高田延彦がヒクソン・グレイシーに負けた日 /プロレスから幻想が消えた
先日、プロレスファンの夫婦の家に行った時に、プロレスは高田延彦がヒクソン・グレイシーに負けた時に一つの時代が終わったと言っていました。プロレスファンにとっては高田延彦がヒクソンに完敗、しかも2連敗したことがショックで、高田は戦犯扱いされました。しかし当時はさまざまな意見が交錯していて、中には試合前から高田に勝ち目はほとんどないと言っていた人も多くいました。プロレスに幻想を持つ人、持たない人で予想も感想も大きく変わる試合でもありました。今回はこの試合を振り返ってみたいと思います。
その一方で深刻な経営難に陥ったことでUインターは新日本プロレスとの対抗戦を実施し、Uインターはプロレスなのか格闘技なのかファンも揺れ動く事態になっていきます。高田はUインターを盛り返すために、400戦無敗のキャッチコピーで話題になっていたヒクソン・グレイシーとの対戦を強く望んでいました。93年にアメリカで開催されたUFCであっさり優勝したホイス・グレイシーは「兄は私の十倍強い」と公言したことで、ヒクソンの名前はクローズアップされました。その後、日本でヴァーリ・トゥード・ジャパンが開催されるとヒクソンは参戦し、あっさり優勝していました。そのため当時のプロレス界はヒクソンを無視できなくなっていたのです。
プロレス最強の幻想
高田延彦はUWF崩壊後にUインターを立ち上げていました。高田延彦は異種格闘技戦にも意欲的で、ボクシングの元ヘビー級チャンピオンのトレバー・バービックや元横綱の北尾光司に完勝し、プロレス最強を唱えていました。異種格闘技路線の新日本プロレスにより、あまりに強くなったプロレスの文脈から離れ、原点であるキャッチ・レスリングに回帰したUインターは格闘技色を強めて強さをアピールしていました。※対北尾光司戦 |
その一方で深刻な経営難に陥ったことでUインターは新日本プロレスとの対抗戦を実施し、Uインターはプロレスなのか格闘技なのかファンも揺れ動く事態になっていきます。高田はUインターを盛り返すために、400戦無敗のキャッチコピーで話題になっていたヒクソン・グレイシーとの対戦を強く望んでいました。93年にアメリカで開催されたUFCであっさり優勝したホイス・グレイシーは「兄は私の十倍強い」と公言したことで、ヒクソンの名前はクローズアップされました。その後、日本でヴァーリ・トゥード・ジャパンが開催されるとヒクソンは参戦し、あっさり優勝していました。そのため当時のプロレス界はヒクソンを無視できなくなっていたのです。
94年にはUインターの安生洋二がヒクソンの元を訪れて道場破りを行い、あっさりと返り討ちにされる出来事がありました。プロレスラーよりヒクソンが強いという人も増えていく中で、高田はヒクソンとの試合を熱望したのです。しかしUインターのリングでは中立性に疑問があるとして、ヒクソンは中立性のある場所を望み交渉は難航していきます。
その後、高田延彦の政界進出失敗でできた選挙費用の借金などもあり、ついにUインターは経営破綻します。Uインターの選手の多くは、新団体のキングダムに引き継がれますが、フリーになった高田延彦はテレビ局などと組んで、ヒクソンと戦うためにPRIDE1という舞台を用意しました。ヒクソンに勝てるのは高田しかいないという気運の中、高田とヒクソンと対戦が決定します。
この東の意見は、空手でありながら投げ技や寝技も取り入れた試合を行う大道塾の門下生には賛同者が多くいました。空手やキックボクシングで実績を積んだ選手でも、投げ技が入るだけで戦い方が全く異なることを身をもって経験していたからです。ましてや寝技が入ると別次元の戦い方を余儀なくされていましたし、構え方や立ち方から全く変わってくることを知っていました。彼らはPRIDE1で実施されるルールが、ヒクソン側の提案を丸呑みしたものだったため、高田の勝機は限りなく低いと見ていました。
また修斗の関係者にも、同様の考えの人が多くいました。初期の修斗はルールが揺れていて、当時はグランドでの打撃が認められたばかりでした。ルールの改定が戦い方を大きく変化させることを体験していた修斗の関係者も、同様にヒクソン側が提案するルールで勝つことは容易ではないことを知っていました。修斗王者の佐藤ルミナは「格闘技とプロレスは全く違うもの」としたうえで「(ヒクソンが)プロレスラーに負けてしまっては・・・ヤバイ」と語っています。さらにヒクソンがテイクダウンを奪えば、1分以内に終わると予言していました。しかしそれでも高田に期待する声があったのも事実です。身長で5cm、体重で12kg上回る高田には体格の優位性がありました。彼らは体格差によるアドバンテージも痛感していたからです。
