サッカーの西野朗監督は今もハンティングワールドのボストンバッグを使っているのだろうか

サッカー日本代表監督に就任した西野朗氏は、ハンティングワールドのボストンバッグをいつも持っていました。柏レイソルの監督時代も、ボロボロになったボストンバッグを持ち歩き、ガンバ大阪時代には新調して新しくなったようです。西野朗氏のげん担ぎで、重要な試合にはハンティングワールドのボストンがそばにありました。



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五輪代表監督就任

Jリーグブームが続く90年代に、西野朗氏はアトランタ五輪を目指す五輪代表監督に就任しました。当時は五輪出場など夢のまた夢という状態で、代表になにかを期待する人は少数でした。どうせアジア予選で終わると誰もが思う中でのスタートです。

全く期待されていないので、西野朗氏は自由にチームを作ることができ、協会の横やりなどは全くありませんでした。しかし協会からサポートを受けることもできませんでした。役員に電話しても繋がらず、何でもかんでも自前で行わなければならないストレスを溜め込んでいきます。

28年ぶりの五輪出場決定

サウジに勝てば五輪出場が決まるという局面に至っても、「どうせ負ける」という機運は変わりませんでした。テレビ中継もなくメディアの取材もありませんでした。Jリーグのチームは取材陣がついて回る中、日本代表は孤独な出発をします。

レフティモンスターと呼ばれたエースの小倉が怪我で戦線を離脱し、代わってキャプテンを務める前園も怪我を引きずっていました。満身創痍のチームは応援が全くないスタジアムで孤独なスタジアムで戦い、前園の2発で勝利を決めました。痛みで歩くのも苦しい中、スライディングタックルで敵の攻撃を防ぐ前園の姿に、キーパーの川口能活は涙が出そうだったと言います。

※オリンピック代表の前園真聖と中田英寿

選手全員が泥臭いサッカーを行い、死に物狂いで五輪の切符を手にしたのです。

手のひらを返す人たち

28年ぶりの五輪出場が決まると、メディアも協会も手のひらを返したように騒ぎ始めました。無神経な人達は、これが日本サッカーの底力だとはしゃぎ、メダルの可能性まで言いだしました。西野朗氏も選手もこれには驚き、戸惑ったと言います。

さらに五輪出場が決まった途端に、協会からの横やりが入ります。日本を代表するチームにするべきだとか、選手の起用がどうだといった注文が入り、さらにオーバーエイジ枠が西野朗氏を悩ませます。五輪代表は23歳以下の選手しか出られませんが、3人まで24歳以上の選手を登録できます。予選の時は、西野朗氏がどれほど望んでもオーバーエイジ枠の選手を招くことはできませんでした。

しかし五輪出場が決まると、誰々を入れるべきだと協会から注文が入ります。組み合わせが決まり、ブラジルと対戦することが決まると一層横やりは激しくなりました。ベテランのDFを入れなければ、ブラジルの猛攻を防げないというわけです。

※キーパーの川口能活

しかし西野朗氏は、これを拒絶しました。共に修羅場をくぐったDF陣とキーパーの川口の連携はこれ以上なく高まっていたので、新しいメンバーを入れる方がリスキーだと判断したのです。これで惨敗したら責任問題だと言われても、強く拒絶したのは自分たちで五輪の切符を勝ち取ったという自負もあったからでしょう。




ブラジルという恐怖

ブラジルはA代表監督と五輪代表が兼任し、さらにA代表の主力の多くは23歳以下でした。フラビオ・コンセイソン、ロベルト・カルロス、ジュニーニョ・パウリスタ、ロナウド(登録名はロナウジーニョ)らのA代表が並び、そこにオーバーエイジとしてベベット、リヴァウド、アウダイールが加わりました。もはやA代表と同等のメンバーであり、ブラジル五輪代表とA代表の残りのメンバーでの試合は五輪代表が勝利しました。優勝候補筆頭であり、五輪どころかW杯でも十分に優勝を狙えるメンバーでした。

