1969年12月9日、カリフォルニア州のオルタモント・スピードウェイで開催されたコンサートで、4人の死者が出ました。そのうち1件は殺人事件であり、ロック史上最悪のコンサートとして記憶されることになりました。今回は、この事件を振り返ってみましょう。
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ウッドストック・フェスティバル
1969年8月15日から3日間かけて、ニューヨーク州サリバン群で野外コンサートが開かれました。主催したのは親の遺産を相続した青年らで、ほぼ素人が世界最大規模のコンサートを実現してしまいました。愛と平和の祭典と呼ばれたこの野外コンサートは、前売りチケットが18万枚以上売れて記録的な売上になりました。
しかし当日には40万人とも60万人とも言われる人々が大量に押し寄せ、道路はニューヨーク市内まで渋滞になり、混乱と暴動を恐れた主催者はフリーコンサートを宣言して、チケットがない人も見ることができるようになりました。企画当初は2万人程度のコンサートとして検討されていたため、会場では食料やトイレが不足し、さらに度重なる雨によって会場は難民キャンプのようになってしまいました。
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※ウッドストックの会場風景 |
軍によって救援物資が投下される中、野外コンサートは続けられ、さまざまな混乱は起こったもののイベントは大成功と報じられ、愛と平和の祭典は偉業となりました。そしてここに呼ばれなかったローリング・ストーンズは、独自にフリーコンサートの計画を立てることになります。彼らは混乱を招くバンドとして、主催者に敬遠されたのです。
ローリング・ストーンズのUSツアー
ウッドストックの歴史的な成功と、その様子を映画化することを知ったストーンズのミック・ジャガーは、自分たちもフリーコンサートを開催して、それを映画化しようと考えます。そしてウッドストックの映画より先に公開して、話題をさらおうとしました。ストーンズはアメリカツアーを行なっている最中の1969年11月26日に記者会見を開き、12月6日にカリフォルニアでフリーコンサートを開催すると発表しました。
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※69年のアメリカツアー |
開催まで2週間もない発表ですが、この時点で会場すら決まっていませんでした。しかも会場探しは難航します。あらゆる会場のオーナーは協力を拒否し、もはや中止かと思われた時にオルタモント・スピードウェイのオーナーのディック・カーターが無料でサーキットの宣伝をすることを条件に引き受けてくれました。一説によると会場が決定したのは12月4日、つまり開催2日前だったとされます(4日前という説もあります)。
フリーコンサート開催まで
開催日まで日がないため、あらゆる準備が間に合っていませんでした。音響機器の設営や、ウッドストックで問題になった食料やトイレも間に合わず、さらに警備がいませんでした。もとより大規模なフリーコンサートに反対していた警察は難色を示し、あらゆる団体は数十万人を警備するには準備期間がないと断ってきました。そんな中、出演予定のバンドの1つ、グレイトフルデッドのジェリー・ガルシアがヘルズ・エンジェルスを推薦してきました。彼らは500ドル分のビールと引き換えに警備を引き受けます。
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※ジェリー・ガルシア |
日本ではヘルズ・エンジェルスを暴走族と紹介されることが多いのですが、これは誤解しやすい表現です。彼らは麻薬の密輸や売買、売春や恐喝を主な収入源にしており、殺人を行った者も多く含まれるため、日本で例えるならオートバイに乗った暴力団のような存在です。このような集団がわずか500ドル分のビールで引き受けたということは、ほとんどボランティアであり、まともに仕事として考えているとは思えませんでした。しかもディック・カーターは、エンジェルスとの仲介をしていた人物が信用できず、ビールが彼らの手に渡ったとは思えないと語っています。
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※ヘルズ・エンジェルス |
カーターは相次ぐ準備不足から、何度もミック・ジャガーに相談します。しかし何を言ってもミックは「問題ない」と繰り返すばかりで、キース・リチャーズは良いドラッグと酒のありかばかりを気にして相談できる雰囲気ではなかったといいます。なぜこれほどストーンズが呑気だったかというと、この年の7月にストーンズはイギリスのハイドパークで故ブライアン・ジョーンズの追悼目的でフリーコンサートを実施していて、30万人を集めて大成功していたからでした。その時の警備はヘルズ・エンジェルスのイギリス支部のメンバーでした。この成功体験が、ストーンズの危機意識の芽をつんでいました。
