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若者の野党離れの原因は何か

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若者は自民党を支持していて野党を指示していないというのは、あらゆる調査からわかっています。なぜ野党は若い人に人気がないのでしょうか。これを考えてみたいと思います。 政治学者 野口雅弘氏の見解 成蹊大学の野口氏は、コミュニケーション重視の世代という理由を挙げています。コミュニケーションの軋轢を避けるために強い同調圧力が働いている若い世代には、批判というスタイルがなじまないというわけです。与党が政策を出し、国会やその他で野党が批判をする現在の構図は、同調を重視する世代に嫌われていると説明していました。 確かに「コミュ障」、コミュニケーション障害という言葉があるように、コミュニケーションができない相手を嫌う傾向はあると思います。一部の野党政治家の発言は、まさに「コミュ障」であり、話が通じない相手と感じる人もいると思います。では与党の政治家に「コミュ障」的な人がいないかというと、結構いるんですよね。そのため批判ばかりをする野党を見て、コミュニケーションを重視する若者世代が嫌悪するというのは理解できますが、それは複数の要因の一つだと思います。 将来への不安 若い人の就職の相談を受けると、将来への漠然とした不安を覚えている人が多いことに気づきます。自分の将来を悲観しているわけではなく、本当に自分はやっていけるのだろうかという不安で、自分だけでなく社会への不安も含まれています。将来に不安を感じている人が今の野党を支持するかというと、それは難しいと思います。 自民党は良いか悪いかは別にして、政策を打ち出しています。アベノミクスに始まり憲法改正などは批判もありますが、とりあえず自民党として日本をどうしたいかが見えています。一方、野党には将来のビジョンが見えません。自民党への批判ばかりが目立ち、具体的に日本をどうしたいかが見えてこないのです。ビジョンが見えるのは、昔から言っていることが変わらない共産党ぐらいでしょうか。 そもそも野党の戦略がズレている 野党とその支持者からは、安倍総理は右翼で独裁的な政治を展開して国民の不満が溜まっているという声が出ています。だから安倍総理批判を繰り返していけば、自分たちが支持されると思っているようです。そのため森友・加計学園問題、通称モリカケ問題を徹底的に糾弾して、安倍総理に退陣を迫りました。 しかし20...

90年代の K-1を振り返る /第三次キックブームの到来

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UFC234を見ていると、選手のトレーナーとしてサム・グレコが映っていました。オーストラリアのメルボルンで開催されたUFC234には、地元オーストラリアの選手が多く出場していて、その中の1人にグレコがついていたのです。90年代に日本のK-1に参加し、「拳獣」と呼ばれて強豪の一角を占めていたサム・グレコを見ていて、90年代のK-1の盛り上がりを思い出しました。 関連記事 アリスター・オーフレイム /薬物疑惑を超えて なぜミルコ・クロコップはアメリカで勝てなかったのか マーク・ハント /愉快で勇敢なサモアン 超合筋 /武田幸三の栄光 K-1GPの開催(93年) 93年といえば、第2次キックボクシングブームが起こっていて、全日本キックボクシング連盟を中心に興行が盛り上がっていました。 立嶋篤史 の試合にはには男性ファンが押しかけ、前田憲作の試合には女性ファンが列を作り、松任谷由実も前田憲作のファンを公言するなど、70年代に全盛期を迎えたキックボクシングの再ブームになっていました。 空手道場の 正道会館 がK-1GPを開催できたのは、このキックブームと無縁ではなかったはずです。館長の石井和義は空手の面白さを伝えたいと常々言っていましたが、興行的に選んだのはヨーロッパ式のキックボクシングルールでした。リングの上で3分1ラウンドで行われ、肘打ちなしのルールは空手界でも賛否がありました。そしてフジテレビの番組の一環として、第1回K-1GPが93年に代々木第一体育館で開催されました。「10万ドル争奪トーナメント」と銘打たれ、高額の賞金で各国から選手を集めた大会でした。 第1回K-1GPのとほほ感 この大会の最大の目玉は、アメリカのモーリス・スミスでした。WKA王者として8年間も無敗を誇ったスミスの試合を日本で見られるというのが、大会前に大きく宣伝されていました。そして8年間無敗だったスミスの連勝を止めた、オランダのピーター・アーツも呼ばれました。順当に行けば2回戦で二人の再戦が実現します。この再戦がK-1最大の見所でした。 ※モーリス・スミス ところがピーター・アーツは、1回戦でアーネスト・ホーストに判定負けします。日本では全くの無名だったホーストの勝利により、大会の目玉が消えてしまいました。さらにホーストは2回戦でモーリス・ス...

