広告塔としてのオリンピック選手 /大菅小百合が陥ったジレンマ
「あの子は大物なのか?それともただのバカなのか?」2000年の世界距離別選手権で、スピードスケートの関係者は首をひねりました。大菅小百合は高校2年の時からワールドカップに出場している実力者です。20歳になった大菅は、周囲の心配をよそにミックスゾーンで弾けていました。
しかし一本目で好スタートを切った大菅は、ミックスゾーンで記者達の質問にはしゃいで答えていました。その時のこと大菅は好スタートを切れた興奮から「見て見て、私を見て!私が大菅でーすって叫びたい気持ちだった」と、語っています。その様子に呆れた関係者は「大物なのかバカなのか」と首を傾げました。
大菅は白樺学園高校から三協精機に進みます。全く同じ経歴の先輩、清水宏保は大菅にとって憧れであり大きな目標でもありました。その清水が長野で世界新記録を更新して金メダルを獲った時は、寮のみんなで興奮したと言います。清水に会った大菅は、真っ先に「金メダル、見せてください」とお願いします。
既に次の目標しか頭になかった清水は金メダルへの関心を失っていて、はしゃぐ大菅にポイっと放り投げました。「すごいなー、きれいだなー、欲しいなー」を連発する大菅に、清水は「そんなに欲しければ、お前も獲ればいいだろ?」と素っ気なく言い、大菅の興奮はマックスになります。
「きゃー!カッコいい!私も金メダル獲って、後輩に『欲しければ獲れば?』って言ってみたいー!って思いましたね」
そんな大菅が初めて出場したソルトレイクシティ五輪は500mが12位、1000mが18位と全く実力を出せないまま終わりました。初めての大きな挫折で、これが大菅の転機になりました。
冬はスピードスケートでワールドカップの表彰台の常連になり、夏は自転車競技で次々とレースを制していきました。そしてスケートよりも先に、自転車で世界選手権の覇者になり世界一の座に着きました。そしてスケートのワールドカップでも100mで年間総合優勝を遂げ、怪物的な活躍を見せます。
さらに冬のオリンピックに続き、自転車で夏のオリンピックにも出場しました。
フジテレビのバラエティ番組で、司会の浜田雅功に、なぜ滑り終わった後すぐに胸のチャックを下げてネックレスを外に出すのか?と問われ
「プレゼントしてくれた彼氏に『ちゃんとつけてるよー』って見せたいから」
と答えて、大きな笑いを誘ったりしました。スピードスケートでも自転車競技でもトップクラスの実力を誇り、ルックスが良く、メディア受けの良い大菅は、本人の意思に関係なくスピードスケートと自転車競技の広告塔になっていました。天真爛漫で目立ちたがり屋の大菅にとって、広告塔は不本意ではなかったでしょう。しかし思わぬ事態に陥ります。
2005年は500mで日本新記録を打ち立てるなど、スピードスケートは絶好調に見えました。さらにトリノ五輪への出場も決まり、冬→夏→冬と3大会連続の五輪出場も話題になりました。しかしある時期から、スケートに苦戦するようになります。その原因はスタートダッシュでした。もともとスタートは苦手で、その後驚異的な筋力で爆発的な加速を見せてレースを制していましたが、以前よりもスタートに遅れが目立つようになってきたのです。そしてスケート関係者は口を揃えて、自転車競技からの撤退を勧めました。
自転車競技で鍛えられる筋力と持久力は、スケート界でも世界トップクラスになっていました。もはや自転車競技で得られるものは吸収しつくしていたのです。さらに64cmにもなった太ももが、スケートのフォームを崩していました。足が太すぎて胸に当たり、以前ほど前傾姿勢がとれないのです。これ以上自転車競技を続けることは、スケート選手にとってマイナスにしかならないと思われました。しかし自転車競技にとって、もはや大菅は外すことのできないスター選手になっていました。自転車側は大菅の留意に努めました。
もはやこの問題は、大菅個人のものではなくなっていました。スケート連盟、自転車協会だけのものでもなく、JOC(日本オリンピック委員会)にとっても、夏と冬のオリンピックで活躍する大菅は貴重な存在でした。明日から自転車は辞めますと大菅が言って、辞められるようなものではなくなっていたのです。大菅を綱引きするスケート連盟と自転車協会、それに仲裁に入るJOCによって話し合いが進み、大菅は宙ぶらりんになってしまいました。
