エメリヤーエンコ・ヒョードル /UFCと契約しなかった最強の王者

 総合格闘技の世界最高峰がUFCですが、エメリヤーエンコ・ヒョードルは一度もUFCのオクタゴンで戦うことがありませんでした。ヘビー級最強と言われたヒョードルは、なぜUFCと契約しなかったのでしょうか。ヒョードルの歩みを見ていきたいと思います。


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プロ入り前のヒョードル

1976年、ソビエト連邦のルハンシク州ルビージュネに生まれました。ここは現在のウクライナになります。そのためヒョードルはロシア人ではなく、ウクライナ人です。父親は溶接工、母親は教師の中流家庭で、姉と弟2人の4人姉弟でした。ヒョードルが2歳の頃に家族は現在のロシアのベルゴロド州に引っ越しました。

11歳になるとサンボと柔道をはじめ、学校に通いながらトレーニングを続けていました。当初は目立った生徒ではなかったそうですが、徐々に頭角を現していきます。高校を卒業すると専門学校で電気技師の勉強を行い、95年にロシア軍に入隊して消防隊で活動しています。軍隊でもサンボと柔道を続け、柔道のナショナルチームに選抜されます。しかし2000年にナショナルチームを去り、ロシアン・トップチームで総合格闘技の道に入ります。

やがてヒョードルはヴォルク・ハンやアンドレイ・コピィロフらとロシアン・トップチームからレッドデビル・スポーツクラブに移籍し、活動拠点をサンクトペテルブルクに移しました。またヒョードルはオランダのキックボクシングジム、ボスジムのメンバーとしてもトレーニングを行っています。

リングスでの来日

日本のプロレス団体リングスのスカウトオーディションを受け、合格して来日を果たします。この頃のリングスはKOKルールを導入して、プロレスから総合格闘技団体へと変貌を遂げようとしていた時期です。2000年おリングス・キング・オブ・キングスに出場すると1回戦をギルバート・アイブルに判定勝ちしますが、2回戦の高坂剛戦では高坂の肘が偶発的に目尻をカットする不幸があり、ドクターストップでヒョードルの負けになってしまいました。

2002年はリングス・ワールドタイトルシリーズに出場すると、ヘビー級でも無差別級でも優勝を遂げてリングス最強になりました。しかしこの頃のリングスは総合格闘技団体PRIDEに人気の面で先行され、さらに選手やスタッフの引き抜きが相次いでいました。この年にリングスは解散し、ヒョードルもPRIDEと契約を結ぶことになります。

PRIDEへの参戦

2002年6月にヒョードルはPRIDEデビューを果たします。相手はセーム・シュルトでしたが、身長差を感じさせない安定した試合運びで判定勝利すると、ヒース・ヒーリングとPRIDEヘビー級王座への挑戦者決定戦を戦います。テキサスの暴れ馬と呼ばれるヒーリングを1RTKOに仕留めると、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラが持つPRIDEヘビー級王座に挑戦が決まります。

2003年3月、ヒョードルはノゲイラの持つ王座に挑戦しました。スタンドの打撃で圧倒すると、ノゲイラは得意の柔術で勝負するためグランドでの攻防を望みました。あえてグランド勝負に挑んだヒョードルは強烈なパウンドでグランドでもノゲイラを圧倒し、王座に就きました。その後、ノンタイトル戦で日本の藤田和之と対戦し、パンチでグラつかされる場面もありますが、チョークスリーパーで勝利しました。



夏にはPRIDEグランプリ2003に出場し、1回戦でゲーリー・グッドリッジを1RKOに葬り、2回戦の相手はミルコ・クロコップに決まりました。この対戦は王座をかけての対戦となるはずでしたが、ヒョードルが拳を骨折したためグランプリ欠場が決まりました。

2004年にもPRIDEグランプリ2004に出場し、マーク・コールマン、ケビン・ランデルマン、小川直也に勝利して決勝に進み、決勝で再びノゲイラと対戦します。この試合はノゲイラの偶然のバッティングでノーコンテストとなり、優勝者なしという不本意な結果に終わりました。ヒョードルはノゲイラの行為を批判し、ノゲイラはレスリングの基本的な動きの中で起こったことと弁明し、両者の舌戦が起こりました。またこの大会では、2回戦でヒョードルはミルコ・クロコップと対戦するはずでしたが、ミルコが番狂わせでランデルマンに負けたため、この対戦も実現しませんでした。