6月のNBAドラフトに注目 /八村塁は3人目のNBA日本人プレイヤーになるか?

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日本人としてNBAに登録された選手は田臥勇太、渡邊雄太の2人がいます。そして3人目の期待がかかるのが八村塁(はちむら るい)です。現在はアメリカのワシントン州にあるゴンザガ大でプレイするチームの中心的選手で、ドラフト指名は間違いないと言われています。今回はアメリカ大学バスケット界のスター選手、八村塁の話です。 高校まで ベナン人の父と日本人の間に生まれた塁は、野球やサッカーに励んでいました。小学校で170cmを超える大柄な肉体に、優れたフィジカルが備わっており、ピッチャーをすればボールを捕捉できるキャッチャーがいないことに悩まされたそうです。転機は中学生になってから訪れます。家族旅行でニューヨークに行ったのがきっかけでした。 日本では特徴的な顔立ちに加え、長身さが目立ち「ハーフ」としての存在感が際立っていました。しかし人種のるつぼニューヨークでは、塁は何者でもない普通の人になったのです。強烈なアメリカへの憧れが芽生え、日本に帰るとラップを聴き、ハリウッド映画を見て、毎食ハンバーガーを食べたいと言って母親を困らせました。友達にバスケットに誘われた時も迷いませんでした。ニューヨークで無数にあるストリートバスケットのコートを見ていたからです。 そこから塁は凄まじい勢いで頭角を現しました。中学では全国大会準優勝となり、高校では全国大会、インターハイ、ウインターカップで優勝し、高校バスケット界のスーパースターになりました。2メートルを超える長身だけでなく、並外れた運動能力を見せつけるとアメリカのゴンザガ大からスカウトの声がかかりました。夢のアメリカへ塁は羽ばたきます。 ゴンザガ大学 1年目から試合に出場し、NCAAトーナメント準優勝に貢献します。早くもNBAドラフト候補に名前が上がりますが、万全を期すためにゴンザガ大でのプレイを優先すると、今シーズンも絶好調でチームは快進撃を続けます。名実ともにゴンザガのエースとなった塁は、ウエストコースト・カンファレンスの最優秀選手に選ばれました。 ※ゴンザガ大学 今年のドラフトでは指名間違いなしと言われていて、シカゴ・ブルズが指名しそうです。ESPNは塁が1巡目14位で指名されると予想していますが、昨年も指名される可能性が高かっただけに1巡目の指名は当然だと思われます。今、最も注目を集...

極端な偏見をもって抹殺しろ /映画「地獄の黙示録」のあのセリフの話

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アメリカ人のビル(仮名)は、カリフォルニア産のヤンキーです。日本人が持つステレオタイプのカリフォルニアンのイメージそのままで、肌寒い季節なのにTシャツ一枚でやって来て、不必要に大きな声で話し笑います。いつも体を鍛えていて、時にイラッとするくらいポジティブで、IT系なのか金融系なのかわからない会社のマネージャーをしています。今回は、そんなビル(仮名)から教えてもらった話です。私が長年悩んでいた、映画「地獄の黙示録」の台詞の謎が解けたのです。 ビル(仮名)との電話 ビル(仮名)から電話があり、iPhoneのフェイスタイムで話をしました。なんと底抜けに陽気なビル(仮名)が悩んでいるのです。いろいろ事情はあるようですが、彼の日本語能力と私の英語能力が低いために細かい事情は理解できませんでした。深夜まで残業している私に電話してきて「こんな時間まで働けるなんて、君はそのうち社長になれるな!」とか明るく言うビル(仮名)にも悩む時があるのが驚きでした。 B「とにかく僕は彼にクビだと言わなくてはいけない」 井「辛いな」 B「ボスは怒っていて”Terminate with extreme prejudice."って言ったんだ。笑えるだろ」 井「ん?そのセリフ聞いたことあるぞ」 B「ああ、”Apocalypse Now”って映画のセリフだ」 井「地獄の黙示録か!!」 議論だったTerminate with extreme prejudice. このセリフは、誤訳ではないかと議論になったことがあります。字幕を書いたのはネットで誤訳の女王と呼ばれている戸田奈津子(通称なっち)で、最初に噛みついたのは立花隆でした。 関連記事: 戸田奈津子の映画字幕を考える 誤訳はなぜ起こる? 知らない方のために「地獄の黙示録」を説明すると、1979年に公開されたアメリカ映画で、コッポラ監督の名作の1つと言われています。ベトナム戦争の最中、アメリカ陸軍のカーツ大佐は暴走して軍の指揮下から外れ、原住民を引き連れてジャングルに王国を築いていました。上官から呼び出されたウィラード大尉は、カーツ大佐の殺害を命じられ、カンボジアのジャングルに向かいます。この映画では戦争の狂気が存分に描かれ、難解なラストシークエンスが話題になりました。 例のセリフは、カー...