トリノ五輪で8位入賞に終わると、三協精機を退社することになりました。アマチュア選手の多くは、ある程度の年齢に達しても競技を続けたい場合は、退社しなくてはならなくなります。アマチュアスポーツを支援する企業も資金が潤沢なわけではなく、新しい若手を入社させるためには古株が出ていかなければならないのです。トリノを終えた大菅は、次のバンクーバーを目指すと公言していましたが、バンクーバー五輪が開催される時には大菅は30歳になります。年齢的にも厳しいと思われ、次の移籍先探しに難航します。
再びフジテレビのバラエティ番組で浜田雅功に「せっかくだから、ここでアピールしときなさい」と促され、「どなたか私を雇ってください。なんでもします!」と言って笑いを誘いましたが、移籍先が決まらないとレースにも出られないという深刻な状況に陥りました。
しかしこの放送を見ていた大和ハウスが、ぜひ話だけでも聞いて欲しいと名乗りを上げ、「履歴書とか書いたことないんで、できること全部書いて持っていきました」という大菅の熱意もあって、大和ハウスへの移籍が決まりました。しかも大和ハウスからは選手を辞めた後も会社に残って欲しいと言われ、契約選手ではなく入社という形になりました。これは大菅のファンだった大和ハウスの社長の意向と、大菅の広告塔としての魅力が買われたと言われています。
大菅は陸上選手の秋本慎吾と知り合い、会うたびに「結婚しようよ」と猛アタックの末に結婚して二児を授かりました。「スピード競技ばかりしていたのでせっかち」と言う大菅は、のんびり屋の秋本にイライラすると言いながら、時折楽しそうな家族生活を報告しています。
私が大菅でーす!
スピードスケートの選手は、氷とエッジの間の繊細で微妙な感覚を大事にします。一本目の走りが良いと、今にも消えそうなその繊細な感覚を記憶にとどめ、二本目に活かそうと無口になります。周囲と自分を遮断し、話しかけも声は聞こえず、殻に閉じこもるようにして一本目の感覚を忘れないようにイメージを復唱するのです。しかし一本目で好スタートを切った大菅は、ミックスゾーンで記者達の質問にはしゃいで答えていました。その時のこと大菅は好スタートを切れた興奮から「見て見て、私を見て!私が大菅でーすって叫びたい気持ちだった」と、語っています。その様子に呆れた関係者は「大物なのかバカなのか」と首を傾げました。
天真爛漫な性格と挫折
大菅は白樺学園高校から三協精機に進みます。全く同じ経歴の先輩、清水宏保は大菅にとって憧れであり大きな目標でもありました。その清水が長野で世界新記録を更新して金メダルを獲った時は、寮のみんなで興奮したと言います。清水に会った大菅は、真っ先に「金メダル、見せてください」とお願いします。既に次の目標しか頭になかった清水は金メダルへの関心を失っていて、はしゃぐ大菅にポイっと放り投げました。「すごいなー、きれいだなー、欲しいなー」を連発する大菅に、清水は「そんなに欲しければ、お前も獲ればいいだろ?」と素っ気なく言い、大菅の興奮はマックスになります。
「きゃー!カッコいい!私も金メダル獲って、後輩に『欲しければ獲れば?』って言ってみたいー!って思いましたね」
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※長野オリンピックのメダル |
そんな大菅が初めて出場したソルトレイクシティ五輪は500mが12位、1000mが18位と全く実力を出せないまま終わりました。初めての大きな挫折で、これが大菅の転機になりました。
自転車競技への挑戦
スピードスケートの選手の多くは、自転車を使って筋力と持久力を高めます。大菅の爆発的なスピードを見た自転車競技の関係者から声がかかり、大菅は自転車競技に出場しました。そして釜山で行われたアジア大会の500mタイムトライアルレースで、いきなり銀メダルの快挙を遂げました。冬はスピードスケートでワールドカップの表彰台の常連になり、夏は自転車競技で次々とレースを制していきました。そしてスケートよりも先に、自転車で世界選手権の覇者になり世界一の座に着きました。そしてスケートのワールドカップでも100mで年間総合優勝を遂げ、怪物的な活躍を見せます。
さらに冬のオリンピックに続き、自転車で夏のオリンピックにも出場しました。
メディア受けするルックスと性格
以前から美人スケーターとして注目されていましたが、あけすけに何でも話す彼女の性格はメディアにも重宝されました。陽気でおしゃべりな大菅の元には、バラエティ番組のオファーも届きます。フジテレビのバラエティ番組で、司会の浜田雅功に、なぜ滑り終わった後すぐに胸のチャックを下げてネックレスを外に出すのか?と問われ
「プレゼントしてくれた彼氏に『ちゃんとつけてるよー』って見せたいから」
