壮大なキューブリックのジョーク /「アイズ・ワイド・シャット」に見る神の視点

鬼才スタンリー・キューブリックの遺作として大々的に報じられた「アイズ・ワイド・シャット」が、日本で公開されたのは99年の夏でした。妹が見に行き「何のことかさっぱりわからんかった」と言っていて「見に行って解説して」と言う頼みで私も見に行きました。私はキューブリックの映画が大好きですが、全ての映画が好きというわけではありません。この映画は、あまり気が進まない映画でした。



ここに書くのは私なりの感想と解釈です。キューブリックの映画はどのようにも捉えられるので、誰かの感想や解釈を否定するものではありません。

あらすじ

ニューヨークの開業医のビルと妻のアリスは、クリスマスパーティに出席します。倦怠期を迎えた夫婦は、別々に分かれてパーティを楽しみますが、ビルもアリスもそれぞれ誘惑されてしまいます。それぞれ誘惑を断ち切り帰宅した2人は、ベッドで体を重ねるも口論になってしまいます。



浮気心を一度も抱いたことがないというビルに、アリスは以前出会った海軍士官との浮気を想像したと告白し、ビルはショックを受けます。そんな時に電話が掛かり、ビルの患者が急死したと連絡が入りました。アリスが他の男に抱かれるところを想像して苦悶するビルは、街を彷徨います。

不覚にも笑ってしまった

映画が終盤を迎え、アリスを演じるニコール・キッドマンがアップで「帰ってファックしなくちゃね」と言い、「アイズ・ワイド・シャット」の文字が画面に登場してエンドロールを迎えると、私は不覚にも笑ってしまいました。周囲の観客が怪訝な目で私を見ましたが、笑いが収まらずにいました。そして映画館を出て妹に電話し「この映画はジョークだ。キューブリックが何年も掛けて作ったジョークに、みんな騙されたんだ」と伝えました。



これが私が最初に見た時の感想の全てです。この映画は人を小馬鹿にしたキューブリックのジョークだったと今でも思っています。さまざまな解釈がこの映画にもたらされましたが、私にはあの世にいるキューブリックが、人の下世話な心理をバカにして笑っているような気がしていました。この映画は退屈でつまらない映画で、多くの人がそう言っていました。そういう人に「なぜつまらなかったの?あなたはこの映画に何を期待していたの?」と問いかける映画であり、私も自分の下世話な心を見透かされバカにされた気分になっていました。

宣伝広告も作品の一部だった

1995年12月、ワーナーブラザーズはキューブリックによる新作を発表しました。主演はトム・クルーズとニコール・キッドマンの俳優夫婦で、劇中でも夫婦を演じると発表されます。ハリウッドの人気スター夫婦が夫婦を演じるというのはインパクトがあり、大きな話題になりました。しかし完璧主義者のキューブリックは俳優との衝突が多く、本当に映画が完成するのかという不安も報じられました。



96年から撮影が始まると、トム・クルーズ夫妻はロンドンに移住しました。例によってキューブリックは秘密主義を通しますが、本作はちょくちょく情報がリークされていきます。その一つが、映画の中にはトムとニコールの激しいセックスシーンがあるというものです。ゴシップ誌はこの情報を書き立て、敬虔なモルモン教徒である2人に、そんなことができるのかと興味本位に書き立てました。

モルモン教では快楽のための肉体関係は、夫婦であっても禁じられているからです。そしてこのセックスシーンの撮影は、関係者を締め出して、トムとニコールとキューブリックの3人だけで撮影されているという情報も飛び交います。さらに案の定というべきか、2人は慣れないセックスシーンに戸惑い、撮影が遅延しているとも報じられました。そしてこの問題を解決するために、ロンドンのセックスセラピストがスタジオに呼ばれた、いや呼ばれたのはアメリカの著名なセラピストだと、ざまざまな情報が交錯します。



キューブリックは多くの噂を否定しますが、否定すると噂は真実味を持って広がりました。人々は秘密主義のキューブリックが、舞台裏を暴かれて怒っているのだと推察しました。中には、これほど内部事情が報じられることに違和感を持つ人もいましたが、これまでにない人気スターの共演が、情報の漏洩を起こしているのだとも考えられました。

そして明らかな事実として、撮影が大幅に伸びていました。実に400日もかけて撮影が行われ、ギネス記録になっています。

CMの公開

編集はいつものようにキューブリック1人の手で行われ、試写会ではトム・クルーズ夫妻とワーナーの重役2人が呼ばれただけで、映写技師も映画が始まると退室を命じられました。徹底した秘密主義の中で試写会は終わり、その直後にキューブリックは急死しています。急死の悲報に世間が揺れる中、キューブリックが編集したCMが放送されます。