なぜ韓国は日本に謝罪と補償を求めるのか

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天皇への謝罪要求が問題になっているように、韓国は日本に謝罪を要求し続けています。日本は過去に謝罪したにも関わらず、繰り返し行われる謝罪要求に反発するようになりました。この不幸な韓国との歴史認識問題を少し考えてみたいと思います。 李承晩初代大統領 最初に日本に謝罪と賠償を声高に求めたのは、韓国初代大統領の李承晩(りしょうばん)です。李承晩は、1897年に李氏朝鮮の国王である高宗の退位を求める文書を配布して、逮捕されます。その後特赦で刑務所を出ると、アメリカに渡りました。それから6年後に韓国併合があります。 ※李承晩と妻のフランチェスカ ジョージ・ワシントン大学、プリンストン大学、ハーバード大学で学び博士号を取得すると、韓国独立のための活動を開始します。李承晩が朝鮮半島に戻るのは、日本の敗戦が確定し、朝鮮のアメリカの統治が始まった1945年です。つまり李承晩は、日本の統治時代を知らない韓国人なのです。 アメリカにとって李承晩は英語で会話ができ、アメリカの考え方を知る韓国人であり、韓国独立を以前から願っている人物でした。反共主義者でもあり、アメリカが統治する朝鮮半島に、これほどピッタリの人物はいなかったと思います。 韓国独立に向けて 韓国が独立するためには強い自立心が必要で、親日派は邪魔でした。そして李承晩にとって共産主義は大きな脅威でした。ソ連で教育を受けた金日成(後の北朝鮮指導者)が北部にいましたし、自由社会の実現に共産主義の魔の手は絶対に避けるべきものでした。 李承晩の強烈な反共主義者は、やや行き過ぎた結果をもたらします。1948年には済州島四・三事件では、南朝鮮労働党が済州島の住民とともに蜂起します。李承晩政権は住民らを攻撃して鎮圧しますが、政府の方針に反発した軍人たちが反旗を翻して朝鮮半島でも戦闘が始まります。李承晩は非武装の住民を含めて数万人を殺害しました。 さらに保導連盟事件では、共産主義者と疑われる人々を処刑しました。その数は数十万人とも100万人を超えるとも言われます。恐怖政治は反発を招き、アメリカでも李承晩の行き過ぎた行為に韓国を任せられないという声が出ます。しかし国務長官のジョン・フォスター・ダレスは、問題は多いものの李承晩の強烈な反共主義を歓迎していました。アメリカにとっても共産主義は最大の脅威...

