既存の価値観に抗った嫌われ者ASUKAの成功

 プロレスファンなら誰でも知っているが、それ以外の人には全く知られていないASUKAというプロレスラーの話です。古い体質の女子プロレスの世界で嫌われ、疎まれていた彼女が、今や全米で大人気のレスラーになっています。彼女はなぜ全米を熱狂させているのか。それは彼女に野心と知恵と行動力、そして優れたビジネスセンスがあったからだと思います。


武藤敬司への憧れ

1981年生まれの彼女が、初めてプロレスを意識したのは大阪国際滝井高等学校に通っていた17歳だったと言います。何気なくテレビで見たプロレスで、武藤敬司に憧れました。それまでプロレスとは大仁田厚のような汗と血にまみれた世界だと思っていたのが、爽やかな風貌の武藤が華麗に舞う姿は強烈なインパクトを与えたようです。

※武藤敬司

プロレスに惹きつけられ、レンタルビデオ店でプロレスのビデオを探すと、女子プロレスがあることを知りました。やがて彼女は自分もプロレスラーになりたいと思うようになります。しかし母親の猛反対もあり、デザイン事務所に就職して普通の社会人として過ごしていました。しかし憧れた世界に惹きつけられ、プロレス団体に履歴書を送ります。

念願のプロレスラーになり絶望する

初めて事務所を訪れる際に、彼女はスーツを着ていきました。社会人のマナーだと思っていたのです。しかし先輩レスラーから白い目で見られます。強烈な縦社会の洗礼が始まり、先輩の理不尽な叱責に耐えながら練習を続けました。ジャージを洗い先輩に届けると乾いていないと怒鳴られ、乾いているか確認してもらってから畳んで届けると乾いていないと怒鳴られる。これは教育ではなくいじめだと気がつきました。


さらに彼女を悩ませたのが、先輩のあれをするなこれをするなという命令でした。それは教育でもなんでもなく、自分より後輩に人気が出ないようにするための予防線でした。しかし彼女は見た目の良さから専門誌が注目し、デビューすると彼女の記事が掲載されるようになります。そのため先輩たちの激しい嫉妬に見舞われるようになりました。何も言えず、ただ怒られるだけの毎日を過ごし、毎晩泣きながら「あと1日頑張ろう」とその日を過ごしていたと語ります。

激しい練習とストレスが重なり、彼女は体調を崩していきます。慢性腎炎と診断され、デビューから2年にも満たないで引退を決断しました。この頃のことを、辛いことが多すぎてあまり記憶がないと、後年語っています。彼女のプロレスラーの夢はあっけなく終わりを告げました。

現役復帰と募る危機感

プロレスラーを引退すると、自らデザイン事務所を立ち上げました。またゲーム雑誌に記事を寄稿するなど、ライターとしても活動を始めます。しかしプロレスへの想いが募り、引退から1年ちょっとでプロレスへの復帰を決めました。この時に、彼女は自分の言いたいことを言うレスラーになることを誓います。これが後にさまざまな波紋を広げることになりました。

彼女は女子プロレスの状況に危機感を覚えていました。女子プロレス団体が無数にあり、互いにお客を奪い合う状況が何年も続いていました。女子プロレスファンが増えない中で共食いが続いていて、団体の消滅と誕生を繰り返すばかりで、やがてファンが離れていくことが見えていたのです。

一方、暗黒期が過ぎた男子プロレスは徐々に市場を広げつつありました。男子プロレスのファンを女子プロレスに呼び込めない限り、女子プロレスに未来はないと考えました。そして男子プロレスのファンが熱狂するレスリングの攻防が、女子プロレスにないことに危機感を覚えました。そもそも女子プロレスに入門してから、レスリングを教わったことがないのです。ただ殴り合ってドロップキックを飛ばして、丸め込んでフォールを狙う女子プロレスでは男子プロレスのファンを呼び込めないのではないか?そんな想いから、彼女は男子プロレスの練習に参加してレスリングや関節技を学びはじめました。

