忘れてはならない中村俊輔の足跡 /グラスゴーの英雄になった日本人
腰を痛めて動けなかった冬休みに、久しぶりに英語を練習したくて、海外のスカイプのグループにアクセスしてみました。そこは日本のアニメを中心に語っているので、日本人の私が参加すると大勢が話しかけてくれるのです。すると新参のスコットランド人がいて、アニメそっちのけで彼と中村俊輔の話題で盛り上がりました。「ナカムラは俺たちの永遠のヒーローだ」「もし日本にいるナカムラの身になにかあれば、スコットランドはいつでも立ち上がる」と、興奮して語ってくれました。
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ボールをセットした中村俊輔は、あまり時間をかけることなく動き出しました。まるで普段通りなんら気負いのない動きでした。中村俊輔の左足から放たれたボールは低い軌道のまま強烈に右に曲がり、凄まじいスピードで壁のギリギリ上を通過しました。
ファン・デル・サールの視界には、突然現れたボールが急激に曲がりながらゴールの左隅に吸い込まれていくように見えたでしょう。ヨーロッパ最高のGKは一歩も動けず、ネットに突き刺さるボールを眺めることしかできませんでした。中村俊輔の芸術的なフリーキックがオールド・トラッフォードというキャンバスに描かれた瞬間でした。
セルティックのサポーターは感情を爆発させ、両拳を挙げて叫びました。凄まじい歓声が上がり、サポーター同士で抱き合い、まるで優勝したかのような喜びを表現しました。スコアは2-2になっただけで、この試合の勝利すらまだわかりません。しかし憎き専制君主に一太刀浴びせたという事実、それが芸術的で文句のつけようがない完璧なシュートだったということが、セルティックサポーターを極限まで興奮させました。
この一発で、中村俊輔はセルティックの、スコットランドのヒーローになりました。しかしこれが序章に過ぎないということは、誰も知りませんでした。その数ヶ月後に、中村俊輔はさらなる驚きと興奮をスコットランドに巻き起こしました。
98年にはA代表の合宿に参加し、99年にはオリンピック予選にスタメンで参加します。憧れていた中田英寿に合宿で初めて会って緊張する中、中田に「おい、レレレのおじさん」と声を掛けられて傷ついたという繊細なエピソードもあります。目を隠すような前髪を切るようにさまざまな人から言われますが、顔を隠さないと人前で萎縮するような一面がありました。
しかし2000年のシドニーオリンピックとアジアカップにも出場し、日本を代表する選手になっていきます。日本代表の得点源として、俊輔のフリーキックはなくてはならないものでした。2002年には日韓W杯の公式ユニフォームの広告塔にもなりましたが、A代表監督のフィリップ・トルシエのシステムに合致せず、まさかの代表落選を経験しました。
ワールドカップに出れば、彼のの才能をヨーロッパ中のスカウトが目撃する。契約金は跳ね上がり、我々にチャンスはないだろう。レッジーナは中村俊輔の獲得を諦めました。ところがしばらくしてニュースが飛び込んできます。中村俊輔が代表メンバーから落選したのです。
「なぜあれほどの選手をワールドカップに出さないのか理解できないが、フィリップ・トルシエ監督には心から感謝する。おかげで我々は最高の契約ができた」
レッジーナは日本のメディアに喜びを隠しませんでした。こうして中村俊輔は念願の海外移籍を果たします。
怪我を押して代表の試合に出て、怪我を悪化させてレッジーナに戻るという悪循環に陥っていました。俊輔の才能がレッジーナで輝いたのは3年目でした。怪我は続いていましたが、この年はレッジーナの創設以来最高順位につける成績で、俊輔はその立役者になります。その活躍を見て惚れ込んだスコットランド・プレミアリーグ、セルティックFCのストラカン監督の要請により、スコットランドへの移籍が決まります。
CLは、ヨーロッパ各国の上位チームだけが参加するリーグで、ワールドカップ を超える世界最高峰の戦いが繰り広げられます。セルティックはグループFに入り、イングランドのマンチェスター・ユナイテッド(マンU)、ポルトガルのSLベンフィカ、デンマークのFCコペンハーゲンと同じグループになりました。第1戦はマンUと、ホーム&アウェイで戦うことになりました。地元グラスゴーだけでなく、スコットランドが燃えていました。
サッカーに話を戻すと、血を流して民主主義を手に入れたヨーロッパの歴史を考えると、サッカーにドラフト制度がないというのは驚きです。そのためサッカーではビッグクラブの支配が続き、弱小チームは何年経っても弱小のままという状態が続きます。弱小チームは、専制君主のように君臨するビッグクラブに一泡吹かせることを喜びとし、いつか彼らを追い落とすことを夢見て応援します。