もう1人、高田延彦がコーチとして招いたブラジリアン柔術黒帯で、柔術の試合でヒクソンと引き分けたこともあるセルジオ・ルイスという選手がいます。彼は高田に会うなり「本当にヒクソンとやるのか?」と尋ね、真剣な表情で「殴るな、寝るな、グルグル動き回れ」と繰り返し言い続けたそうです。彼は口にはしませんでしたが、高田の勝利を全く信じていなかったようで、とにかく高田が無事にリングを降りられることだけを考えていた節があります。ルイスにとってヒクソンはバーリトゥード(総合格闘技)の強豪で、高田はズブの素人だったのですから高田の勝利など想像も出来なかったのでしょう。
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ヒクソン戦に懸けていた高田は10カ月間に及ぶトレーニングを行いましたが、バーリ・トゥード未経験の高田は有効なトレーニング方法を知りませんでした。そのため暗中模索の激しいトレーニングが体のあちこちを痛めてしまい、治療しながらのトレーニングになりました。さらにヒクソン陣営は契約交渉を何度も揺さぶり、電話帳のように分厚くなった契約書の細かい点の変更を何度も求めてきます。試合日程は二転三転し、落ち着いてトレーニングできる環境ではありませんでした。
潤沢な契約金を得たヒクソンは関係者を伴って3週間前には来日し、コンディションを整えていきました。群がる報道陣を引き連れて野山を歩き、神秘的なヨガの呼吸法を見せるなどしてミステリアスな空気を作り出しました。バーベルを担いだりスパーリングを行うような誰もがイメージするトレーニングとかけ離れた様子は、ヒクソンが何をするかわからない怖さに繋がりました。高田はこうしたヒクソンの揺さぶりに、高田陣営は試合前から消耗していきました。
PEIDE1のリングに向かう高田は、まるで死刑台に上がるみたいな気分だったと告白しています。怪我によって肉体的に好調とは程遠いコンディションの高田は、精神的にも追い詰められていました。
UWFもUインターも、前田日明のリングスも(リングスには、ごく一部にブックのない試合もあったようです)、藤原義明の藤原組もブックのあるプロレスでした。それは真剣勝負をやっていれば一目でわかることでしたが、プロレスのブックに沿って行われる異種格闘技戦を真剣勝負とすり込まれていた日本のプロレスファンには見分けがつかないことでした。
おそらく、プロレス界ではアリ対猪木戦の反省があったのだと思います。アリのトレーナー、アンジェロ・ダンディの著書「勝つことを知った男」によると、アリ猪木戦は真剣勝負でした。だからこそアリは勝つことではなく絶対に怪我をしないことに徹しました。世界戦が決まっているアリにとって、プロレスで怪我をすることは絶対に避けなければならなかったのです。そのためアリは徹底的に離れて戦い、パンチを警戒する猪木は寝転んで試合を続けるというほとんどの時間を膠着状態で過ごすことになりました。アリ対猪木戦を経験したプロレス界は、ブックがなければ興行的に厳しいと判断したのだと思います。
しかしヒクソンは、柔術だけでなく幅広く挑戦を受けて勝っていました。ブックのない真剣勝負の異種格闘技戦を多く経験したヒクソンにとって、高田延彦の試合は真剣勝負から程遠いものに見えたはずです。そして真剣勝負を繰り返してきたヒクソンと、真剣勝負の経験がない高田には、ルール以前に経験値の違いが圧倒的にありました。しかしそんな事情を知らない、認めないファンは高田の勝利を信じていましたし、その期待が高田の肩に大きくのしかかります。
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佐藤ルミナの予言通り、テイクダウンを奪ってからのヒクソンは瞬殺でした。ヒクソンがこのパターンを何度も繰り返し練習しているのは明らかで、流れ作業のように簡単にタップを奪いました。ほとんど高田の攻め手がない試合にプロレスファンは大きなショックを受け、高田に不満をぶつけました。プロレスラーの中にも無謀な挑戦を行ったことや、負けたことを非難する声が上がりました。同じ負けでも惨敗だったことで、プロレスラーの最強幻想にヒビが入ったのです。
しかし日本でもアメリカでも、ガードポジションやテイクダウンディフェンスの考えが広まるのはもう少し先ですし、ガードポジションからの攻撃が日本で見られるようになるのは、さらに先です。上記のように佐藤ルミナは辛辣な戦前予想をしていましたが、当時の日本でバーリトゥード技術が最も進んでいたのは修斗だったからでしょう。ヘウソン・グレイシーに学んだエンセン井上が、修斗に多くの技術を持ち込んでいたからです。