異端児の誕生

プロレスラーとして復帰しつつ、ヘアサロンを開業するなど経営者としての手腕も発揮していきます。しかし会社には了承をもらっていたものの、このような姿勢は先輩レスラーの反感を招くことになりました。ほとんどのレスラーがプロレスに人生を賭けているのに、副業を持つ彼女には覚悟がないと受け取られたのです。そして美容院の経営の影響で合同練習に参加できなかったことで、先輩レスラーの逆鱗に触れました。

また異色のレスラーとして彼女の元にはメディアの取材も多く集まりました。それは先輩の嫉妬になって、彼女を襲います。しかし彼女は自分の思うことを語りました。女子プロレスはもっと外を見なくてはならない、個人の欲求を満たす場ではなく、5年10年先の女子プロレスを見据えなくてはならない。こういった発言に、さらに反発が集まりました。

これまで多くの先輩達が築き上げてきたものを、新人レスラーがなぜ否定するのか。メディアにちやほやされて、調子に乗っている。何も知らないのに勘違いしている。こういった声があちこちから浴びせられ、さらにタッグのパートナーだった先輩レスラーからもテレビカメラの前で罵倒され、殴られます。以前の彼女なら、ここで気持ちが萎えてしまったかもしれません。しかし彼女はタフになっていました。

プロレス専門誌の取材を受け「華名のマニフェスト」を発表しました。華名は、当時の彼女のリングネームです。「個性を確立できぬ者は去れ」「女子プロレスファンにだけ通用するプロレスは即刻やめるべし」などの5箇条からなるマニフェストは関係者の波紋を呼び、先輩レスラーだけでなくOGなどからも苦言が集まりました。またファンの間でも賛否両論で「女子プロレスをダメにする」という声も少なからずありました。こうして彼女は女子プロレス界の問題児、異端児になっていきます。

快進撃の序章

彼女は女子プロレスラーのプロ意識の低さや、違いを過剰に褒め合う自慰的な体質に警鐘を鳴らしました。それは女子プロレスの既得権益層にとって、実に鬱陶しいことでした。しかし彼女は周囲の変化していくのを感じました。こっそりと賛同してくれるレスラーもいましたし、文句をあちこちで言っているレスラーも面と向かっては何も言ってこなかったのです。

そして彼女には野心がありました。男女関係なくプロレスのトップになりたいと考え、それには狭い日本のプロレス界ではなく海外からの評価が必要だと考えました。そこで2010年に入ると、海外を視野に入れて自主興行を開催するようになります。男子プロレスラーにも参加してもらい、女子プロレスにはなかった本格的な試合を目指しました。この興行は徐々に人気を集めていき、鈴木みのるや藤原喜明らの参戦によって後楽園ホールで開催するまでに至ります。この時、自主興行で100人にも満たない観客の前で試合をした経験が、後に活かされることになります。


彼女は海外を視野に入れていたため、インターネットによる情報発信には注力していました。英語の字幕や解説を入れ、海外の人にもわかるように心がけたのです。メジャー団体でもない始まったばかりのインディーズ興業としては、珍しい試みでした。しかし徐々に海外からの反応が集まってきます。同時に彼女はビジュアルにも徹底的に拘りました。デザイン事務所を経営する利点を活かし、和風のガウンにお面をつけ、独自のメイクを施しました。誰が見ても一眼で彼女だとわかるビジュアルとパフォーマンスを心がけ、海外のプロレスファンにも彼女の名前が知られていくようになります。

WWEからのオファーとASUKAの誕生

世界最大のプロレス団体は、何と言ってもアメリカのWWE(ワールド・レスリング・エンターテーメント)です。年間の売上高は800億円を超え、世界180ヵ国に放送され視聴者数は8億人にも及ぶと言われる巨大企業で、トップクラスのレスラーの年収は10億円を超えます。そのWWEが彼女にオファーしてきました。

「世界中の女子選手の中で1人選ぶとすればあなたです」

※WWEのCEO ビンス・マクマホン

 

世界最大のプロレス団体が自分をリスペクトしてくれる。彼女は迷わずオファーを受けます。しかし不安もありました。彼女の身長は160cmしかなく、WWEには170cmどころか180cmを超えるモデルのような美しいディーバ(WWEの女性レスラー)がいます。また日本人の自分が受け入れられるのかという心配もありました。しかし実際にWWEに入ってみると、多くのディーバは彼女のことを知っていました。地道に公開していた自社興行の動画をYouTubeで見て、ディーバたちは参考にしていたのです。