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※ハイドパークの追悼コンサート |
開催当日
相次ぐ会場の変更情報に振り回された観客は、フラストレーションを募らせて会場入りしました。準備不足のため会場入りも混乱し、入場口ではケンカも起こり、麻薬中毒と思われる錯乱状態の者までいて不穏な空気が漂います。会場内ではケンカによる怪我人、麻薬によるオーバードースで倒れる者、その他さまざまな乱痴気騒ぎによる怪我人、体調不良などが大量発生しますが、医者も医薬品も全く足りませんでした。12月の寒さは容赦なく観客を襲い、彼らの苛立ちはピークに達していました。
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※会場内ではACID(LSD、幻覚剤のこと)が1ドルで販売されていました。 |
会場内には質の悪い麻薬が出回り、バッドトリップして暴れだす者が大量に出ており、警備担当のヘルズ・エンジェルスはビリヤードのキューで滅多打ちにして回ります。暴力の連鎖が始まり、中にはエンジェルスと目があっただけで瀕死の重傷を負うほど殴られる者も出はじめ、階上の混乱は時間とともに激しくなっていきました。ストーンズはヘリで現地入りしますが、錯乱した観客によってミック・ジャガーは殴られました。会場の秩序はほぼ消滅しかかっていました。グレイトフル・デッドは会場入りしますが、あまりの混乱ぶりに会場を後にしました。
コンサートの開始
30万人とも50万人ともいわれる観客は、開始前から荒れていましたが、演奏が始まるとさらに荒れていきます。ジェファーソン・エアプレインは演奏と同時に観客同士で殴り合いが始まるため、何度も演奏を止めています。「お願いだから、愛してない人とは体を離して」という訴えもむなしく、観客の殴り合いは止まることはありません。それを制止するためにエンジェルスのメンバーがキューで観客を叩きのめすため、混乱がさらに広がりました。ジェファーソン・エアプレインのメンバーのマーティ・バレンはエンジェルスの暴力を止めるために食って掛かり、殴られて失神するトラブルまで発生しました。
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※ビリヤードのキューで観客を襲うエンジェルス |
この時点でコンサートは中止するべきだったはずですが、その後もコンサートは続けられました。中止することで暴動が起こると思われたのです。そんな中、ストーンズはいつものように開始時間になっても登場せず、観客を焦らしました。興奮を盛り上げるいつもの手段ですが、荒れ狂う観客の前には逆効果で、寒さと飢えと悪い薬によってバッドトリップしていた観客は、さらに狂暴になっていきました。荒れ狂う観客の前にストーンズが現れると、狂暴化した観客はステージに押し寄せていきます。
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※混乱するジェファーソン・エアプレインのステージ |
ストーンズのライブ
ステージに上がったミック・ジャガーは「踊るためのスペースを空けてくれ」と、エンジェルスのメンバーに言っています。ステージと観客席を仕切るスペースがないため、観客はステージに押し寄せており、それを蹴散らすためにエンジェルスが大量にステージ上に上がっており、もはやエンジェルスの隙間でストーンズは演奏することになったのです。誰のものかはわかりませんが、ステージ上を犬が我が物顔で歩き回り、エンジェルスのリーダーのソニー・バージャーは今にも殴り掛からん表情でミック・ジャガーを睨みつけています。
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※ミックを睨むソニー・バージャー |
3曲目の「悪魔を憐れむ歌」で、ミックは演奏を中止させました。会場内のケンカが酷く、危険だと判断したからです。「みんな、誰のためにケンカしてるんだ?」と問いかけるミックの隣で、キースは誰かを指さし、「俺はあいつが辞めない限り演奏しないぞ」と怒鳴っています。曲は何度も中止され、キースが「みんな、音楽を聴きたいんじゃないのか?」と問いかけると、エンジェルスのメンバーが「ファック・ユー!」とキースに怒鳴りました。もはやコンサートどころではありませんでした。
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※観客が押し寄せるストーンズのステージ |
エンジェルスはステージに上がろうとする観客の顔をブーツで蹴り上げ続け、キューで滅多打ちにしていきます。血まみれになった観客を運び出そうとする人もいましたが、ステージ周辺は身動きがとれなくなっていました。「アンダー・マイ・サム」の演奏中に、再び混乱が生じて演奏が中止されます。記録映画には群衆の中を逃げ惑う黒人の姿と、その首筋にナイフを突き立てるエンジェルスのメンバーが映されています。ストーンズは目の前で殺人が行われていることに気が付かず、そのままコンサートは続けられ、ヘリで会場を後にしました。