マンUはイングランド最大のクラブであり、ヨーロッパ最強のチームの1つです。憎きイングランドの象徴であり、倒さなければならない専制君主です。グラスゴーは、この戦いに燃えました。いやスコットランド全体で燃え上がりました。勝つのがどれほど困難かは、誰もがわかっています。それでも彼らは奇跡を信じて応援するのです。
ですから俊輔にはスコットランド中から熱い視線が注がれ、今回も俊輔の左足が起こす魔法を信じました。「ナカムラのフリーキックさえあれば勝てるんだ。ボールを持ったら、とにかくファールを誘え」と真顔で豪語するサポーターもいました。この日、中村俊輔の左足はスコットランドの希望だったのです。
しかし試合が始まると、俊輔はほとんど活躍できませんでした。クリスティアーノ・ロナウドをケアするため、ほぼ防戦一方になってしまい、攻撃を組み立てることすらできないまま時間が過ぎていきます。それでもセルティックは踏ん張りました。前半を0-0で終えると、後半もマンUの攻撃を凌いでなんとか無失点で0-0のままゲームが続いていました。そして後半36分に、セルティックはマンU陣内でフリーキックを得ます。
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この時、俊輔はようやく攻撃できることに喜び、集中力が極限まで高まっていくのを感じたそうです。「ゾーンに入っていた」という俊輔はボールを受け取ると、誰にも何も語らずにボールをセットしました。直接狙うには距離があるため、チームメイトはパスが来るのかシュートするのかわからなかったそうですが、俊輔の中にパスの選択はなかったようです。
前回とほぼ同じ角度で距離だけが違うため、GKのファン・デル・サールは前回の反省を活かして、入念に壁を配置していきます。ボールを曲げてくるなら前回同様に左隅しかありません。一方でゾーンに入っていた俊輔は、駆け引きを一切していませんでした。ゴールに突き刺すイメージだけを持ち、左足を振り抜きます。
低い弾道から大きく右に曲がったボールは、壁をギリギリで超えて行きました。ファン・デル・サールはすぐに反応し、大きく左にジャンプします。その伸ばした左手の先をかすめるように、ボールはゴールの隅に突き刺さりました。前回と全く同じ軌道でゴールが決まりました。セルティック・パークが揺れました。大歓声が上がり、抱き合い、涙を流しました。喜びを爆発させる俊輔に、観客は両手をあげて叫び続けました。
その後、セルティックはこの1点を守り抜き、マンUに勝利します。ついに憎きイングランドの専制君主を倒したのです。さらにセルティックにとって初のCLベスト16が決まりました。この夜、グラスゴーは歓喜に包まれお祭り騒ぎになり、中村俊輔はセルティックの歴史に永遠に名前が刻まれることになりました。この2つのフリーキックは何度もテレビで放送され、誰もが絶賛しました。
ファン・デル・サールは、あれほど完璧なフリーキックを蹴られたら、GKにできることはほとんどないと脱帽し、フリーキックを与えたことに激怒したマンUのファーガソン監督は「あのシュートは生涯忘れられないだろう」「クリスティアーノ・ロナウドが、ナカムラのフリーキックの蹴り方を真似しているよ」と記者団に語って笑わせました。またイタリア代表のピルロは「あの魔法の左足があれば、なんだってできるさ」と賛辞を送りました。
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オールド・トラッフォードの歓喜
1-2とセルティックが負けている場面で、フリーキックのチャンスがやってきました。マンチェスター・ユナイテッドの守護神ファン・デル・サールはヨーロッパ最高のGKの1人で、その彼が細かく壁の位置を指示していきます。フリーキックになれば中村俊輔が蹴ることも、彼が左利きであることもファン・デル・サールは知っていました。だから壁を左側に寄せて、中村俊輔の蹴る方向に慎重に壁を築きました。※エトヴィン・ファン・デル・サール |
ボールをセットした中村俊輔は、あまり時間をかけることなく動き出しました。まるで普段通りなんら気負いのない動きでした。中村俊輔の左足から放たれたボールは低い軌道のまま強烈に右に曲がり、凄まじいスピードで壁のギリギリ上を通過しました。
ファン・デル・サールの視界には、突然現れたボールが急激に曲がりながらゴールの左隅に吸い込まれていくように見えたでしょう。ヨーロッパ最高のGKは一歩も動けず、ネットに突き刺さるボールを眺めることしかできませんでした。中村俊輔の芸術的なフリーキックがオールド・トラッフォードというキャンバスに描かれた瞬間でした。
セルティックのサポーターは感情を爆発させ、両拳を挙げて叫びました。凄まじい歓声が上がり、サポーター同士で抱き合い、まるで優勝したかのような喜びを表現しました。スコアは2-2になっただけで、この試合の勝利すらまだわかりません。しかし憎き専制君主に一太刀浴びせたという事実、それが芸術的で文句のつけようがない完璧なシュートだったということが、セルティックサポーターを極限まで興奮させました。