ディーバたちにとって彼女はパソコンの画面越しに見ていたお手本で、WWE参入を歓迎してくれました。そして彼女も、国や団体の大きさなどに関係なく、良いと思ったものを積極的に取り入れるディーバたちのプロ意識に感化されました。彼女がリングネームをASUKAに変えて、WWEの下部団体WWE NXTでデビューしたのは、2015年10月のことでした。WWEは今年最大級の大物の参戦とASUKAを宣伝し、ここからASUKAの快進撃が始まります。

スター街道を突き進む

WWEは、主に2つのテレビ番組とPPV(有料放送)があります。テレビ番組はRAW(ロウ)とSmackDown(スマックダウン)で、月に1回程度のペースでPPVの中継があります。PPVに出演できるのはWWEの中でもトップクラスの人気を誇る選手だけで、テレビの常連であってもPPVには出演できないレスラーが多くいます。ASUKAの出演が決まったWWE NXTは下部組織で、RAWやSmackDownより格が落ちます。しかし新人の誰もが通る道であり、ここで実績を積むことで次のステージに移れるわけです。 

ASUKAは連戦連勝を重ね、267連勝というWWEの記録を更新しました。WWEは脚本家によって練られた脚本に基づいて試合が行われるため、連勝記録がASUKAの強さを示すものではありません。興行主や脚本家がASUKAの勝利が観客が喜ぶと判断し、実際に観客を熱狂させてきたからできた記録です。ASUKAが出る試合に観客は夢中になり、人気は急上昇しました。2017年にはWWEのレギュラー番組であるRAWに出演するようになり、2018年にはPPVのロイヤルランブルに出演して、女子ロイヤルランブルの初代女王になりました。

これを俳優に例えるなら、名もない舞台俳優が深夜帯のドラマ、ゴールデンタイムのドラマ、そして映画主演とステップアップし、ついにハリウッド映画で主演を務めるようなシンデレラストーリーです。WWEレスラーの中でも特に人気がある選手しか出演できないPPVで優勝という栄冠を手にし、ASUKA人気は揺るがないものになりました。スター軍団のWWEにおいて、ASUKAはWWEを代表するレスラーになったのです。

ASUKAの評価

元WWEレスラーのルセフは、ASUKAについて大絶賛しています。

「アスカを”good”だなんて言えるのか?”good”なんかじゃない。彼女はそれ以上だ。すべてを理解している。すべてを持っている。面白いこともできるし、真剣勝負もできる。最高のパフォーマンスができる。面白く振る舞っていてもだ。さらに、面白くない存在でありながら面白いことができる。なんでもできるんだ。英語は話せないけど、誰が気にするものか」

※ルセフ

2020年5月には、RAW女子王者のベッキー・リンチが妊娠による王座返上を発表した際に、後継者としてASUKAを指名しました。過去にベッキーに勝ったことがあるとはいえ、王座をそのまま渡すことに反発もあるかと思われましたが、WWEファンはASUKAが新王者に相応しいと祝福しました。ベッキーもASUKAに王座を任せることに納得していたようです。 

なぜASUKAは成功したのか

多くのレスラーと違いOLとして社会経験を積んだことや、自身の会社を経営していることも、彼女の成功に影響しているかもしれませんが、新人時代からビジネスとしてのプロレスを考えていました。ですから女子プロレスのマーケットを観察し、潜在的な顧客がどこにいるのかを理解し、その顧客を取り込む戦略を立てています。


彼女がデビューした2004年は、女子プロレスの人気が低迷していた頃だそうです。80年代のクラッシュギャルズの大ブームが去り、90年代は北斗晶、神取忍、ブル中野などの過激路線で人気を集めました。そうしたレスラー達が引退し、または全盛期が過ぎたことで女子プロレスのマーケットが縮小していたのです。減り続ける女子プロレスファンを引き留め、新たなファンを獲得するには男子プロレスファンに見てもらう必要があると考えました。そのために必要なスキルを磨き、どうやって男子プロレスファンにアピールするかを考えています。