CMはベッドの上で裸になったトム・クルーズとニコール・キッドマンが激しく相手を求め合う場面から始まります。宣伝用の字幕にたびたび2人の姿は消えますが、映像は全て2人の激しいベッドの上での行為でした。衝撃的な映像は話題になり、噂通りに2人の激しいセックスシーンがあることが確認されました。トム・クルーズはこのCMに不快感を示しましたが、多くの人の関心はハリウッドの人気スター夫婦が見せるセックスに移っていきました。

映画の公開

多くの人は2人のセックスシーンに関心を持って、劇場に足を運びました。物語はバスルームから始まります。洗面台の鏡の前で身支度するトム・クルーズ演じるビルと、便器に座っているアリス演じるニコール・キッドマンの会話が続きます。まるで人気スター夫婦のプライベートを覗き見るような映像です。



CMにあったベッドシーンは、思いのほか早くやってきます。ベッドで激しく互いを求め合いますが、あろうことかこの夫婦は口論を始めてしまいます。セックスはなく、気まづい夫婦喧嘩に発展し、ショックを受けたビルは街を彷徨います。なんてことだ、2人のセックスがあるんじゃなかったのか!と憤る観客を無視して、ビルは街を彷徨う中でざまざまな女性と出会います。



ビルは出会った売春婦を買おうとしますが、彼女はエイズキャリアであることを告白します。こうして次々と女性に会い、セックスをしようとするもののビルはことごとく運に見放されてしまいます。もはや観客の興味はニコール・キッドマンとの夫婦のセックスではなく、滅多に見られないトム・クルーズのセックスに興味が移っていきます。しかしことごとく失敗し、ビルは失意のまま店に入ります。そこにいたのは妻のアリスでした。



2人は互いのワガママを認め、仲直りします。良い雰囲気になってきました。アリスはビルに笑顔で「帰ってファックしなくちゃ」と言います。長い回り道を経て、ようやく最初の夫婦のセックスになるのです。しかし次の瞬間に画面は暗転し「アイズ・ワイド・シャット」の巨大な文字が現れて、エンドロールになってしまいます。この瞬間、私は「アイズ・ワイド・シャット」という意味不明な言葉の意味を理解しました。

「アイズ・ワイド・オープン」は「目を大きく開いて」の意味です。しかし「シャット」になると「目を大きく閉じて」という意味不明の言葉になっていました。目を閉じて見ろとも訳せるこの言葉は「あとは勝手に想像しろ」という意味だったのです。キューブリックの映画によくある、突き放したような冷めた視点が存在し、スター夫婦のセックスを見たいと願った大衆を嘲笑っているように感じました。この突き放した視点は、神の視点と呼ばれています。

壮大なジョーク

95年12月に、ワーナーが「アイズ・ワイド・シャット」の製作発表をした時から、私たちはキューブリックの手のひらで弄ばれていたのです。大衆の下世話な好奇心を喚起し、人気スター夫婦のプライベートを覗きたいという興味を集めました。映画では夫婦のセックスが見られるとか、セラピストが必要になったとかの情報がリークされ、その下世話な好奇心をかき立てました。



その挙句、映画ではエロティシズムな場面が何度もあるものの、セックスは描かれませんでした。完全な肩透かしで、公開前の想像とは全く異なる映画に仕上がっています。キューブリックは多くを語っていません。唯一公式なコメントは、

「幸福な結婚生活に存在する、セックスについての矛盾した精神状態を探り、性的妄想や実現しなかった夢を現実と同じくらい重要なものとして扱った」

という一文だけです。この言葉に嘘がないことは、映画を見れば理解できます。しかし大衆は噂話と刺激的な映像により、勝手に想像を膨らませていました。この映画はそういった大衆の下世話な心理を嘲笑い、突き放すように「後は勝手に想像しろ」と言い放ちます。この映画が面白くないという人には「では、お前は何を期待したんだ?」と問いかけます。下世話で破廉恥な欲求を満たせなかった苛立ちだけを残し、映画は幕を閉じます。まるで「ね、人間ってバカな生き物でしょう?」と神の視点から嘲笑われているような気分になります。

まとめ

この映画ば傑作という声と駄作という声に二分されています。私はとんでもない駄作だと思うのですが、これほど壮大なジョークを莫大な予算をかけてできるのはキューブリックぐらいしかいないので、十分に堪能しました。この映画には、重厚な哲学的解釈をしている評論も見かけますが、私にはジョークにしか見えませんでした。それで私は十分に満足していますし、我が道を歩み続けたキューブリックにふさわしい遺作だと思っています。

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