しかしそんな技術的なこと以上に、高田は精神的に飲まれていました。試合前のインタビューでも、まるでヒクソンを崇拝するようなコメントが目立ち、戦う姿勢からはほど遠い状態でした。その遠因に、上記したような高田を巡る借金やUインターの破綻などがあったのも間違いないと思います。戦う前から勝敗はほぼ決まっていて、高田には勝ち目がない戦いだったのです。
そしてプロレスの幻想が崩壊すると同時に、グレイシーの幻想が始まります。決してフィジカルに勝るわけではないグレイシーの面々が、自分たちより遥かに優れたフィジカルを持つ選手を次々と撃破していった事実は、グレイシーの神格化に繋がっていきました。面白いことに、日本でグレイシーの幻想を砕いたのはプロレスラーの桜庭和志なのですが、それはまた別の話になるので割愛します。
そして新日本プロレスは、総合格闘技に何人もの選手を送り込んで多くの敗戦を経験することになります。敗戦でプロレス人気は低下し、2012年にはカードゲーム会社ブシロードの子会社になりました。しかしこのブシロードのてこ入れで、新日本プロレスは人気を復活させて設立以来最高の売上を記録するようになりました。プロレス最強幻想に縛られていた90年代より、健全な状態に見えるのは私だけでしょうか。今の方が輝いて見えます。
その後、高田延彦の政界進出失敗でできた選挙費用の借金などもあり、ついにUインターは経営破綻します。Uインターの選手の多くは、新団体のキングダムに引き継がれますが、フリーになった高田延彦はテレビ局などと組んで、ヒクソンと戦うためにPRIDE1という舞台を用意しました。ヒクソンに勝てるのは高田しかいないという気運の中、高田とヒクソンと対戦が決定します。
高田の勝利を信じなかった人々
極真空手から派生し、現在は空手道ではなく空道を提唱する大道塾の代表、東孝(あずまたかし)はUFCを連覇したホイス・グレイシーの強さについて、ルールに慣れていたことが最大の要因と語っていました。目と金的への攻撃、噛みつきを禁止して、それ以外はあらゆるルールが認められた試合など、ほとんどの選手が未経験だったため戦い方がわかっていなかったというわけです。東は大道塾でルールを変更するたびに戦略が変わり、有力選手が入れ替わる現状を見ていました。その競技で最も強いのは、そのルールに最も適応した選手と考えていました。※大道塾の東孝 |
この東の意見は、空手でありながら投げ技や寝技も取り入れた試合を行う大道塾の門下生には賛同者が多くいました。空手やキックボクシングで実績を積んだ選手でも、投げ技が入るだけで戦い方が全く異なることを身をもって経験していたからです。ましてや寝技が入ると別次元の戦い方を余儀なくされていましたし、構え方や立ち方から全く変わってくることを知っていました。彼らはPRIDE1で実施されるルールが、ヒクソン側の提案を丸呑みしたものだったため、高田の勝機は限りなく低いと見ていました。
また修斗の関係者にも、同様の考えの人が多くいました。初期の修斗はルールが揺れていて、当時はグランドでの打撃が認められたばかりでした。ルールの改定が戦い方を大きく変化させることを体験していた修斗の関係者も、同様にヒクソン側が提案するルールで勝つことは容易ではないことを知っていました。修斗王者の佐藤ルミナは「格闘技とプロレスは全く違うもの」としたうえで「(ヒクソンが)プロレスラーに負けてしまっては・・・ヤバイ」と語っています。さらにヒクソンがテイクダウンを奪えば、1分以内に終わると予言していました。しかしそれでも高田に期待する声があったのも事実です。身長で5cm、体重で12kg上回る高田には体格の優位性がありました。彼らは体格差によるアドバンテージも痛感していたからです。
※佐藤ルミナ |
もう1人、高田延彦がコーチとして招いたブラジリアン柔術黒帯で、柔術の試合でヒクソンと引き分けたこともあるセルジオ・ルイスという選手がいます。彼は高田に会うなり「本当にヒクソンとやるのか?」と尋ね、真剣な表情で「殴るな、寝るな、グルグル動き回れ」と繰り返し言い続けたそうです。彼は口にはしませんでしたが、高田の勝利を全く信じていなかったようで、とにかく高田が無事にリングを降りられることだけを考えていた節があります。ルイスにとってヒクソンはバーリトゥード(総合格闘技)の強豪で、高田はズブの素人だったのですから高田の勝利など想像も出来なかったのでしょう。
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試合前に決着はついていた?