この一発で、中村俊輔はセルティックの、スコットランドのヒーローになりました。しかしこれが序章に過ぎないということは、誰も知りませんでした。その数ヶ月後に、中村俊輔はさらなる驚きと興奮をスコットランドに巻き起こしました。
中村俊輔とは
日本を代表するサッカー選手です。1978年に横浜市に生まれ、3歳からサッカーを始めています。日産のジュニアユースで活躍しますが、線が細くフィジカルに弱いと判断されてユース入りは叶いませんでした。桐光学園高校に進学すると、全国大会で準優勝し、97年に横浜マリノスに加入しました。98年にはA代表の合宿に参加し、99年にはオリンピック予選にスタメンで参加します。憧れていた中田英寿に合宿で初めて会って緊張する中、中田に「おい、レレレのおじさん」と声を掛けられて傷ついたという繊細なエピソードもあります。目を隠すような前髪を切るようにさまざまな人から言われますが、顔を隠さないと人前で萎縮するような一面がありました。
しかし2000年のシドニーオリンピックとアジアカップにも出場し、日本を代表する選手になっていきます。日本代表の得点源として、俊輔のフリーキックはなくてはならないものでした。2002年には日韓W杯の公式ユニフォームの広告塔にもなりましたが、A代表監督のフィリップ・トルシエのシステムに合致せず、まさかの代表落選を経験しました。
W杯落選が呼び込んだイタリア移籍
イタリアセリエAのレッジーナ首脳陣は、アジアカップ予選の試合を見て、中村俊輔に目を止めました。世界的には無名の選手ですが、左足から繰り出すキックは芸術的で、すぐに俊輔の他の試合のビデオを取り寄せます。まだ無名の中村俊輔は、お金のないレッジーナにとって安く契約できるダイヤの原石でした。しかし調べていくと、中村俊輔は日本で最も人気がある選手で、ワールドカップ出場が間違いないとわかりました。ワールドカップに出れば、彼のの才能をヨーロッパ中のスカウトが目撃する。契約金は跳ね上がり、我々にチャンスはないだろう。レッジーナは中村俊輔の獲得を諦めました。ところがしばらくしてニュースが飛び込んできます。中村俊輔が代表メンバーから落選したのです。
「なぜあれほどの選手をワールドカップに出さないのか理解できないが、フィリップ・トルシエ監督には心から感謝する。おかげで我々は最高の契約ができた」
レッジーナは日本のメディアに喜びを隠しませんでした。こうして中村俊輔は念願の海外移籍を果たします。
レッジーナでの沈黙
移籍したレッジーナで、俊輔は期待ほどの活躍ができませんでした。理由の1つは長引いた怪我でした。そして俊輔は可能な限り日本代表の試合に出ていました。ワールドカップ に出られなかった悔しさもさることながら、俊輔の落選に激怒したジーコが日本代表の新監督になったことで、日本代表に欠かせない選手になったからです。怪我を押して代表の試合に出て、怪我を悪化させてレッジーナに戻るという悪循環に陥っていました。俊輔の才能がレッジーナで輝いたのは3年目でした。怪我は続いていましたが、この年はレッジーナの創設以来最高順位につける成績で、俊輔はその立役者になります。その活躍を見て惚れ込んだスコットランド・プレミアリーグ、セルティックFCのストラカン監督の要請により、スコットランドへの移籍が決まります。
セルティックFCでの活躍
2005年に移籍すると、俊輔は周囲を圧倒します。セリエAよりレベルが落ちるスコットランド・プレミアリーグで俊輔のテクニックについていける選手は、さほど多くはありませんでした。リーグ優勝とカップ戦優勝の立役者となり、これによってセルティックはUEFAチャンピオンズリーグ(CL)への出場が決まります。CLは、ヨーロッパ各国の上位チームだけが参加するリーグで、ワールドカップ を超える世界最高峰の戦いが繰り広げられます。セルティックはグループFに入り、イングランドのマンチェスター・ユナイテッド(マンU)、ポルトガルのSLベンフィカ、デンマークのFCコペンハーゲンと同じグループになりました。第1戦はマンUと、ホーム&アウェイで戦うことになりました。地元グラスゴーだけでなく、スコットランドが燃えていました。
専制君主への挑戦
歴史的にイングランドとスコットランドには、長い長い遺恨があります。イングランド王エドワード1世がスコットランドを征服したのが11世紀で、スコットランドの逆襲が始まります。ウィリアム・ウォレスはスコットランド軍を率いてイングランドを打ち破り、エドワード一世は渋々フランスと講和を結んで、ウォリスを八つ裂きにします。その後もロバート一世のイングランド侵攻、イングランドに亡命してエリザベス1世を暗殺しようとしたメアリー・スチュアートなど、血で血を洗う抗争がイングランドとスコットランドの歴史なのです。※ウィリアム・ウォレス |