オルタモントの悲劇
エンジェルスのメンバーは殺人で起訴されますが、報復を恐れた人々は裁判での証言を拒否しました。エンジェルスは殺された黒人のメレデス・ハンターが拳銃を取り出して、ミック・ジャガーに向けていたためナイフを使用したと証言し、拳銃は発見されませんでしたが正当防衛が認められました。オルタモントでは、この他にも道で寝ていて車に轢かれた者が2名、錯乱して警察から逃げている時に用水路に落ちた者1名を加えて4名が死亡しました。さらにこの混乱の中、出産した人が2名いたというおまけまでついています。
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※殺されたメレデス・ハンター |
この混乱に満ちたコンサートは、当初は成功に終わったかのように報じられましたが、すぐに混乱がすっぱ抜かれ、殺人が起こったことが報じられます。エンジェルスは混乱の原因は全てストーンズにあると批難し、エンジェルスとストーンズの間には決定的な亀裂が生まれました。エンジェルスの怒りはすさまじく、メディアで激しくストーンズを攻撃しており、一説にはミック・ジャガーの暗殺計画もあったとされています。
コンサートの混乱はメディアの格好の標的となり、ストーンズは殺人の様子を含めた記録映画「ギミー・シェルター」を公開しました。オルタモントのフリーコンサートは、歴史に残る大失態として記録されることになりました。
ヘルズ・エンジェルス側から見てみる
100人ほどのエンジェルスのメンバーが、暴力の限りを尽くして事態を悪化させたと言われていますが、エンジェルスを擁護する意見もあります。彼らは旧知のジェリー・ガルシアたっての頼みをわずか500ドル分のビールで引き受けたのですから、ボランティア程度の感覚だったはずです。ラリった連中を押さえつけることもあるかもしれないが、音楽を聴きながらビールを飲んで一晩を終えるつもりでやってきたのです。
しかし会場に入ると異様な空気が漂い、ラリって暴れる群衆を相手にしなくてはなりませんでした。わずか100人で荒れ狂う数十万人を相手にするのは、彼らにとっても恐怖だったはずです。わけもわからずケンカを売って来る観客、自分たちのバイクを破壊する観客、全裸で踊る女たちを前に、当初とは全く異なる展開に戸惑いも覚えたでしょう。もともと狂暴なエンジェルスが、混乱の縮図のような場所に置かれたら、彼らにとって解決策は暴力しかなくなったのは容易に想像がつきます。
これほどの混乱を前に中止しないストーンズの神経も疑ったでしょう。ストーンズは中止するどころか、自分たちが演奏することが混乱を鎮めると信じていたかのように演奏を続け、混乱に拍車をかけていきました。さらにエンジェルスの主張によれば、ギャラのビールも支払われていないとのことで、彼らからするとストーンズは思い上がった嘘つきでしかなかったのかもしれません。
映画ギミー・シェルター
全編が暗い雰囲気で、コンサートの記録フィルムと、スタジオでその映像を見るストーンズのメンバーの映像が中心になっています。殺されたメレデス・ハンターの恋人が泣き叫ぶ様子もあり、やるせない気分になります。それ以上に見ていて不快なのは、当時のミック・ジャガーが自身を全知全能の神のようにふるまっていることで、この思い上がりが悲劇の一因なのは間違いありません。
ウッドストックに呼ばれなかった腹いせ、ビートルズのコンサート収入を抜いたことで起こった批判など、ほとんど自己中心的な理由でろくに準備もせずにフリーコンサートを実施し、その結果4名もの死者を出してしまいました。この映画には、そういった反省は見られません。しかしこの映画が当時の狂った雰囲気を知る、超一級のドキュメンタリーになっているのも事実です。60年代のアメリカを語る際に、この映画は見ないわけにはいかないと言えると思います。
まとめ
ヒッピー文化は60年代のアメリカで最高潮に達し、それがウッドストックの成功を導きました。そしてわずか半年後のオルタモントで、そういったものは幻想だったと言えるほど悲惨な結果をもたらしました。ヒッピーが唱えた愛と平和は、オルタモントで終わったと言えます。しかしコンサートに数十万人が集まり熱狂する様子は、大企業には違った見方をもたらしました。ロックコンサートは巨大マーケットになると認識したのです。
70年代に入り、商業ロックと言われる巨大プロモーションを背景に音楽が売り出されるようになり、音楽はビッグビジネスに変わっていきます。巨万の富が動き、ヒット曲を当てれば一生食べていけるほどの金が入るようになり、各レコード会社はこのビジネスに躍起になりました。69年を境に音楽は変わりました。その分岐点にオルタモントの悲劇はあったのだと思います。
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本当にその画像ソニーバージャー?
返信削除木村英輝さんゲストの角田龍平 蛤御門の変を聞いてググったらこちらにたどりつきました
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