ヨハネ・パウロ1世は殺されたのか /20世紀最大の金融スキャンダルへ
ローマ法王またはローマ教皇として知られるバチカン市国の元首は、全世界のカトリック教徒の精神的支柱として多大な影響力を持っています。教皇はローマ司教でありキリストの代理人であり、全世界のカトリック教会の統治者でもあります。そんな教皇のヨハネ・パウロ1世が、1978年に急死ししました。今回はその死に関するミステリーです。
ヨハネ・パウロ1世とは
1912年にイタリアのベッルーノ県に生まれました。敬虔なカトリック信者の母の影響を強く受け、幼い頃から聖職者になることを決め司祭になることを夢見ました。神学校に進み、第二次世界大戦後はベッルーノ教区神学校の教授になります。1958年に司教になり、1970年にはヴェネツィアの総大司教になりました。さらに1973年に枢機卿に選ばれています。
ヨハネ・パウロ1世は清貧の精神を大事にし、質素な生活を行っていました。信者からの寄付をそのまま教会に寄付するなど、金銭に潔癖な面がありました。その潔癖な面が前例のない改革に向かわせ、それが大きな波紋を広げることになりました。
ヨハネ・パウロ1世の改革
ヨハネ・パウロ1世は1978年8月26日に教皇に就任すると、型破りな教皇となり改革を推し進めていきました。豪華な戴冠式を拒否し、教皇冠の使用も拒みました。それまでの教皇は自らを尊厳の複数(日本語の朕、英語のRoyal we)で読んでいましたが、一人称単数(日本語の私、英語のI)で呼びました。さらにラテン語を多用する難解な言い回しも拒否し、周囲から「尊厳がなくなる」と心配されながら平易な言葉で誰にでもわかるように話しました。
また共産党の市長と握手をし、避妊を肯定する発言をするなど、あらゆる伝統に反した言動で周囲を驚かせ、さらにバチカン銀行の改革を表明して、バチカン市国に衝撃を与えました。バチカン銀行のマルチンクス総裁の更迭は決定的で、それ以外にも複数の関係者が更迭されると噂されました。改革派はヨハネ・パウロ1世を熱烈に支持しますが、反対派も多く存在しバチカンでは賛否が分かれることになります。そして9月28日の朝に、自宅で遺体となって発見されました。死因は心臓発作で、教皇在位日数わずか33日の短命な教皇でした。
※マルチンクス大司教 |
デイヴィッド・ヤロップ「法王暗殺」
さまざまな改革を進めようとしていたヨハネ・パウロ1世が急死したことで、死の直後から不穏な噂が囁かれていました。イギリス人のジャーナリスト、デイヴィッド・ヤロップは取材を重ねてその成果を「法王暗殺」という本にまとめて発表します。このヤロップの本は、ヨハネ・パウロ1世が暗殺されたことを世界中に知らしめました。ヤロップはさまざまな疑念を提示しています。
健康体なのに急死した不思議
ヤロップはヨハネ・パウロ1世が健康体であったにも関わらず、急死したことに疑問を呈しました。
早すぎた葬儀屋
ヨハネ・パウロ1世の死は、午前5時半頃に発覚しました。しかし葬儀屋のシニョラッティ社は教皇庁から午前5時に連絡を受けたそうです。なぜ教皇が死ぬ前に葬儀屋に連絡が行ったのでしょうか。
検死も解剖もされなかった
教皇の急死という事態にも関わらず、検死も解剖もされませんでした。まるで証拠を隠滅するかのように、葬儀屋によってすぐに防腐処理が行われました。さらにこの葬儀屋は、真相を語ることなく死亡していたそうです。
マルチンクス総裁の目撃証言
教皇が亡くなった早朝、衛兵がバチカン銀行のマルチンクス総裁を目撃しています。マルチンクス総裁はヨハネ・パウロ1世に更迭されることが決定的でした。なぜ早朝にマルチンクス総裁がいたのか、そしてその直後にヨハネ・パウロ1世は死亡しています。ヤロップは「法王暗殺」の中で、マルチンクス総裁の関与を疑っていました。
ヤロップへの反論「バチカン・ミステリー」
半ばヨハネ・パウロ1世は暗殺されたことが常識のように語られるようになると、バチカン市国にも批判が集まるようになります。自ら事実を公表することも検討されたそうですが、それではバチカンが積極的に証拠を隠滅していると受け取られる可能性が高く、却下されました。そこでイギリスのジャーナリストであり作家でもある、ジョン・コーンウェルに調査を依頼しました。コーンウェルは独自の調査で、ヤロップの指摘には大きな疑問があることを発見し、それを「バチカンミステリー」という本にまとめて発表しています。
健康体なのに急死した不思議
コーンウェルがバチカンの医師などに取材したところ、ヨハネ・パウロ1世は健康体ではなかったことがわかりました。教皇は塞栓症を患っていて、教皇に就任する前にもそれが原因で目の手術をしていました。教皇に就任した時には塞栓症が原因で足が腫れており、靴が履けないほどだったとの証言もありました。ヨハネ・パウロ1世は投薬治療を続けていて、心臓発作が起こっても不思議ではない状態だったのです。
早すぎた葬儀屋
この葬儀屋のシニョラッティ社にもコーンウェルは取材を行っています。このシニョラッティ社は3人兄弟で営まれていて、1人がすでに亡くなっていました。しかし教皇庁に呼ばれたのは存命の2人だったので、コーンウェルは詳細を聞くことができました。ヤロップの本とは違い、実際に教皇庁に呼ばれたのはその日の夕方だったそうです。
