バスケットボール風雲録 /腐敗した組織の再生

ある飲み屋で知り合った男性が、酔った勢いで不満を言っていました。「問題は女子なんですよ。協会の理事は男しかおらんでしょ。あいつら男子のことしか考えとらんけど、男子はオリンピックにも出られんのです。でも女子は可能性があるんですよ。協会は女子のことをなんも考えていない」不満というより怒りに近かったと思います。



この時、日本のバスケットボールにはトップリーグが2つ存在し、国際バスケットボール連盟(FIBA)から統一するよう是正を命じられていました。日本はオリンピック出場資格を剥奪される瀬戸際でしたが、日本バスケットボール協会(JBA)の改革は遅々として進んでいませんでした。数年前まで大学でコーチを務めていたというこの男性は、このままでは日本のバスケットボールが終わると嘆いていました。絶体絶命の危機に陥っても、日本のバスケットボール界には危機感がなかったのです。

日本初のプロバスケットボールチームの誕生

長引く不況により多くの企業が運動部を廃止する中、バスケットボール部の廃部も続いていました。そのためJBAは、以前から要望の多かったプロリーグ創設に向けて動き出します。そんな中、2000年に日本初のプロバスケットボールチーム、新潟アルビレックスBBが誕生します。華々しく報じられた新潟アルビレックスBBですが、実態は大和証券バスケットボール部の活動が停止になり、行き場を無くした選手達がスポンサーを募って誕生したチームでした。その際にサッカーJリーグのアルビレックス新潟のスポンサーであるNSGグループが受け皿になり、同じアルビレックスを名乗って共に新潟を盛り上げようとなったのです。

※発足時のメンバー(新潟アルビレックスBB公式サイトより)


2001年、JBAはプロリーグに向けて足場固めを行い、バスケットボール日本リーグ機構(JBL)を設立しました。さらにこれまでのリーグを廃止してJBLスーパーリーグをJBL主催で開催し、ホームタウン制度を導入します。これでプロリーグ創設に弾みがつくかと思われましたが、遅々としてプロリーグの話は進みませんでした。これはチームのほとんどが大企業のバスケットボール部として運営されていたのに対し、プロリーグにするには会社と切り離してチームを独立した会社にする必要があったからです。

bjリーグの誕生

新潟アルビレックスBBはリーグのプロ化に向けて、地域に根ざしたチームになるべく様々な活動をしていきました。しかしプロリーグの話は全く進みません。彼らがプロリーグにこだわったのは、興行権が欲しかったからです。JBLスーパーリーグでは、興行権をJBL(バスケットボール日本リーグ機構)が持っていました。新潟アルビレックスBBが、資金を投じて様々なPR活動を行い、観客を増やしても入場料は全てJBLに入ってしまうのです。



やがて新潟アルビレックスBBは資金不足に苦しむようになり、プロ化が進まないためスポンサーも出資に難色を示すようになりました。そこで彼らは思い切った行動に出ます。JBAがプロリーグを作れないなら、自分達で作ろうと考えたのです。2005年、下部リーグに所属するチームを引き連れ、JBLを脱退して新たにプロリーグのbjリーグを設立しました。



この行動にJBAは激怒し、bjリーグに参加した選手を除名しました。bjリーグに所属する選手は、オリンピックやワールドカップに出場できなくなったのです。さらに審判の派遣を拒否し、bjリーグで笛を吹いた審判には重いペナルティを課すことを決めます。そしてJBL傘下の選手がbjリーグの選手に会うことも禁じました。それに加えてbjリーグのトライアウトを受けた学生を即刻除名処分にするなど、感情的な厳しい対応をしていきます。

こんな苦難の始まりでしたが、6チームで始まったbjリーグは観客動員数を増やしていき、2006年には福岡と沖縄が、2007年には浜松と滋賀が参加するなど参加チームを徐々に増やしていきました。最終的に参加チームは24チームになり、本家のJBLスーパーリーグより大きな盛り上がりを見せるようになっていきました。

福岡レッドファルコンズの悲劇

新潟アルビレックスBBのスーパーリーグ脱退により、JBLスーパーリーグには新たなチームが必要になりました。そのため急造されたチームが福岡レッドファルコンズです。経営はチームに出資した会社の社長が押し付けられる形で社長におさまり、スポンサーを獲得できないままリーグ開幕に突入してしまいました。スポンサーになるつもりが経営を押し付けられるということで、そもそも社長にはスポーツチーム運営のノウハウがなかったようです。



先に書いたようにJBLスーパーリーグのチーム興行権がチームにないため、スポンサーからの出資だけでチーム運営を行っています。しかし福岡レッドファルコンズは、スポンサーがいないまま始動することになってしまいました。そのため開幕から資金繰りが悪化し、給与の未払いや遠征費用が選手負担になるなど混乱していきます。社長は自分の会社から費用を捻出してチームの資金に当てますが、これが不正経理として後に問題視されます。

資金の目処がつかない中、社長は自身の生命保険を選手の未払い給与に充てようと自家用車に練炭を持ち込み自殺を図りました。幸い知人が発見して救助したことで一命を取りとめますが、JBLスーパーリーグの運営がガタガタになっている象徴的な出来事でした。こうして福岡レッドファルコンズは、シーズン開始数ヶ月でチームを解散することになりました。この事件はバスケットボールのプロ化に大きな傷跡を残すことになります。

2006年世界選手権

日本で開催された世界選手権は、当初は埼玉県で集中開催の予定でしたが、会場の都合で分散開催になります。しかしレブロン・ジェームズなどNBA選手の来日など話題も多く、大会は盛況に終わりました。日本は1勝4敗と厳しい成績で様々な課題を残しますが、それ以上に問題になったのが大会の赤字が13億円になったことです。

