サッカー日本代表の歴史と事件簿
W杯が盛り上がってきたので、ここ30年ほどのサッカー日本代表の歴史をサラッとまとめました。
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忘れてはならない中村俊輔の足跡
歓喜に沸きかけていた日本を一瞬で奈落の底に落とし、選手達がピッチに倒れ込み、号泣する姿が強烈な印象を残しました。日本がW杯に賭ける想いをいっそう強くした出来事です。
日本の選手達は得点した際に何が起こったかわからず、ゴール裏の日本サポーター達が狂ったように騒いでいるのを見て、もしかして得点したの?と思ったそうで、さらに得点したのはFWの城だと思っていた選手も多数いたそうです(実際の得点はMFの伊東)。
アジジ、ダエイの強力な2トップを配するイラン相手に、日本は後半31分にFW城のゴールで2-2の同点に追いつき延長戦に突入します。サドンデスの延長戦で再三チャンスを作った日本が、FW岡野のゴールで得点し初のW杯出場を決めました。
雨の中滑るピッチで始まった試合は、開始10分でフランスが得点すると一方的な展開になります。途中、明らかに遊びだしたフランスはジダンがペナルティエリアでリフティングを始めるなどのやりたい放題で、5-0の試合結果以上に日本とフランスの実力差を見せつけられる試合になりました。
日本は三都主、中村が連続してPKを外す絶対絶命のピンチに、キャプテンの宮本がPKのゴールを変更するように主張し、キーパーの川口が鬼神のような活躍で次々にPKを止めて日本が勝利しました。
初戦のオーストリア戦では終了直前に3ゴールを奪われて逆て負け(カイザースラウテルンの屈辱)、さらに次のクロアチア戦ではスコアレスドロー(決定機を逃した柳沢のプレイにQBKという言葉が生まれた)、そしてグループリーグ突破のために、絶対に負けられない戦いとしてブラジル戦を迎えます。
玉田の先制ゴールで目を覚ましたブラジルは、怒濤の攻撃で4点を奪いました。日本サッカー史上最強と呼ばれた日本代表は1分2敗でグループリーグ敗退が決まりました。
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ドーハの悲劇
1993年10月28日、カタールのドーハで行われたアメリカW杯アジア最終予選、日本対イラクの試合です。勝てば日本初のW杯出場が決まる試合で、日本は2-1でリードしていました。ロスタイムのコーナーキックから、同点弾をイラクに叩き込まれてW杯出場の夢が絶たれました。歓喜に沸きかけていた日本を一瞬で奈落の底に落とし、選手達がピッチに倒れ込み、号泣する姿が強烈な印象を残しました。日本がW杯に賭ける想いをいっそう強くした出来事です。
マイアミの奇跡
1996年7月22日、アメリカのマイアミで行われた、アトランタ五輪グループリーグD組の第一試合でした。本気で金メダルを狙っていたブラジルは、オーバーエイジ枠も使った事実上のA代表で、日本は28年ぶりの五輪出場でした。絶望的な戦力差でしたが、1-0で日本が勝利しました。日本の選手達は得点した際に何が起こったかわからず、ゴール裏の日本サポーター達が狂ったように騒いでいるのを見て、もしかして得点したの?と思ったそうで、さらに得点したのはFWの城だと思っていた選手も多数いたそうです(実際の得点はMFの伊東)。
ジョホールバルの歓喜
1997年11月16日、マレーシアのジョホールバルで行われたフランスW杯アジア最終予選の第3代表決定戦として行われた日本対イランの試合です。日本はアジア最終予選B組で韓国に次ぐ2位になり、なんとか第3代表決定戦に望みを繋ぎました。アジジ、ダエイの強力な2トップを配するイラン相手に、日本は後半31分にFW城のゴールで2-2の同点に追いつき延長戦に突入します。サドンデスの延長戦で再三チャンスを作った日本が、FW岡野のゴールで得点し初のW杯出場を決めました。
フランスW杯の1次リーグ敗退
98年6月に始まったフランス大会は、日本にとって初めて出場したW杯でした。アルゼンチンに0-1、クロアチアに0-1、ジャマイカに1-2の3連敗で、かろうじて1得点したことが次の希望に繋がりました。サンドニの悲劇
2001年10月13日、フランスのサンドニで行われた日本対フランスの親善試合でした。アジア杯に優勝した日本は、トルシエ監督の「もうアジアに学ぶことはない」の言葉の元にアジア王者としてW杯王者のフランスに挑戦しました。日本の急成長に多くのスカウトが訪れ、日本の善戦が期待されました。雨の中滑るピッチで始まった試合は、開始10分でフランスが得点すると一方的な展開になります。途中、明らかに遊びだしたフランスはジダンがペナルティエリアでリフティングを始めるなどのやりたい放題で、5-0の試合結果以上に日本とフランスの実力差を見せつけられる試合になりました。
日韓W杯でベスト16
2002年に日韓共催で行われたW杯では、直前の親善試合で敗戦が続く厳しい状況でした。しかしベルギーに2-2で引き分けると、ロシアに1-0で勝利し、チュニジアに2-0で快勝して2勝1分けで一次リーグを突破しました。重慶の奇跡
2004年7月31日、中国の重慶で行われたアジアカップ準々決勝の日本対ヨルダンの試合です。反日感情をむき出しにする中国サポーターの激しいブーイングの中、1-1のまま延長戦も終了し勝負はPK戦にもつれ込みます。日本は三都主、中村が連続してPKを外す絶対絶命のピンチに、キャプテンの宮本がPKのゴールを変更するように主張し、キーパーの川口が鬼神のような活躍で次々にPKを止めて日本が勝利しました。
ドルトムントの悪夢
2006年のドイツW杯です。黄金の中盤と呼ばれた中田、中村、小野、稲本を配する日本代表は、日本サッカー史上最強の代表チームと呼ばれていましたが、チームの内紛が露呈します。初戦のオーストリア戦では終了直前に3ゴールを奪われて逆て負け(カイザースラウテルンの屈辱)、さらに次のクロアチア戦ではスコアレスドロー(決定機を逃した柳沢のプレイにQBKという言葉が生まれた)、そしてグループリーグ突破のために、絶対に負けられない戦いとしてブラジル戦を迎えます。
※中田英寿が引退を表明しました。 |
玉田の先制ゴールで目を覚ましたブラジルは、怒濤の攻撃で4点を奪いました。日本サッカー史上最強と呼ばれた日本代表は1分2敗でグループリーグ敗退が決まりました。
南アフリカW杯でベスト16
谷間の世代と言われ、タレント不足と言われた日本代表はイヴィチャ・オシムが倒れたため、岡田武史監督が急遽指揮をとることになりました。東アジアカップ、親善試合でも惨敗が続いたため期待値は低いものでしたが、初戦のカメルーン戦に1-0で勝利すると、次のオランダには0-1で敗戦、デンマークに3-1で勝利して2勝1敗で一次リーグを突破しました。まとめ
この後、ブラジルW杯での一次リーグ敗退や代表監督の八百長疑惑での退任、ハリルの解任などさまざまな事が続きます。今回のロシア大会でも、新たな歴史の一ページを刻むでしょうが、それが歓喜の歴史になることを願わずにいられません。関連記事
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