※「悪魔の左足」と呼ばれたロベルト・カルロス

しかし世界のサッカーに無関心のメディアは、「やってみなければわからない」という論調が占めました。日本にも十分に勝機があると言われ、「メダルが見えた」とまで書くメディアもありました。「3-0ぐらいで負ければラッキー」という軽口すら選手間で交わせなくなり、みんなが勝てると注目している中で、サッカー史上に残る大敗をするかもしれないという恐怖に襲われていきます。

西野朗氏は8-1で負ける夢を見たそうです。しかし10-0で負ける可能性も十分にありました。現実的には3-1で負けるかな?と考えていたそうですが、90分間ほとんどボールに触れられずに滅多打ちにされる恐怖が、選手にも監督にも襲い掛かります。

西野バッシング

ブラジル対策をメディアに質問されるたびに、西野朗氏は守備を重視すると答えていました。格上の相手と戦う時に、守備的な戦術を用いるのはサッカーのセオリーです。ましてや爆発的な攻撃力を持つブラジルが相手ですから、守備的な布陣で行くのは当然のことでした。しかしサッカーに関して無知なメディアがこれに噛みつきます。強い相手から守りに入っても勝ち目はない。ここはむしろ攻撃的に行くべきだというのです。そしてこの意見は、野球や相撲を中心にスポーツを見ていたサッカーを知らない層に受け入れられました。西野監督では勝てないという声が日に日に大きくなり、チーム内にも亀裂が入り始めます。

攻撃の主軸である城や前園にメディアがインタビューし、「守備的に行くのはちょっと・・・」みたいなことを言えば、そこだけを切り抜いて「選手も不満」と大きく報じます。それを聞いたDF陣は「あいつら何勝手なことを言ってるんだ」と憤り、予選では一枚岩だったチームに亀裂が生じました。西野朗氏は追い詰められ、絶望的な中でブラジルとの対戦を迎えました。

マイアミの奇跡

日本はブラジルに1-0で勝ちました。まるで交通事故のような得点でしたが、これには伏線がありました。起こるべくして起こったブラジルのミスであり、ミスを誘発するように日本が仕向けていました。驚くべきことは、日本が無失点に抑えたことです。後半はブラジルの猛攻が続き、キーパーの川口がリンチにあっているような凄惨さでしたが得点を許しませんでした。サッカー史上最大の番狂わせの一つであるマイアミの奇跡は、さまざまな荒波に翻弄され続けた選手とスタッフが紙一重で勝ち取った勝利でした。

※マイアミの奇跡のゴールの瞬間

日本はグループリーグを2勝1敗で終え、2勝しながら1次リーグ敗退という珍事で五輪を終えました。大本命のブラジルが負け、ブラジル、ナイジェリア、日本が共に2勝1敗で並んだために得失点差により日本の敗退が決まったのです。

五輪を終えた西野朗氏

日本サッカー協会は、五輪の総括で日本はBクラスのチームだったと評しました。ダイナミックさに欠けると酷評された西野朗氏は憤慨し、「世界的に見てBクラスだってことは知っていた。しかしAクラスに上がるために協会は何をしたんだ?」と、怒りをぶちまけました。

その後、西野朗氏は柏レイソルの監督に就任しナビスコ杯を制すると、ガンバ大阪で優勝を遂げました。Jリーグの名将に名を連ねることになった西野朗氏は、いつもハンティングワールドのボストンバッグを持ち歩いていました。マイアミの奇跡の時にたまたま持って言ったバッグで、以降げん担ぎとして常に使っていたのです。

※ハンティングワールドのボストンバッグ

まとめ

W杯まで残すところ2か月というタイミングで、A代表の監督に就任した西野朗氏はババを引いたような感じすらあります。これからできることは多くはありません。そして西野監督はすでに賞味期限が切れているという人も多く、確かに神戸などの実績を考えるとそういう気もします。それでも「マイアミの奇跡をもう一度」と思わずにいられず、応援したいと思います。



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