友人の1人にカンフー映画が大好きなのがいるのですが、彼と話していてカンフー映画の歴史をおさらいしてみようと思いました。日本ではブルース・リーの成功からカンフー映画の歴史は始まりますが、香港ではそれ以前から作られていました。今回は戦後の香港の映画事情も絡めて、カンフー映画の歴史を駆け足で書いてみたいと思います。
関連記事
なぜジャッキー・チェンはハリウッド進出に失敗したのか?
ショウ・ブラザーズの成功
1925年、ショウ・ブラザーズの前身である「天一影片公司」が設立されます。戦争で映画産業は一時的に後退しますが、1958年の香港にショウ・ブラザーズが設立されます。当時の香港映画界では、京劇を映像化した映画が主流でした。ショウ・ブラザーズの責任者、ランラン・ショウはハリウッドから技術者を招き入れて、古い香港映画から脱却して最新鋭の映画を作るようにしました。
リー・ハンシャンが監督した歌唱時代劇映画はブームになり、ショウ・ブラザーズは巨大な映画会社に成長していきます。1960年代半ばには従業員が1300人を超え、15のステージがある2つのセットを含む、個人所有としては世界最大のスタジオを保有するようになります。リー・ハンシャン監督は「梁山伯與祝英台」(63年)で大ヒットを飛ばしてショウ・ブラザーズの大きな発展の原動力になりますが、その後台湾に移り住んで起業してしまいました。
 |
※リー・ハンシャン(右) |
しかしその後もショウ・ブラザーズは多くのヒット作を生み出していきます。60年代の大きな変化は、ショウ・ブラザーズが京劇映画から脱皮して新たなジャンルに精力的に進出したことです。特にチャン・ツェー監督が役者のジミー・ウォングを抜擢して制作した「片腕必殺剣」(67年)では、剣劇(剣による戦いをメインにした映画)を大ヒットさせ、剣劇映画が香港で大ブームになります。これは香港で日本の「座頭市」がヒットしたのを受けて、ハンディキャップがある主人公の活躍にヒントを得たものでした。
 |
※片腕必殺剣のポスター |
「片腕必殺剣」は大がかりなスタントや、フィルムの逆回転などの手法をふんだんに使った映画で、これが香港映画のスタンダードになりました。主演のジミー・ウォングはスーパースターになりますが、剣劇には飽きたらず、素手格闘の映画を自らメガホンをとって制作します。自身が監督・脚本・主演を務めた「吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー」(70年)は、香港で大ヒットします。元々は日本の「姿三四郎」に影響を受けて、主人公が素手空拳で戦う映画を思いついたのですが、この映画の大ヒットが香港でカンフー映画の始まりになります。
 |
※吠えろ!ドラゴン 起て!ジャガーのポスター |
この「吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー」はアメリカでも公開されますが、そこで見た中国人俳優は脚本の稚拙さやジミー・ウォングのカンフーアクションのレベルの低さに憤慨しました。彼は自分ならもっと上手くできると憤り、映画界に踏み入れる決断をしました。彼の名は李小龍、英語名をブルース・リーと言います。
ブルース・リーの登場
ショウ・ブラザーズの製作本部長だったレイモンド・チョウは、ショウ・ブラザーズを退職して1970年にゴールデンハーベスト社を設立します。チョウが目を付けたのは、アメリカで俳優として活動しているブルース・リーでした。2本の映画出演を契約し、71年に「ドラゴン危機一髪」が公開されます。香港で広まっていたカンフー映画ブームに乗り、本格的な武術経験があるリーの映画は大ヒットし、この1作でリーは香港映画のスターの座につきました。
 |
※グリーン・ホーネットのブルース・リー |
リーは俳優夫婦の間にサンフランシスコで生まれ、子役として香港映画の多くに出演していた俳優です。その傍ら、本格的な武術訓練を受けていました。特に詠春拳で有名な葉問の元でも修行をしており、渡米して武術指導者としての道を模索していました。詠春拳の演武を収めたフィルムをたまたま見たテレビプロデューサーの目にとまり、ドラマ「グリーン・ホーネット」の東洋人カトー役で俳優デビューしています。リーは役者に武術指導をするようになり、アメリカの映画やドラマ関係者に多くのコネクションを築くようになっていきます。リーの生徒にはジェームズ・コバーン、シャロン・テート、スティーブ・マックイーンなどがいました。
