橋下徹大阪市長への批判と賞賛

※こちらは以前の「はねもねの独り言」に書いていた記事です。

橋下市長は賞賛と批難の両方を浴びていますね。個人的には当然の施策と思うものと疑問符が付くものがあるので、一概に橋下市長をどうこう言うつもりはありません。さらに私は大阪に住んでいないので、細かく政策を見ているわけではないので詳細についての評価は現時点ではできません。そこで私が不思議に思う橋下市長への批判について書いてみたいと思います。


自民党が政権に就いている頃、多くの人は密室政治を批判していました。また国会や個別の委員会の議論は名ばかりで、実際には水面下の根回しで大方が決まってしまうやり方に不満が上がっていました。政治の透明化が叫ばれたのは、こういう不満が背景にあったと思います。密室ではなく開かれた場所で議論が行われれば、それを有権者が見ることで判断材料にできるはずです。

そういった背景があるからかはわかりませんが、橋下市長は議論をオープン化しています。議論の場所がテレビカメラの前だったりネットだったりしますが、行き過ぎの中傷合戦になりかけることもありながら、とりあえずは人が見ている場所でやりあっています。まさに求められていた公の場での議論だと思うのですが、今度はこれが批判されています。

橋下市長は相手構わず反論者に喧嘩を売っているように見えますが、作家の冷泉彰彦氏の反論には極めて落ち着いて返事をしています。もっともこの冷泉氏の反論はイデオロギー論争抜きの数少ない冷静な反論ですから、他と対応が異なるのは当然かもしれません。しかし少なくとも橋下市長が好き好んで喧嘩を売りまくっているわけではないようです。ただ一方的に論戦で相手を叩きのめすと、ファシストといった批判が起こっています。

橋下市長が、もう少し柔らかい言葉で反論すればいいんでしょうか。問題の本質はそうではないように思います。この根底には有権者があるべき政治家の姿がイメージできていないということがあるように思いますが、それは私の考えすぎでしょうかね。それと橋下市長と反対派の間には、政治構造や教育問題といったものとは別にイデオロギーの対立が大きく横たわり、それが議論を変な方向に持っていってしまいます。そしてこのイデオロギー対立を呼び込んだのは、橋下市長の方でした。

上記の冷泉氏の反論の中で、教育改革にイデオロギー論争を持ち込んだという指摘があるのですが、私が橋下市長に最も大きな違和感を覚えるのがこの点でした。論争の戦術として、反日の丸・君が代論者を炙り出すことでレッテルを貼って叩きのめすことは可能ですが、これでは教育改革の本筋からズレた議論が横行すると思ったからです。そして現実に橋下式教育改革イコール君が代で起立という風な新聞記事すら見かけることがあります。

つまり教育改革を論じるべき論争で、日の丸・君が代のイデオロギー対立が主役になってしまい、それがそのまま伝えられることで本来の意味での教育改革が置き去りにされないか心配してしまうのです。私個人の考えとしては、日の丸・君が代反対論者はジャンジャン反対運動をすればいいと思いますが、ただし運動は学外で行うべきだと思っています。卒業式は学生が教育課程を修了した認定とお祝いの場ですから、主役の学生を抜きにしてイデオロギー対決を行うのは不誠実だと思うのです。結婚式のスピーチで、自らの投票をお願いする政治家のような・・・ってこの例えはちょっと違いますね。


そんな私個人の考えはどうでもいいのですが、議論を求めていた人達がみんなの前で議論を始めたら「ファシスト!」と言われるのは、いったいどうしたものかと疑問に思ったわけです。他にも「密室政治や根回しばかりが横行して、国会が形骸化している」なんて批判がありましたが、民主党政権になっていきなり会議で提案すると「根回しができていない」なんて批判が起こりましたね。とりあえず政治家は、何をやっても批判されるということでしょうか。

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