、何かに失敗すると「トヨタの御曹司なのに」と言われます。どこに行っても「どうせ社長の息子」と言われ続けたことで、章男は誰も自分のことなど見ておらず、トヨタの御曹司としてしか見られないことが嫌になっていきます。
愛知県での息苦しさもあったのか、高校は神奈川の慶應義塾高等学校に進学し、大学も慶應義塾大学法学部に進みます。ここで章男はホッケー部に入り、他の1年生同様に下働きをすることになります。ホッケー部ではただの1年生部員として扱われ、特別視されることが減ったために居心地がよくなり、ホッケー部の活動に注力していきます。やがてホッケー日本代表にも選ばれますが、日本がモスクワ五輪をボイコットしたためオリンピアンにはなれませんでした。そして大学を卒業するとアメリカのビジネススクールに入り、MBAを取得しています。
トヨタへの入社
MBA取得後は、アメリカの投資銀行のA.G.ベッカーに入社します。しかしアメリカでもトヨタブランドは健在でした。会社はトヨタの御曹司である章男が入社したことを公言し、社内でも特別視されるようになりました。これにより章男は人間関係に悩むことになります。そんな姿を見た上司が「同じ苦労をするならトヨタのために苦労したらどうか」と語り、この言葉で帰国を決意しました。社長であり父の章一郎は「お前を部下にしたいという人間はトヨタにいない」と戒めますが、他の社員同様に入社試験を受けて入社することを認めました。
しかしトヨタに入社すると、これまで以上に特別視されることになります。同期社員は下手なことをすると出世の妨げになるかもしれないと章男を避け、一部の上司は媚びへつらってきました。誰もが章男の前では言葉を選び、この異常な雰囲気に章男自身も「トヨタは俺がいない方がいいんじゃないか」と悩むようになります。しかし章男が工場勤務を希望し、工場に配属されると転機が訪れます。そこの上司である林南八は章男を新入社員として扱い、叱りつけて鍛え上げていきました。それは章男にとって、特別視されない心地良い環境でした。後にここでの経験が、現地現物に対して拘りを持つことになります。
各部署で経験を積む
それから財務部や生産調査部に異動しますが、現場で確認することの重要さを強く感じていきます。そして生産調査部で係長になり、友山茂樹という若い部下を持つことになります。当時、仕事への情熱を失っていたため転職も考えていた友山は、章男の無茶な行動力に驚かされることになります。友山は章男をエリートのお坊ちゃん上司だと思っていました。しかし疑問があると現場に出かけて問題を解決する姿勢は時に非常識で、それまでの上司にない姿でした。章男は一旦は係長から平社員に降格されられたもしますが、こうして徐々に頭角を表していきます。
※友山茂樹 |
この時出会った友山は、これから長く章男の右腕として活躍することになります。2021年1月に友山は退任しますが、その原因は章男の逆鱗に触れたからだとメディアに書かれたりしていました。その真相はわかりません。しかしこの生産調査部で暁生と友山が知り合ってから、約30年に渡り二人は共に戦い続けることになります。
GAZOOの誕生
そして1996年に営業部内に業務改善支援室が設置され、章男はリーダーになります。そして友山も章男に引っ張られる形で、ここに連れて来られました。もっとも営業部の面々からは面倒臭い部署が設置され、さらにエリート御曹司が派遣されてきたことで、煙たがられていました。章男は営業現場をカイゼンし、さらに車を売れるようにすることを目指します。しかし章男が張り切れば張り切るほど、営業部はシラけていきました。
章男は世間がインターネットに盛り上がっているのを見て、これを中古車販売に利用できないか考えます。中古車を下取りしてから整備し、販売するまでに最低40日は必要でした。そこで下取りと同時に写真をインターネットに掲示すれば、整備中から商談ができるのではないかと思ったのです。現在の視点で見れば当たり前すぎる販売手法ですが、当時としては画期的な考えでした。この当時の中古車販売は、整備が終わった車を中古車情報誌に掲載してもらうのが主流だったのです。
しかしこの案は営業部に猛反対されます。インターネットへの理解が低かったことに加えて、官僚組織のようになっていたトヨタは新しいものを嫌う体質だったのです。webサイトを立ち上げるための費用は会社から全く出ませんでした。そこで章男はポケットマネーから10万円を下ろし、部下を引き連れて秋葉原に向かうとパソコンの部品を購入しました。友山の家にパーツを持ち込むとみんなで組み上げ、章男のインターネットによる中古車販売はここから始まりました。