ヤロップの調査員の取材を受けたのは亡くなった兄弟で、自分が行ったわけではないので記憶が曖昧で、早朝だったと思うと発言したに過ぎませんでした。とても不正確な記憶が、「法王暗殺」には記載されていたのです。
検死も解剖もされなかった
シニョラッティ社によると、検死も解剖もしないのは、通常の流れだそうです。医師が心臓発作による死亡と判断しており、バチカンにとっては今後押し寄せてくるだろうカトリック信者の対応が重要でした。亡くなった教皇の姿を整え、綺麗な姿を信者に見せるために遺体の腐敗処理を早くやらなければならなかったのです。
マルチンクス総裁の目撃証言
コーンウェルは、教皇が亡くなった朝にマルチンクス総裁を見かけた衛兵にインタビューしています。その衛兵は間違いなく教皇が亡くなった朝にマルチンクス総裁を見かけているのですが、それはその日に限らず毎日同じ時間に見ていたというのです。その日だけ見たような印象を受ける書き方がされているので、いかにもマルチンクス総裁が怪しいように思えますが、実は毎日その時間にいたというわけです。
おさまらない陰謀論
ジョン・コーンウェルは取材をまとめ89年に「バチカンミステリー」を出版しました。デイヴィッド・ヤロップが指摘した疑惑の多くはヤロップの取材の甘さが招いたことであり、ヨハネ・パウロ1世の死に陰謀はなかったと思える内容です。しかし「バチカンミステリー」が出版された翌年に公開された映画が、ヤロップらが主張する陰謀をそのまま引用していました。アル・パチーノ主演の大ヒットシリーズの最新作、「ゴッドファーザーPARTIII」です。教皇の死にまつわるミステリーが、そのまま映画で表現されているというのは話題になり、教皇殺害の陰謀は事実として流布されることになります。
20世紀最大の金融スキャンダル
1926年、イタリア政府(ムッソリーニ政権)は長くローマ問題と言われていたバチカン問題に譲歩し、バチカンを永世中立国であることを認めました。その際に、1870年の教皇領の没収への補償として、教皇庁へ9億4000万ドルを支払います。この資金を元に、1929年にバチカン銀行が設立されました。アンブロシアーノ銀行はバチカン銀行の資金管理を行っており、マルチンクス大司教の庇護を受けていました。マルチンクス大司教はアンブロシアーノ銀行頭取のロベルト・カルヴィと公私共に深く関わっており、蜜月関係にありました。
アンブロシアーノ銀行はマフィアのマネーロンダリングで巨額の利益を上げており、各国の捜査機関の捜査対象になっていました。そのマネーロンダリングが目に余るようになった1981年、イタリア中央銀行はアンブロシアーノ銀行に対して査察を行い、10億ドル以上の使途不明金があることがわかります。これは大スキャンダルになり、頭取のロベルト・カルヴィは偽造パスポートを使って海外に逃亡しました。使途不明金は15億ドルとも言われましたが、この資金はマフィアだけでなくイタリア政財界の大物達、ポーランドの反体制組織、さらにはCIAの関与などが噂され、スキャンダルは収集がつかない規模になります。
※ロベルト・カルヴィ |
1982年6月17日、ロベルト・カルヴィはテムズ川のブラック・フライアーズ橋で、首吊り死体となって発見されました。警察は自殺と発表しましたが、口封じのために殺されたと噂されました。イタリアとイギリスは合同で捜査を行い、暗殺であったことが証明されました。アンブロシアーノ銀行の破綻からカルヴィ暗殺まで、マルチンスク大司教の関与が何度となく噂され、イタリア捜査機関は1983年に逮捕状を検察に請求しました。逮捕状が出ましたが、マルチンスク大司教はバチカン市国という外国にいるため逮捕はできず、1989年までバチカン銀行の総裁を勤めています。マルチンスク大司教が疑惑の目を向けられながら、長期間に渡ってバチカン銀行の総裁を勤められたのは、ヨハネ・パウロ2世の庇護があったからだと言われています。
マルチンスク大司教はクロなのか
マルチンスク大司教がヨハネ・パウロ1世を暗殺したのか、マフィアとの関係を構築しマネーロンダリングを行っていたのか、ロベルト・カルヴィ暗殺に関与したのか、その他噂された非合法組織との関係は本当なのか、全ては謎のままです。高潔さが求められる聖職者ですが、常に犯罪の匂いが付きまとい、晩年は全ての取材を拒否してアメリカの自宅で息を引き取りました。
まとめ
バチカン最大のスキャンダルとも言われるアンブロシアーノ銀行の汚職事件は、ヨハネ・パウロ1世の死から始まったと言えるでしょう。その死に様々な疑惑が付きまとい、暗殺説が広く流布されましたが、その根拠の多くはジョン・コーンウェルによって否定されています。しかしその後のアンブロシアーノ銀行の汚職事件、ロベルト・カルヴィ頭取の暗殺事件などを考えると、ヨハネ・パウロ1世の死にも何かあったのではないかと思ってしまいます。全ては推測に過ぎないので、正確なことは分かりません。しかしバチカンの内部で、様々な思惑が交錯していたのは間違いないと思います。
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