PRIDE1が開催される約2年前に、高田延彦は近い将来に引退することを宣言して、参議院選挙に出馬しました。Uインターの外国人選手招聘の際にできた借金に加え、選挙資金、さらに出馬に伴うCMの違約金などでUインターは経営が傾き、借金が高田の肩に大きくのしかかっていました。精神的に消耗した状態で、高田はヒクソン戦の準備に取り掛かります。ヒクソン戦に懸けていた高田は10カ月間に及ぶトレーニングを行いましたが、バーリ・トゥード未経験の高田は有効なトレーニング方法を知りませんでした。そのため暗中模索の激しいトレーニングが体のあちこちを痛めてしまい、治療しながらのトレーニングになりました。さらにヒクソン陣営は契約交渉を何度も揺さぶり、電話帳のように分厚くなった契約書の細かい点の変更を何度も求めてきます。試合日程は二転三転し、落ち着いてトレーニングできる環境ではありませんでした。
潤沢な契約金を得たヒクソンは関係者を伴って3週間前には来日し、コンディションを整えていきました。群がる報道陣を引き連れて野山を歩き、神秘的なヨガの呼吸法を見せるなどしてミステリアスな空気を作り出しました。バーベルを担いだりスパーリングを行うような誰もがイメージするトレーニングとかけ離れた様子は、ヒクソンが何をするかわからない怖さに繋がりました。高田はこうしたヒクソンの揺さぶりに、高田陣営は試合前から消耗していきました。
PEIDE1のリングに向かう高田は、まるで死刑台に上がるみたいな気分だったと告白しています。怪我によって肉体的に好調とは程遠いコンディションの高田は、精神的にも追い詰められていました。
参考にならなかった高田のビデオ
高田延彦の過去の試合のビデオをヒクソンは見ていますが、1度見ただけで参考にならないと言っています。理由は、試合が真剣勝負ではなくフェイクだったからです。後に高田延彦は金子達仁の著書「泣き虫」のインタビューで、試合結果を事前に知らずにリングに上がったことはないと、Uインターまでの全ての試合にブック(あらかじめ試合の内容や、どちらが勝つか決めておくこと)があったことを認めています。ヒクソンは高田の試合を1度見て、真剣勝負ではないことを見抜いていました。UWFもUインターも、前田日明のリングスも(リングスには、ごく一部にブックのない試合もあったようです)、藤原義明の藤原組もブックのあるプロレスでした。それは真剣勝負をやっていれば一目でわかることでしたが、プロレスのブックに沿って行われる異種格闘技戦を真剣勝負とすり込まれていた日本のプロレスファンには見分けがつかないことでした。
おそらく、プロレス界ではアリ対猪木戦の反省があったのだと思います。アリのトレーナー、アンジェロ・ダンディの著書「勝つことを知った男」によると、アリ猪木戦は真剣勝負でした。だからこそアリは勝つことではなく絶対に怪我をしないことに徹しました。世界戦が決まっているアリにとって、プロレスで怪我をすることは絶対に避けなければならなかったのです。そのためアリは徹底的に離れて戦い、パンチを警戒する猪木は寝転んで試合を続けるというほとんどの時間を膠着状態で過ごすことになりました。アリ対猪木戦を経験したプロレス界は、ブックがなければ興行的に厳しいと判断したのだと思います。
※アリ対猪木戦 |
しかしヒクソンは、柔術だけでなく幅広く挑戦を受けて勝っていました。ブックのない真剣勝負の異種格闘技戦を多く経験したヒクソンにとって、高田延彦の試合は真剣勝負から程遠いものに見えたはずです。そして真剣勝負を繰り返してきたヒクソンと、真剣勝負の経験がない高田には、ルール以前に経験値の違いが圧倒的にありました。しかしそんな事情を知らない、認めないファンは高田の勝利を信じていましたし、その期待が高田の肩に大きくのしかかります。
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試合の展開