こうしてUVISという中古車画像検索システムを作り上げると、次はこれを利用してくれるトヨタの中古車ディーラーがを探しました。営業部が反対しているので協力してくれるディーラーは簡単には見つからず、章男はディーラーに足を運んで頼み込みを行います。なんとか手伝ってくれるディーラーが見つかると試験導入をしました。その結果、下取りしてから契約まで40日かかっていたのが30日以下になり、ディーラーの販売スペースはそのままなのに1.7倍の売上になりました。これを全国展開するべきだと章男は提案しますが役員達は猛反対し、さらにトヨタの名前を使うことは認めないと言われます。
トヨタの名前が使えないため、章男と友山は独自のネーミングを考案することにしました。以前、画像ファイルをgazooとスペルミスしていたことがあり、画像+動物園(zoo)を合わせてGAZOO(ガズー)という名前を思いつきました。GAZOOはトヨタ非公式システムとして運用し、章男は試験運用の実績を元に全国のディーラーを訪ねて利用を促しました。現在、トヨタの情報サービスサイトGAZOOが誕生した瞬間であり、これが後にル・マン24時間耐久レースやラリーで数々のタイトルを獲得するGAZOOレーシングに繋がります。
中古車検索サイトGAZOOは確実に実績を積み上げていきますが、トヨタ社内のやっかみや陰口が強くなり、ボンボンと思われていた章男が実績を挙げたことに対して風当たりが強くなります。ここから章男と友山はライバル会社ではなく、トヨタという会社と戦うことになってしまいました。
GAZOOの躍進
確実に利益を上げていくGAZOOはその手を広げていき、会員制webサイトGAZOO.comは中古車だけでなくオートバイ、日用雑貨、衣類、家電、DVD、ゲーム、本、旅行ツアーも扱うeコマース事業を展開し、99年末には会員数が50万人を突破しました。こうなるとトヨタ経営陣もGAZOOを無視できなくなり、それでもトヨタの名前を使わせたくない役員達は、2000年にカズーメディアサービス株式会社(現在のトヨタコネクティッド)を設立させました。章男が社長になり友山が副社長に就任しました。
2004年に商号をデジタルメディアサービス株式会社に変更すると、2006年には富士重工向けの「SUBARU G-BOOK」、2008年にはマツダ向けの「MAZDA G-BOOK ALPHA」を開始し、そのノウハウを利用してライバル企業からも受注するようになります。これはトヨタブランドを冠してないからこそ、実現できたとも言えます。そしてGAZOOの成功により、章男は2002年にトヨタの常務取締役、2003年に専務取締役に就任しました。しかし建前上、トヨタはGAZOOをまだ認めておらず、章男はトヨタでの実績がないかのように扱われていました。
そして役員になった章男はさまざまな仕事をこなすようになり、中国との合弁会社や世界戦略のIMVプロジェクトの推進、調達部門のカイゼンなどを行います。国内営業部門を任された際には、自らディーラーに飛び込み営業を行うなどして、奔走しています。役員になっても章男はあくまでも現地現物に拘り、奔走して汗を流していました。
成瀬弘との出会い
やがて章男は技術部門のカイゼンを任されることになりますが、縦割りで仲間意識の強い技術部門では誰も章男の話を聞きませんでした。技術部門の古参の社員達にとって、技術を理解していない役員は煙たがられましたし、ましてや新参の役員の章男のことなど相手にしたがらなかったのです。そしてテストドライブの現場に訪れた時に、トヨタのテストドライバーのトップに立つ成瀬弘に出会います。
※成瀬弘(右)と豊田章男 |
トヨタの車をもっと良くするために知恵を授かりたいと教えを乞う章男に、成瀬は運転のことすらわからない人に車のことをあれこれ言われたくないと言い、章男を追い返しました。成瀬はテストドライブという仕事に誇りを持っていました。その成瀬にとって、車を理解していない役員が、書類の数字だけを見て車を決定することにうんざりしていたのです。そしてここから章男が成瀬に頼み込んだという説、父親で元社長の豊田章一郎に仲を取り持ってもらったという説など諸説ありますが、章男は成瀬に弟子入りすることになります。
章男はトヨタスープラを使い、時には怒鳴られながら成瀬にドライビングテクニックを鍛えられました。休みを返上してテストコースにやって来ては練習を続け、必死に食らいつく章男を成瀬は少しずつ認めるようになります。やがてドライビングテクニックがついてくると章男は現場と同じ目線で会話ができるようになりました。そして章男は成瀬に連れられて、ドイツのニュルブルクリンクでのレースに参戦するようになります。当然ながら、これら章男の行動は役員会で浮いていました。
2007年、章男は成瀬に誘われる形でニュルブルクリンク24時間耐久レースに参加します。しかし役員会で猛反対され、レースへの参加もトヨタの名前を使うことも禁止されてしまいました。そこで章男はモリゾウの偽名を使ってエントリーし、役員会に内緒で参戦することにします。さらにチーム名にトヨタが使えないことから、GAZOOレーシングを名乗ることにしました。そしてレースでは無事完走し、章男はレーサーとしての自信を手に入れると同時に、技術部門でも一目置かれる存在になっていきました。レースの現場では年齢や肩書きなど関係なく、成瀬を筆頭にミスをすれば容赦無く怒鳴られます。トヨタの御曹司と言われ続けた章男にとって、レースは最も落ち着く場所になっていきました。