2004年の大晦日にヒョードルは再びノゲイラと対戦し、判定で勝利を収めてヘビー級王座を守りました。そしてこの頃からPRIDEの運営サイドからヒョードルに不満が漏れはじめます。PRIDEはミルコとの対戦にサインしないヒョードルの態度に不満を示し、高田延彦はヒョードルが逃げているとも取れる発言をしました。ヒョードルはこれを強く否定し、2005年の8月にミルコとの対戦を行います。この試合に勝利したヒョードルはヘビー級最強の王者と認められるようになりました。

2006年1月にヒョードルは拳の手術に踏み切ります。2度にわたる手術を行い復帰を目指していましたが、その間にフジテレビがPRIDEとの契約を全面解除し、PRIDEは岐路に立たされます。ヒョードルはPRIDEに復帰してアメリカでの興業となったPRIDE32にも出場しますが、PRIDEはUFCを運営するズッファ社に買収されることになりました。

UFCとの契約交渉

ズッファ社のダナ・ホワイトはヒョードルとの契約に自信満々でしたが、交渉は難航します。ズッファ社は他の選手同様にUFCとの専属契約を求めますが、ヒョードルは地元ロシアで開催されているサンボの試合に出場を続けていて、そちらへの出場を望みました。他の試合への出場を一切認めないズッファ社との溝は深く、2007年10月にニューヨークで記者会見を開いたヒョードルはロシアの新興MMA団体BodogFightと契約を結んだことを発表しました。

BodogFight側はUFCとの協業を模索するような発言を行い、UFCにヒョードルを派遣することができると言いました。しかしズッファ社のダナ・ホワイトは、これを拒否します。ヒョードルに専属契約ではない特例を認めると他の選手も追随し、UFCの財産が他の団体に蝕まれると考えたからです。こうしてUFCとヒョードルは決裂し、ダナ・ホワイトは公けにヒョードル陣営に「頭がイカれたロシア人達」とこき下ろすようになりました。

その後、M-1グローバルの選手となったヒョードルは、自分達への悪口を言い続けるダナ・ホワイトに抗議し、UFC王者とヒョードルのタイトルマッチを実現するように迫ります。しかしダナ・ホワイトは、他団体との共同でタイトルマッチを行うことを強く拒否しました。彼にとってこの提案は、UFCの成功にロシアの新興団体がタダ乗りしようとしているように見えたのでした。

新団体への参加

2008年6月に、ドナルド・トランプが新たなMMA団体アフリクションを設立すると発表しました。この目玉として、トランプはヒョードルと元UFCヘビー級王者のジョシュ・バーネットの対戦を発表して、大きな話題になりました。




アフリクションの設立は大きな話題になりましたが、ジョシュ・バーネットの体から禁止薬物が検出されたことで、試合が中止になってしまいました。ヒョードルは失意の中、家族とともにカリブ海にバカンスに出かけました。

カリブの会談

ヒョードルは専属マネージャーや、M-1グローバルの大株主らも連れてバカンスに出かけていたため、ダナ・ホワイトはこれを絶好の機会だと感じて交渉のためにカリブ海に飛びます。2009年のことでした。何度も交渉が決裂したヒョードルに対して、ダナ・ホワイトは誰も予想しない提案を行います。M-1グローバルの買収でした。ダナ・ホワイトはヒョードルを団体ごと買い取ろうとしたのです。

さらにヒョードルには最大30億円の契約金を提示し、ブロック・レスナーの持つUFCヘビー級王座への挑戦も約束しました。しかし同行していたロシアの銀行家でM-1グローバルの大株主セルゲイ氏は、絶対にM-1グローバルを売らないと拒否します。またここでもダナ・ホワイトはロシアで行われているサンボの大会にヒョードルが出ることを認めなかったため、交渉は決裂しました。再びダナ・ホワイトはヒョードル陣営をこき下ろし、ヒョードル陣営が反論する舌戦が展開されてしまいました。この後、ヒョードルはアメリカのストライクフォースと契約しています。