と答えて、大きな笑いを誘ったりしました。スピードスケートでも自転車競技でもトップクラスの実力を誇り、ルックスが良く、メディア受けの良い大菅は、本人の意思に関係なくスピードスケートと自転車競技の広告塔になっていました。天真爛漫で目立ちたがり屋の大菅にとって、広告塔は不本意ではなかったでしょう。しかし思わぬ事態に陥ります。
綱引きの狭間に落ちた大菅
2005年は500mで日本新記録を打ち立てるなど、スピードスケートは絶好調に見えました。さらにトリノ五輪への出場も決まり、冬→夏→冬と3大会連続の五輪出場も話題になりました。しかしある時期から、スケートに苦戦するようになります。その原因はスタートダッシュでした。もともとスタートは苦手で、その後驚異的な筋力で爆発的な加速を見せてレースを制していましたが、以前よりもスタートに遅れが目立つようになってきたのです。そしてスケート関係者は口を揃えて、自転車競技からの撤退を勧めました。自転車競技で鍛えられる筋力と持久力は、スケート界でも世界トップクラスになっていました。もはや自転車競技で得られるものは吸収しつくしていたのです。さらに64cmにもなった太ももが、スケートのフォームを崩していました。足が太すぎて胸に当たり、以前ほど前傾姿勢がとれないのです。これ以上自転車競技を続けることは、スケート選手にとってマイナスにしかならないと思われました。しかし自転車競技にとって、もはや大菅は外すことのできないスター選手になっていました。自転車側は大菅の留意に努めました。
もはやこの問題は、大菅個人のものではなくなっていました。スケート連盟、自転車協会だけのものでもなく、JOC(日本オリンピック委員会)にとっても、夏と冬のオリンピックで活躍する大菅は貴重な存在でした。明日から自転車は辞めますと大菅が言って、辞められるようなものではなくなっていたのです。大菅を綱引きするスケート連盟と自転車協会、それに仲裁に入るJOCによって話し合いが進み、大菅は宙ぶらりんになってしまいました。
行き場を失った大菅
トリノ五輪で8位入賞に終わると、三協精機を退社することになりました。アマチュア選手の多くは、ある程度の年齢に達しても競技を続けたい場合は、退社しなくてはならなくなります。アマチュアスポーツを支援する企業も資金が潤沢なわけではなく、新しい若手を入社させるためには古株が出ていかなければならないのです。トリノを終えた大菅は、次のバンクーバーを目指すと公言していましたが、バンクーバー五輪が開催される時には大菅は30歳になります。年齢的にも厳しいと思われ、次の移籍先探しに難航します。![]() |
※トリノ五輪の1コマ |
再びフジテレビのバラエティ番組で浜田雅功に「せっかくだから、ここでアピールしときなさい」と促され、「どなたか私を雇ってください。なんでもします!」と言って笑いを誘いましたが、移籍先が決まらないとレースにも出られないという深刻な状況に陥りました。
しかしこの放送を見ていた大和ハウスが、ぜひ話だけでも聞いて欲しいと名乗りを上げ、「履歴書とか書いたことないんで、できること全部書いて持っていきました」という大菅の熱意もあって、大和ハウスへの移籍が決まりました。しかも大和ハウスからは選手を辞めた後も会社に残って欲しいと言われ、契約選手ではなく入社という形になりました。これは大菅のファンだった大和ハウスの社長の意向と、大菅の広告塔としての魅力が買われたと言われています。
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※大和ハウス時代の大菅 |
まとめ
大菅はバンクーバー五輪の出場を逃がし、競技生活を終えました。オリンピックで表彰台に上がる力を持ちながら、周囲に振り回されてしまった印象が残ります。それは本人の天真爛漫さと愛すべきパーソナリティによる部分も大きいので、良かったのか悪かったのかなんとも言えません。しかし残念な気持ちも残ります。大菅は人気選手ばかりに負担をかけすぎる、現在のオリンピック広告の象徴のようでした。これまでもそういう選手はいましたが、夏も冬も通じて広告塔になった選手は他にはいません。![]() |
※家族写真 |
大菅は陸上選手の秋本慎吾と知り合い、会うたびに「結婚しようよ」と猛アタックの末に結婚して二児を授かりました。「スピード競技ばかりしていたのでせっかち」と言う大菅は、のんびり屋の秋本にイライラすると言いながら、時折楽しそうな家族生活を報告しています。
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