そしてここで成瀬から学んだことが、章男の車づくりのベースになりました。現在のトヨタの自動車には成瀬の思想が色濃く反映されており、成瀬の思想がトヨタの血液と言う人もいるほどです。
トヨタ86の英断
トヨタがスバル株式の8.7%を手に入れたことから、スバルがトヨタ傘下に入り、業務提携を行うことになりました。そこでトヨタとスバルでFRのスポーツカーを、一緒に開発しようという話が持ち上がりました。2008年4月に両社は共同開発をメディア発表し、後にトヨタ86、スバルBRZと名付けられる車の開発が始まります。トヨタは企画とデザインを、スバルは開発と生産を担当することになりました。
※トヨタ86(右)とスバルBRZ(左) |
このプロジェクトには、すでに副社長になっていた章男が「スポーツカーという車好きの王道、ここから逃げているのではないか」と発言したことも大きく影響したとも言われています。しかしここで開発を担当したスバルは大いに困ってしまいました。トヨタが提示したのは2000ccで200馬力のエンジンでしたが、環境規制が厳しい現在で1リッターあたり100馬力は難しかったのです。200馬力を達成するには高回転型のエンジンにしなくてはなりませんが、そうなると目標燃費も排ガス規制もクリアできませんでした。
困ったスバルのエンジニアはトヨタのエンジニアに相談を持ち込みました。説明を聞いて確かに2000cc200馬力は難しいとわかったトヨタのエンジニアは、トヨタ独自の直噴技術であるD4をスバルに提供すると言い出しました。トヨタのコア技術でありトップシークレットを他社に渡すという発言は、トヨタの幹部の中でも大議論を巻き起こしました。またスバルもエンジンの基本設計から見直すことになり、たった1台の車のためにそんなことまでするのかと大議論になります。
ここで副社長の章男は、議論し尽くしてからD4をスバルに提供する英断を下します。以前の官僚組織のようだと言われていたトヨタでは、考えられないような英断でした。こうして章男は確実に社内に足場を固めていき、役員の中で浮いていたものの存在感を示すようになっていきました。こうして完成したトヨタ86を発表した時、章男はトヨタの社長になっていました。
章男の社長就任
2009年1月20日、トヨタ自動車は人事を発表しました。社長の渡辺捷昭が退任し、章男がトヨタ自動車の社長に就任することが決まりました。しかしこれは捨て駒人事と言われた昇格で、章男はこの時のことを「あの時はまさに捨て駒だった。会社からは祝いの言葉も協力的な姿勢も、全く感じられませんでしたからね」と語っています。ではなぜこんなことになったのかと言うと、前年の2008年に起こったリーマンショックに原因がありました。
2008年には26兆円あった売上高が2009年には20兆円に、営業利益は2兆円からマイナス4500億円になっていました。経営陣の予想の甘さや対応の遅さは明らかで、これらの責任を経営者一族である章男に取らせようとする社長昇格でした。御曹司のバカ息子がやらかしたという筋書きは世間を納得させるには丁度よく、また経営陣の中でも浮いた存在である章男は恰好の標的だったのです。メディアもそれに同調し、章男の社長就任を「大政奉還」などと皮肉ったりしていました。
重なる不運と悲劇
リーマンショックによる大幅な赤字を抱えて社長に就任した章男でしたが、就任するとすぐに世界規模のリコール問題が発生します。さらに2011年3月には東日本大震災、同年7月にはタイの大水害で工場が操業停止になってしまいます。そして章男にとって大きな悲劇だったのは、2010年6月の成瀬弘の事故死でした。成瀬とともにトヨタ・スープラを復活させるという約束を、果たすことができなくなりました。恩師の死を悲しみに暮れる間もなく、章男はさまざまな問題と戦わなくてはなりませんでした。そしてここから章男にとって激動の時間になります。
レクサスリコール問題
2009年8月、カリフォルニア州サンディエゴでレクサスES350のフロアマットがアクセルに引っかかり、暴走する事故が発生しました。同年11月、カリフォルニア州パロス・バーデスでトヨタ・アバロンが急加速して縁石に激突する事故が発生しました。この直後に、トヨタのオーナーが集団訴訟を起こします。これはリーマンショックによりGMの売上が急降下し、アメリカ市場で禁忌と言われたGM以上の売上を出すことをトヨタがやってしまったために、トヨタバッシングが起こった側面も無視できません。
※下院公聴会で宣誓する豊田章男 |