また早い時期からファンの目線を意識していました。試合後に先輩レスラーに罵倒され、反論するたびに殴られる様子がテレビで放送されました。後に、なぜ一方的に殴られたのかを問われると、殴り返したらただの痴話喧嘩みたいに見られてしまうので、言うべきことを言って殴られる様子をファンに見てもらい、どちらが正しいかをファンに判断してもらいたかったと言っています。新人らしからぬ冷静さが彼女にはありました。

彼女には野心と知恵があり、女子プロレスを一歩引いた視線で見ることができる視野がありました。そして既得権益を得ている先輩レスラーや会社幹部に、立ち向かう勇気がありました。全ての努力が報われるとは限らないから、何が報われるか判断が必要で、あとは自分の判断を信じて貫けと語っています。そして彼女の判断は間違っていなかったわけです。

英語が話せないハンディキャップ

WWEでは脚本家が書いた物語をリングで進めるために、英語が話せないのは大きなハンデでした。そのためWWEに参戦した日本人レスラーの多くは、無口な役をやらされます。どころがASUKAは独自の解決方法を生み出しました。会話のリズムを壊さないため、下手な英語よりもリズミカルに喋れる大阪弁を使うのです。

「あいつアホなんやで!おい、聞いてんのか!バーカバーカ」

子供のような暴言ですが、身振り手振りに大袈裟な表情を交えて喋るので、アメリカ人にも罵倒していることが伝わります。その姿に大笑いしたファンは、SNSで目をむいて「バーカ、バーカ」と真似をします。バーカの意味がFu◯k Youだと知ると、さらに多くの人が真似をしました。

リズム良く大阪弁の罵倒を繰り広げるASUKAに相手は沈黙し、アメリカのテレビ番組なのに日本語だけが響き渡る奇妙な光景を作り出しました。やがてASUKAはそのパフォーマンスからass kicker(尻を蹴飛ばす者)と呼ばれ、英語が喋れないハンデではなく、大阪弁を巧みに使う個性になりました。

どんな状況でも対応できるパフォーマンス

自主興行では様々なことを行い、男性女性関係なくリングで絡みました。そのため彼女のリングパフォーマンスの幅は広く、どんな相手でもショーを盛り上げるスキルが磨かれました。自主興行を始めた頃は客の入りが少なく、数十人の観客の前でプロレスを行ったこともあるようです。そんな経験が思わぬところで活かされました。


2020年はコロナ禍により、WWEも無観客で行われました。リングのパフォーマンスと観客の熱狂をリンクさせ、会場に熱狂の渦を巻き起こすWWEのレスラーにとって大きなチャレンジとなります。ASUKAにも出演オファーが届き、彼女は引き受けましたが、周囲の人々は大物感を出すために、あえて断ることを勧めました。また無観客という初めてのシチュエーションによって、ショーが失敗してASUKA自身の価値を下げることも懸念しました。しかし彼女は出演を快諾しています。

かつて自主興行で数十人の観客の前で行った経験を活かし、どうすれば良いかをASUKAは知っていたのです。普段よりリングで発せられる声がテレビカメラに届くことを意識し、リング内でも大阪弁が冴えました。観客がいようがいまいがASUKAの試合は好評で、彼女は今やWWEになくてはならない存在になっています。RAWのプロデューサーが解雇される影響を心配する声もありましたが、WWEのASUKAへの評価は変わりません。契約は継続しています。

まとめ

強烈な野心と市場を見抜く目を持っていたASUKAは、日本人プロレスラーとして稀有な成功を収めようとしています。日本では多くの女子プロレスラーから嫌われ、女子プロレスをダメにしていると言われていました。そのくらい彼女の考えや意識は当時のプロレスでは異端でした。しかし本人も知らないうちに、彼女はアメリカで手本にされ多くのレスラーを魅了していました。これは単純に日米のプロレス市場の違いであり、彼女の考えがアメリカ市場に合っていたというだけなのでしょうか。日米の市場規模の違いを考えると、日本もその体質や考え方を変える時期に来ているのではないかと思ったりします。ASUKAの活躍は、まだまだ続きそうです。


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