サッカーに話を戻すと、血を流して民主主義を手に入れたヨーロッパの歴史を考えると、サッカーにドラフト制度がないというのは驚きです。そのためサッカーではビッグクラブの支配が続き、弱小チームは何年経っても弱小のままという状態が続きます。弱小チームは、専制君主のように君臨するビッグクラブに一泡吹かせることを喜びとし、いつか彼らを追い落とすことを夢見て応援します。
マンUはイングランド最大のクラブであり、ヨーロッパ最強のチームの1つです。憎きイングランドの象徴であり、倒さなければならない専制君主です。グラスゴーは、この戦いに燃えました。いやスコットランド全体で燃え上がりました。勝つのがどれほど困難かは、誰もがわかっています。それでも彼らは奇跡を信じて応援するのです。
セルティック・パークの衝撃
ホーム&アウェイで行われるリーグ戦は、マンUをセルティックのホーム、グラスゴーのセルティック・パークに迎えました。2006年11月21日、セルティックとマンUの2戦目が行われました。前回のオールド・トラッフォードでの中村俊輔の芸術的なフリーキックは、スコットランドのテレビで何回も何回も繰り返し放送されていました。ですから俊輔にはスコットランド中から熱い視線が注がれ、今回も俊輔の左足が起こす魔法を信じました。「ナカムラのフリーキックさえあれば勝てるんだ。ボールを持ったら、とにかくファールを誘え」と真顔で豪語するサポーターもいました。この日、中村俊輔の左足はスコットランドの希望だったのです。
※セルティック・パーク |
しかし試合が始まると、俊輔はほとんど活躍できませんでした。クリスティアーノ・ロナウドをケアするため、ほぼ防戦一方になってしまい、攻撃を組み立てることすらできないまま時間が過ぎていきます。それでもセルティックは踏ん張りました。前半を0-0で終えると、後半もマンUの攻撃を凌いでなんとか無失点で0-0のままゲームが続いていました。そして後半36分に、セルティックはマンU陣内でフリーキックを得ます。
※クリスティアーノ・ロナウド |
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ロナウドとクリスティアーノ・ロナウド /新旧ロナウド比較
この時、俊輔はようやく攻撃できることに喜び、集中力が極限まで高まっていくのを感じたそうです。「ゾーンに入っていた」という俊輔はボールを受け取ると、誰にも何も語らずにボールをセットしました。直接狙うには距離があるため、チームメイトはパスが来るのかシュートするのかわからなかったそうですが、俊輔の中にパスの選択はなかったようです。
前回とほぼ同じ角度で距離だけが違うため、GKのファン・デル・サールは前回の反省を活かして、入念に壁を配置していきます。ボールを曲げてくるなら前回同様に左隅しかありません。一方でゾーンに入っていた俊輔は、駆け引きを一切していませんでした。ゴールに突き刺すイメージだけを持ち、左足を振り抜きます。
低い弾道から大きく右に曲がったボールは、壁をギリギリで超えて行きました。ファン・デル・サールはすぐに反応し、大きく左にジャンプします。その伸ばした左手の先をかすめるように、ボールはゴールの隅に突き刺さりました。前回と全く同じ軌道でゴールが決まりました。セルティック・パークが揺れました。大歓声が上がり、抱き合い、涙を流しました。喜びを爆発させる俊輔に、観客は両手をあげて叫び続けました。
その後、セルティックはこの1点を守り抜き、マンUに勝利します。ついに憎きイングランドの専制君主を倒したのです。さらにセルティックにとって初のCLベスト16が決まりました。この夜、グラスゴーは歓喜に包まれお祭り騒ぎになり、中村俊輔はセルティックの歴史に永遠に名前が刻まれることになりました。この2つのフリーキックは何度もテレビで放送され、誰もが絶賛しました。
ファン・デル・サールは、あれほど完璧なフリーキックを蹴られたら、GKにできることはほとんどないと脱帽し、フリーキックを与えたことに激怒したマンUのファーガソン監督は「あのシュートは生涯忘れられないだろう」「クリスティアーノ・ロナウドが、ナカムラのフリーキックの蹴り方を真似しているよ」と記者団に語って笑わせました。またイタリア代表のピルロは「あの魔法の左足があれば、なんだってできるさ」と賛辞を送りました。
まとめ
俊輔がセルティックを去ってから何年も経ちますが、今でも彼の写真がスタジアムにはあります。グラスゴーの奇跡と呼ばれた俊輔のフリーキックは今でも語り継がれており、俊輔がJリーグでMVPを獲得した時などはグラスゴーでもニュースになったそうです。これほどの活躍をした中村俊輔が、日本ではサッカーファンの記憶にだけ刻まれているのは寂しい限りです。もう少し多くの人に知ってもらいたいと思います。関連記事
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