ストライクフォースでの敗戦

ストライクフォースと契約したヒョードルですが、2010年から2011年に3連敗を喫してしまいます。試合間隔が空いてしまったことに加えて、明らかに老化の影響も感じられる試合でした。ヒョードルの時代は確実に終わりに近づいていました。2012年にダナ・ホワイトはヒョードルと交渉していることを認めましたが、負け続けるヒョードルの商品価値は大幅に下がっていたため以前ほどの熱意はなくなっていたのです。



2015年にもヒョードルとUFCとの間で交渉が行われましたが、結局は日本のRIZINとの契約を結びました。RIZINとの契約が切れた後にもUFCは交渉していますが、ヒョードルが選んだのはベラトールでした。10年間に辺りヒョードルとUFCは何度も交渉を重ねましたが、一度も契約が纏まることはなかったのです。

なぜUFCと契約しなかったのか

ヒョードル側が繰り返し強調していたのは、UFCの独占的な契約です。契約してしまえばアマチュアのサンボの試合に出ることもできない契約は厳しすぎるうえに、選手の権利を侵害していると言っています。これが最大のネックになったのは間違いないでしょう。UFCは1人でも例外を認めると追随する選手が現れるため、ここは絶対に譲れなかったようです。

またヒョードルの商品価値について、ヒョードル陣営とUFC側では乖離があったように思います。ダナ・ホワイトは、何度も最高額のオファーを出したと言っていましたが、ヒョードル陣営は高額なオファーではなかったと言っています。これは想像ですが、UFC側は新人に対するオファーでは破格の金額を提示したのでしょうが、ヒョードル側は他のUFC選手よりも安い金額だったため失望したのではないかと思います。例えばブロック・レスナーやケイン・ベラスケスのファイトマネーより、ヒョードルにオファーされた金額は低かったはずです。

UFCでは最初のファイトマネーは、かなり低く見積もられます。UFCで通用することがわかり、観客を呼べる試合をすればファイトマネーが上がります。ヒョードルはPRIDEで最強でしたが、UFCでの実績は全くありません。過去にもPRIDEから何人もの選手がUFCに来ましたが、多くが期待外れでした。ミルコ・クロコップ、ヴァンダレイ・シウバなどは全く結果を残せませんでしたし、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラも暫定王者にはなりましたが、予想を下回る活躍しかできませんでした。いくらヒョードルがPRIDE最強でも、UFCで通用する可能性は未知数だったのです。

ヒョードルはUFC王者になれたのか

「たら、れば」の話になってしまいますが、王者になるのはかなり厳しかったと思われます。PRIDEでヒョードルのライバルだったミルコやノゲイラのUFCでの成績を考えると、確実に王者になれたとは言えないでしょう。ミルコは怪我が重なったとはいえ王座挑戦には全く届きませんでしたし、ノゲイラは寝技で腕を折られています。UFCの進化は激しく、PRIDEが運営のゴタゴタに巻き込まれている最中も急速に成長していました。そうした進化に、ヒョードルも乗り遅れていた可能性が高いように思います。

その一方で、ヒョードルに高いリスペクトを示すUFC選手も多く、その実力は疑いようがありません。特にケイン・ベラスケスは自身もヒョードルと同様に小柄な体格で果敢にヘビー級戦線を戦ったことから、尊敬の念を何度も口にしていました。もしヒョードル対ブロック・レスナーのタイトルマッチが実現していたら、UFCの伝説になる試合になった可能性もあり、ヒョードルが参戦できなかったことが残念に思います。

まとめ


10年間にわたりUFCはヒョードルと交渉を進めて来ましたが、一度もUFCのオクタゴンでヒョードルを見ることができませんでした。これはMMA全体を見ても残念な結果だと思います。ヒョードルが世界最高峰の舞台で、どれだけ通用するのか見たかったファンは多かったでしょうし、UFCにとってもヘビー級の選手は常に不足しているのでヒョードルのような大物はどうしても欲しかったでしょう。

しかしMMAは興行でありビジネスです。両者が納得できる契約が結べなければ実現しないというシビアな一面もあります。ダナ・ホワイトは契約金を全面に出して交渉していたようですが、後年は政府の仕事に情熱を傾けるようになったヒョードルの姿勢からは、お金だけを重視するファイターではなかったように思います。交渉の決裂はヒョードルとUFCだけでなく、業界全体やファンを含めて不幸な出来事だったと思います。



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