ゴールデンハーベストの勃興とリーの死
「ドラゴン危機一髪」で大成功を収めたゴールデンハーベストは、すぐに2作目を制作しました。72年の「ドラゴン怒りの鉄拳」で、占領下の中国を描いた抗日ドラマでした。ここでリーは武術指導も行い、前作を超える大ヒットになりました。さらにリーはゴールデンハーベストと共同出資で自身のプロダクション「コンコルド・プロダクション」を設立すると、ローマでロケを敢行し「ドラゴンへの道」を制作しました。前2作を大幅に超えるヒットとなり、リーは香港で最大のスター俳優になります。
 |
※ドラゴンへの道 |
制作に意欲を見せるリーは、「死亡遊技」の撮影を開始します。香港では「死」がタイトルに入るのは不吉として敬遠されていましたが、絶大な人気のリーはあえてタブーを冒しての制作でした。しかしクライマックスシーンを撮り終えた時に、ワーナーブラザーズから映画の企画が舞い込んできます。ハリウッド映画主演を夢見ていたリーは、「死亡遊技」の撮影を中断してアメリカに渡りました。ワーナーブラザーズとゴールデンハーベストが共同出資して作られた「燃えよドラゴン」(73年)は、全米で大ヒットしました。しかしリーは「燃えよドラゴン」の封切り前に、死亡しています。
 |
※燃えよドラゴンのポスター |
ショウ・ブラザーズを追い越し、アジア最大の映画会社となっていたゴールデンハーベストにとって、リーの死は大きな痛手でした。最大のスターを失ったゴールデンハーベストには、次のスターが必要でした。レイモンド・チョウは、すぐに次のスターを探し始めます。
ジャッキー・チェンの成功
「ドラゴン怒りの鉄拳」ではクライマックスにリーに蹴り殺されるスタントを担当し、「燃えよドラゴン」ではリーに首を折られる看守役を務めたジャッキー・チェンは、映画スターを夢見てゴールデンハーベストに入社しました。しかしリーの死後、カンフー映画やアクション映画は下火になっていて、コメディやロマンス映画がヒットの中心に移行していました。チェンはアクション映画を求めて、75年に「少林門」の準主役をつかみますが1年間もお蔵入りになってしまい、76年にようやく公開されるもののヒットしませんでした。この「少林門」の監督は、若き日のジョン・ウーでした。
 |
※燃えよドラゴンの一コマ |
ブルース・リー主演の「ドラゴン危機一髪」と「ドラゴン怒りの鉄拳」で監督を務めたロー・ウェイは、ブルース・リーと意見が衝突して独自にアクション映画を模索していました。そんな時にジャッキー・チェンに目を留め、彼をブルース・リーの次のスターにしようと目論見ます。チェンとの専属契約を結び、「レッドドラゴン/新・怒りの鉄拳」(75年)の主演に抜擢しますが、ロー・ウェイは要求通りの演技やアクションをこなせないチェンに怒りを爆発させ、険悪な雰囲気のまま撮影は終了しました。映画はヒットせず、さんざんな結果になります。
 |
※少林寺木人拳 |
続いてロー・ウェイは「少林寺木人拳」(76年)の主演にチェンを抜擢しますが、監督を若手のチャン・チーホワの丸投げしてほとんど撮影に顔を出しませんでした。チェンは若いチーホワとアイデアを出し合いながら撮影を進め、映画作りを楽しめたと語っています。しかし映画は成功とは言えない程度の収入しかあげられませんでした。そんなジャッキー・チェンに興味を示した人物がいました。ショウ・ブラザーズから独立しシーゾナル・フィルム社を立ち上げたウー・シーユェンです。彼はチェンが2本の映画で主演させる契約をロー・ウェイと結びました。監督に武術指導を行っていたユエン・ウーピンを抜擢し、「スネーキーモンキー蛇拳」(78年)が制作されました。
 |
※スネーキーモンキー蛇拳 |
従来のカンフー映画が持つダークな雰囲気を一掃し、当時の流行だったコメディ映画の要素を取り入れました。これが香港で大ヒットすると、すぐに次作「ドランクモンキー酔拳」(78年)が制作されました。前作を踏襲しコミカルなスポ根映画で、武術の素人が修行によって復讐を遂げる物語でした。こちらも香港で大ヒットします。「酔拳」は日本の東映映画関係者の目にとまり、79年に日本でも公開されます。菅原文太主演の「トラック野郎・熱風5000キロ」の同時上映としての公開でした。観客のほとんどは菅原文太を目当てに劇場に足を運びましたが、「トラック野郎」以上の評判になり日本でもジャッキー・チェンは大人気になっていきました。こうしてアジアで最大のスターの地位にジャッキー・チェンは駆け上がります。