※世界選手権日本代表


JBAは赤字の半分を都道府県協会に負担してもらうことを提案して、多くの評議員の反発を招きました。福岡レッドファルコンズ問題に続き執行部の予算見積もりの甘さが問題視され、反執行部派が執行部の退陣を迫る内紛に発展して行き、日本オリンピック委員会(JOC)は資格停止処分を決めます。こうして日本のバスケットボールは、オリンピックの道を断たれてしまいました。

さらに国際バスケットボール連盟(FIBA)から、JBLスーパーリーグとbjリーグの2つがあることを問題視され、リーグを統一するように要求されると内紛が激化します。ついにはJBA執行部の総辞職という形で決着がつきました。この総辞職によりbjリーグ反対派が一掃され、2010年にJBAはbjリーグの選手全てを再登録してリーグの統一を図る準備が整いました。

統一への問題

統一リーグのための話し合いが始まると、問題が山積していることが改めて浮き彫りになりました。それぞれがホームタウン制度を敷いているため、bjリーグとJBLの2チームが存在する地域がありました。どちらかが移転しなくてはなりません。またbjリーグでは企業名を外して地域に密着してチーム作りをしてきました。しかしJBLの企業チームは、企業名を外すことを嫌がりました。JBLのチームはあくまでも企業のバスケットボール部の延長であり、企業名を外すと会社が出資する意味がなくなると考えたのです。



こうした問題を抱えながら話し合いは進まず、ついにFIBAを怒らせました。2013年、FIBAのバウマン専務理事はトップリーグを統合するなど3つの要求をJBAに通告し、2020年の東京オリンピックでの開催枠による出場の撤廃を言い出しました。「これが最後のチャンスだ」と言い切る厳しい内容で、JBAは早期に改革を実施しなくてはならなくなります。しかしそれほどの状況でも、改革は進みませんでした。2014年の10月まで何の進展もないまま時間が過ぎ、FIBAはJBAに対して無期限の資格停止処分を行いました。

この前代未聞の処分はJBAの信頼を完全に失墜させ、リーグの存続も危ぶまれていきます。そしてJBAに任せていては何ら解決しないと判断したFIBAが、自ら乗り出してきました。これは異例中の異例の対応です。もはやJBAには問題解決能力も自浄能力もないと、FIBAに断言されたわけです。

作業部会の設置とBリーグ

FIBAはJapan 2024 Taskfroceという作業部会を設置します。日本のバスケットボールを終わらせるか、血を流すかどっちかを選べと言わんばかりの有無を言わせぬ強引さで設置され、作業部会のリーダーにはJリーグで手腕を発揮した川渕三郎氏が任命されました。「こんな愚かな競技団体はない。なんでこんなもったいないことをしているんだ!」川渕氏は声を張り上げ、豪腕を発揮して改革を推し進めていきます。川淵氏はリオ五輪までに制裁解除を勝ち取ることを目標に掲げ、さまざまな施策を実施していきます。

※川渕三郎率いるタスクフォース


川淵氏はJリーグ時代から独善的なやり方に批判がありました。タスクフォースに来てからの川淵氏はさらに独善的なやり方で臨み、多くの不満を生みました。しかし全員が満足するやり方を探して、JBAは何も決まらず何年も過ごしてきたのです。JBAには荒療治が必要で、そのために川渕氏の豪腕が必要とされたのです。川渕氏がアマチュア規定で1部リーグに2名しか登録できないことや、企業名を残す条件として独立法人を作ることを決めると、激しい反発が起こりました。従来の企業所属のバスケットボール部では、参加できなくなるのですから、大企業が抵抗したのです。

川淵氏はJBLスーパーリーグでもbjリーグでもなく、第三のリーグとしてBリーグを設立して各チームに合流するように訴えました。しかも5000人収容のアリーナで8割使用できるようにしなくてはならない、3期連続で赤字を出したチームは退会してもらうと無理難題を突きつけました。福岡レッドファルコンズのように、資金繰りが上手くいかないチームは関係者だけでなくファンも巻き込んで全員を不幸にします。川淵氏はチームが自立して稼げるようになることが、絶対に必要だと考えていたのです。さらに川淵氏は競技人口が多いバスケットボールで日本トップクラスの選手が、年収数百万円というのはあまりに寂しいとも言いまいた。少なくとも年俸5000万円ぐらいの選手が出てくるリーグでなければ、バスケットボールには夢も未来もないと言っています。

川渕氏のやり方には不満も批判もありましたが、誰もが満足できる改革をやる時期はとうに過ぎていました。そのやり方は我々に従うかバスケを辞めるかどちらか選べと言わんばかりの強引さでしたが、徐々に改革は進んでいきました。こうして様々なドタバタがあり、10年以上も揉め続けたバスケットボールは、わずか4ヶ月で方向性が決定しまいた。こうして統一プロリーグのBリーグが2016年に始まりました。

まとめ

不安視されたBリーグですが、多くのチームが黒字化に成功してまずまずのスタートを切りました。経営の健全化を最初の目標に掲げていて、3期続けて赤字になるとライセンスの剥奪など厳しいルールを設けました。その結果、琉球ゴールデンキングスなどは多くのスポンサーを獲得して、ホームの試合ではほぼ満員にするなど好調で、選手への投資も徐々に拡充しています。

長期に渡りプロ化の過程で右往左往したバスケットボールですが、Bリーグ誕生以降はビジネスとして確実に成長を遂げています。収入が増えれば選手に支払える年俸も増えていき、昨季はBリーグ選手の平均年俸が1300万円を超えました。千葉ジェッツの富樫勇樹選手は年俸1億円の契約も結びましたし、徐々にバスケットボールも夢のあるスポーツに変貌しつつあります。今後のBリーグの発展に期待しています。


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