ピエール瀧が逮捕されたコカインってなに?/薬物の基本的な話

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違法薬物はとにかく危険だという政府のアピールによって、その違いや危険性については不正確な情報が蔓延しているように思います。ピエール瀧が逮捕された事件で、その危険性を大麻と同等に語る人がいたりするので、少し整理をしてみたいと思いました。当たり前ですが、薬物の種類によって依存性や副作用が異なります。それらの違いを知っておくのも悪くはないと思うのです。 そもそも薬物の種類は曖昧 麻薬というと何を指すかご存知でしょうか。そもそも麻薬はケシから作られるアヘン、モルヒネ、ヘロインなどを指す言葉でした。しかし日本の法律ではコカインも含んで麻薬となっていて、アメリカの法律では大麻も麻薬に含まれることが多くあります。このように学術的な意味と法律上のでは意味が異なることが多く、そのため理解しにくくなっています。 日本では何が流通している? 日本で多くみられるのは覚せい剤です。これはヒロポンなど戦前には滋養強壮剤として売られていたため、日本人には馴染み深い違法薬物だからでしょう。90年代はLSDが多く売られていました。新宿や渋谷の公衆電話にビニールテープが張られ、そこにポケベルの番号が書かれていました。それを鳴らせば売人がやってくるというのは多くの人に知られた公然の秘密で、警察も公衆電話をマークしていたようです。 なぜこの時期にLSDが出回っていたかというと、ある宗教団体が薬物イニシエーションで信者に使用するために製造しており、その一部を暴力団に販売して資金源にしていたからだとされています。この宗教団体は覚せい剤も作っていたようで、それらが暴力団に流れて売られていました。高純度の薬物を国内で大量に作ることができたこの宗教団体は、かなりの資金を集めることができたようです。 また当時はイラン人による販売も行われていました。上野あたりを歩けばイラン人が声をかけてきて「何が欲しい?テレホンカード?ハシシ?なんでもあるよ」と言っていました。当時は偽造テレホンカードはイラン人の資金源になっていましたが、マリファナも売っていました。暴力団が背後にいると言われていましたが、これ以上は私もあまり知りません。 その一方で、ヘロインやコカインはあまり聞きません。やはり日本で薬物といえば覚せい剤が多いと思います。 最強の麻薬ヘロイン ドイツのバイエル社が販売した医...

川村カオリが亡くなって、もうすぐ10年

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ふとしたきっかけで、ガンで亡くなった歌手の川村カオリを思い出しました。彼女の曲を聴くと懐かしさがこみ上げてくるのですが、同年代の彼女が亡くなってから、もう10年になるという事実にも驚かされます。そこで今回は、川村カオリのことを書いてみたいと思います。 関連記事 第2次バンドブームについて考える /BOOWYからイカ天まで いかすバンド天国 /深夜の怪物番組の功罪 BOOWYとはなんだったのか /日本のロックは歌謡曲なのか?  今更ながらビル・ローレンス /森高千里モデルのギター 野村義男との遭遇 /たのきんトリオのよっちゃんと気づかなかった テレビのままだった鮎川誠 /家に誘われた話 プリンセス・プリンセスを聴きながら楽器の上手さを考えた プリンセス・プリンセスの楽器パート /再び友人と語ってみた 椎名林檎の歌詞と音楽の世界 川村カオリとは 1971年に日本人の父親とロシア人の母親の間に、モスクワで生まれました。日本の小学校に編入すると、ハーフだったことからイジメを受けるようになります。中学生に進学してソ連が領空内に侵入した民間機を撃墜する大韓航空機撃墜事件が起こると、教師からも「ソ連に帰れ」といわれるなど、辛い時期を過ごしました。 高校に進学すると、新宿ロフト(ライブハウス)に出入りするようになり、高校を中退してロンドンに留学します。1年ちょっとの留学を終えて帰国すると、86年に「川村かおり」として歌手としてデビューしました。その後はバラエティ番組への出演、モデル活動、ラジオ番組など幅広く活躍の場を広げますが、93年に活動を休止してニューヨークで過ごすようになりました。 95年から歌手として活動を再開し、クラブDJやモデル、ドラマ出演などで活躍しますが、2004年に乳がんが見つかります。闘病と子育て、音楽活動を並行して行い、2009年に38歳の若さで亡くなりました。 最初に聴いた印象 おそらく88年頃だと思います。ラジオで彼女の「ZOO」が流れました。辻仁成の作詞作曲でプロデュースもしていると紹介されましたが、私は辻仁成が嫌いでした。そして川村かおりの声は、ほとんど印象に残りませんでした。再び川村かおりの名前を思い出すのは、彼女がパーソナリティをしていた「オールナイトニッポン」を聞いた時です。 ...