その後のジャッキー・チェン
ロー・ウェイ監督との契約がありながら、すでにロー・ウェイの元で仕事をすることに嫌気がさしていたジャッキー・チェンは、ゴールデンハーベストと契約を結びます。これは二重契約でした。ゴールデンハーベストは構わず「ヤングマスター 師弟出馬」(80年)を制作します。しかしこの移籍劇は契約書の改ざんなどさまざまな問題に発展し、マフィアがジャッキー・チェンの元に訪れて脅迫や拉致を行うまでに発展していきました。
 |
※ヤングマスター師弟出馬 |
ごたごたの中で「ヤングマスター 師弟出馬」は公開され、香港で大ヒットを飛ばします。チェンはマフィアを恐れて台湾に逃れ、南米へと避難します。さらにアメリカに渡り、ゴールデンハーベストが出資してハリウッド映画「バトルクリーク・ブロー」(80年)に主演しました。アメリカでの活躍は決して成功とは言えませんでしたが、ロー・ウェイとマフィアから逃れるために必要な期間だったと言えます。この香港映画史上最大のトラブルに、かつてのスター俳優ジミー・ウォングが立ち上がり、ゴールデンハーベストがロー・ウェイ側に利益の一部を支払うことで決着しました。
 |
※バトルクリーク・ブロー |
トラブルが解決したチェンは、以前から暖めていた大がかりなアクション映画の制作にとりかかります。こうして完成した「プロジェクトA」は大ヒットし、チェンは不動の地位を築くことになります。
関連記事
なぜジャッキー・チェンはハリウッド進出に失敗したのか?
新しい時代
82年に中国と香港の合同でカンフー映画が制作されます。「少林寺」です。武術大会の上位者を集めて出演させた映画で、主演のリー・リンチェイはその後も「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ」(91年)にも主演して、カンフー映画のスターになります。98年にはハリウッドに進出し、ジェット・リーという名前で「リーサルウェポン4」に敵役として出演すると全米での知名度を一気に上げました。その後も「キス・オブ・ザ・ドラゴン」(01年)など多くのアクション映画に主演し、世界的なスターになっていきました。近年ではシルベスター・スタローンの呼びかけに応えて「エクスペンダブルズ 」(10年)シリーズにも出演しています。
 |
※少林寺 |
武術家の母親を持つドニー・イェンは、1963年に中国の広東州で生まれました。すぐに香港に移り住み、やがて一家はアメリカのボストンに住みます。幼少の頃から母親に武術を習っていたイェンは、ボストンで見たブルース・リーの映画に夢中になり、映画スターを夢見るようになりました。やがてジャッキー・チェンの映画を監督したユエン・ウーピンの目にとまり、スクリーンテストを受けて映画界に入ります。デビューは84年の「ドラゴン酔太極拳」でした(本作は日本未公開で、テレビで「女デブゴン強烈無敵の体潰し!!」のタイトルで放映されたのみ)。
 |
※ドニー・イェン(左)とジェット・リー |
その後は本格的に演技を学び、92年に「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地大乱」で、ジェット・リーの敵役として出演しました。さらに95年にはブルース・リーの「ドラゴン怒りの鉄拳」をリメイクしたテレビドラマ「精武門」に主演したことで、広くイェンの名前が知られることになります。その後はハリウッドで武術指導も行い、02年の中国映画「HERO」では、再びジェット・リーと激しいバトルを見せて存在感を示しました。そして08年に公開された「イップ・マン 序章」に主演すると話題を席巻し、続編の「イップ・マン 葉問」が大ヒットすると、アジアのトップスターになりました。
 |
※ドニー・イェン |
まとめ
京劇の映像化が中心だった香港映画は、やがて剣劇からアクション指向になっていき、ブルース・リーの成功でカンフー映画ブームを築きました。カンフー映画がマンネリ化して人気が下火になると、カンフー映画にコメディを持ち込んだジャッキー・チェンの映画が大ヒットして新たなブームを巻き起こします。これらコメディ系が飽和すると、アクションスペクタクルや歴史物が登場して、カンフー映画と言ってもさまざまな形態になっていきました。今後もカンフー映画はさまざま変化を遂げるでしょう。そしてドニー・イェンの次のスターも、既に生まれつつあると思います。
コメント
コメントを投稿