高田はヒクソンのタックルを警戒し、腰を低く落としてヒクソンの周りをグルグル回りました。この高田の様子を見て、後にヒクソンは高田の無策ぶりを感じたと言っています。高田は遠いところからローキックを単発で放ちますが、3分過ぎに捕まると豪快にテイクダウンを奪われました。サイドポジションを取ったヒクソンはすぐにマウントに移動して、そのまま腕ひじき十字固めに入ります。肘がすぐに伸びきって高田はタップしました。4分ちょっとのあっけない試合は高田の完敗で、ほとんど何も出来ないまま試合は終わってしまいました。佐藤ルミナの予言通り、テイクダウンを奪ってからのヒクソンは瞬殺でした。ヒクソンがこのパターンを何度も繰り返し練習しているのは明らかで、流れ作業のように簡単にタップを奪いました。ほとんど高田の攻め手がない試合にプロレスファンは大きなショックを受け、高田に不満をぶつけました。プロレスラーの中にも無謀な挑戦を行ったことや、負けたことを非難する声が上がりました。同じ負けでも惨敗だったことで、プロレスラーの最強幻想にヒビが入ったのです。
なぜ高田は負けたのか
現在では、ルールに対応できていないというのが最大の理由として挙げられていますが、それだけではないと思います。現代の視点で見れば、高田の戦い方はあまりにお粗末で、ほとんど素人だったことがわかります。テイクダウンディフェンスが全くできず、グランドに移行してからは、防御を知らないように見えます。高田が全くガードしないので、ヒクソンは流れ作業のようにサイドポジションからマウントポジションに移行しています。その様子は柔術の先生が生徒に教えているような感じで、高田はヒクソンにされるがままでした。しかし日本でもアメリカでも、ガードポジションやテイクダウンディフェンスの考えが広まるのはもう少し先ですし、ガードポジションからの攻撃が日本で見られるようになるのは、さらに先です。上記のように佐藤ルミナは辛辣な戦前予想をしていましたが、当時の日本でバーリトゥード技術が最も進んでいたのは修斗だったからでしょう。ヘウソン・グレイシーに学んだエンセン井上が、修斗に多くの技術を持ち込んでいたからです。
しかしそんな技術的なこと以上に、高田は精神的に飲まれていました。試合前のインタビューでも、まるでヒクソンを崇拝するようなコメントが目立ち、戦う姿勢からはほど遠い状態でした。その遠因に、上記したような高田を巡る借金やUインターの破綻などがあったのも間違いないと思います。戦う前から勝敗はほぼ決まっていて、高田には勝ち目がない戦いだったのです。
幻想の崩壊と幻想の誕生
高田の敗戦はプロレス関係者に大きな衝撃を与え、プロレスラーが最強という猪木の時代から語り継がれていた幻想が消えました。この最強幻想は梶原一騎の劇画による部分が大きく、幻想と現実をごちゃ混ぜにして現実とファンタジーの境界を曖昧にしたことで出来上がっていました。それこそがプロレス人気を支える根幹でもあり、プロレスの人気はプロレス最強幻想に支えられていたのです。しかし高田対ヒクソン戦で、その非情な現実の前にガラガラと音を立てて崩れ去っていきました。そしてプロレスの幻想が崩壊すると同時に、グレイシーの幻想が始まります。決してフィジカルに勝るわけではないグレイシーの面々が、自分たちより遥かに優れたフィジカルを持つ選手を次々と撃破していった事実は、グレイシーの神格化に繋がっていきました。面白いことに、日本でグレイシーの幻想を砕いたのはプロレスラーの桜庭和志なのですが、それはまた別の話になるので割愛します。
まとめ
プロレスの幻想が崩壊しても、プロレスは幻想を守ろうと抵抗していました。新日本プロレスは所属レスラーとヒクソンの対戦を提案し、一時は実現しかけていたようですが破談に終わっています。一説には新日本プロレス側が真剣勝負ではなくブックを持ちかけてヒクソンの態度が硬化したというのもあり、どこまで本当の話だったかは不明です。しかし視聴率を持つヒクソンと、日本人の誰かを対戦させたいというテレビ局の思惑があったのも事実で、さまざまな提案と交渉が行われたのは間違いないでしょう。そして新日本プロレスは、総合格闘技に何人もの選手を送り込んで多くの敗戦を経験することになります。敗戦でプロレス人気は低下し、2012年にはカードゲーム会社ブシロードの子会社になりました。しかしこのブシロードのてこ入れで、新日本プロレスは人気を復活させて設立以来最高の売上を記録するようになりました。プロレス最強幻想に縛られていた90年代より、健全な状態に見えるのは私だけでしょうか。今の方が輝いて見えます。
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