2010年1月、アメリカ合衆国議会はこの問題の調査委員会を設置し、2月に章男を呼んで下院で公聴会を開きました。章男は犠牲者への追悼と謝罪、これから全力で問題に対応していくことを訴えました。章男は議員達から袋叩きにされますが、何度も何度も自分が全力で対応することを伝えました。辛辣な言葉と不信感を向けられ、章男の公聴会は終わります。しかしその公聴会を聞いたアメリカのトヨタサプライヤー、ディーラー等は章男を支持しました。章男はアメリカの現場の人々に支持されたのです。
その後アラバマ、ケンタッキー、インディアナ州の知事は、トヨタが不当に批判されていると声明を出し、トヨタを支持しました。一部のメディアは不公平なトヨタバッシングと報じ始め、徐々にですがトヨタに風向きが変わっていきます。トヨタの社長を逮捕せよというアメリカ国内の風向きに乗って章男の辞任を迫っていたトヨタ内部の勢力も、アメリカのディーラーやサプライヤーを味方につけた章男を抜きにして、この問題を解決できないと悟ることになります。
東日本大震災での奮闘
2011年3月11日に発生した東日本大震災は、東北地方に甚大な被害を与えると同時に、トヨタの取引先237社、659拠点を直撃しました。これによりトヨタの製造ラインは操業停止になる危機に陥り、トヨタにとって致命的なダメージになりかねない事態でした。この地震の直後、章男は社内に通達を出しました。
現場が自分の目で見て、いちばんいいと思うことをやってほしい。必要だと思ったら、その場で決めていい。即断、即決、即実行で復旧に取り組んでもらいたい。責任はすべて私が取る
と、現地現物主義で対応するように促し、さらに大事にするべき順序として(1)安全(2)地域の復興(3)生産の復旧を社内で繰り返しました。そして章男は会社を挙げて、被災したサプライヤーの復旧に取り組みます。サプライヤーとその家族を救うことはトヨタを救うことになると、各サプライヤーにトヨタ社員を派遣しました。それぞれのリーダーを指名すると、全て現場での即決即断で復旧することをお願いし、事務処理は本社の仕事にしました。
※東日本大震災 |
さらに全ての情報を集約し、現場で判断できないような大きな問題は直接社長の章男に相談する体制にします。それでも現場には「勝手に発注するな。書類が出ていない」などと言ってくる人もいたようですが、文句があるなら社長に言えの一言で現場スタッフは切り抜け、復旧だけに注力していきました。その結果、震災直後の3月末にはハイブリッド車の生産を再開し、4月中旬にはフル稼働ではないにしても全工場を稼働させることに成功しました。海外から奇跡の復興と言われたこのスピード復旧は、章男の現地現物が生み出したものでした。
そして復旧のリーダーの中には、章男が新入社員だった頃の上司である林南八もいました。阪神淡路大震災での復旧経験を聞いていた章男は、最も難しい現場の復旧に林を指名して全幅の信頼を寄せていました。林は章男の期待に応えて驚異的なスピードで復旧を実現し、現地現物主義の威力をトヨタ内外に知らしめることになります。
社内改革への着手
章男はトヨタについて、いつの間にか車を作るのではなくお金を作るのが仕事になっていたと語ります。世界的なリコール、東日本大震災という未曾有の危機を乗り越えた章男は社内の政敵も抑えて、強力なリーダーシップを発揮するようになりました。そして経営に自分の色を出すようになっていきます。典型的なのはスポーツカーの復活です。「トヨタがスポーツカーをビジネスにできなければ、どこのメーカーができるんだ」と、トヨタが長年離れていたスポーツカー市場に打って出ます。さらに車が壊れる環境で戦い、壊れない車を目指すとして、世界ラリー選手権(WRC)への参入も決めます。これは成瀬弘が言っていた「道が車を鍛える」という考えに基づいたものでした。
また社内ではトップダウンを推奨します。「トップダウンとは、部下に丸投げすることではない。トップが現場に降りて、自分でやってみせることだ」と、トップダウンとは現地現物主義であることを社内で訴えました。そして弛まないカイゼンを行うことこそがトヨタだと、あらゆるカイゼンを推し進めていきました。さらにカイゼンは社内に止まらず、自動車を作る会社からモビリティサービスの会社へとトヨタを変えていくことを宣言しました。モビリティサービスは自動車だけでなく公共交通機関も含めた全ての移動手段を1つのサービスとして捉えた考え方で、トヨタは社会全体のカイゼンを考えているようです。
まとめ
ここに書いたきた内容は、豊田章男の概ね良い面になります。その一方で批判があるのも事実ですが、現役の社長を評価するのは時期早々と言えるでしょう。 トヨタ一族の御曹司でありながらトヨタと戦い続けた豊田章男は、今後も戦い続けるのだと思います。これからトヨタがどのような方向に向かうのか、そして豊田章男が何を破壊して何を残すのかを見ていきたいと思います。
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